(2)
村が燃えている。
それはツウィンカの世界の崩壊に他ならなかった。今までツウィンカを育んできた小さな箱庭はいとも簡単に、吹きすさぶ炎に飲み込まれていた。息をするのが苦しかったのは、炎の熱気のせいだけではあるまい。実際、目の前の光景から目が離せず、息をするのさえ忘れていた。
悲しいことが起こっているのか、恐ろしいことが起こっているのか、美しいことが起こっているのか、それすらも一瞬のうちには頭が判断できなかった。その間にも、様々な姿を見せる美しい魔物は容赦なくツウィンカの故郷を蹂躙していた。
ようやく我に返り、今自分がここにいる理由は家族を探しに来たからだと頭の中で結びつくと、どっと汗が噴き出し、動悸が止まらなくなった。
身体の外は熱気に包まれ、肌は熱いと悲鳴をあげているにも関わらず、身体の中は氷のように冷え冷えとしていて、足を動かそうにも、口を動かそうにも身体が言うことをきかなかった。震えながらなんとか自らの胸を叩くと、振動で小さな咳が出た。
「リースヒェン、カイ」
その勢いでようやく口が動くようになったツウィンカは、二人の名前を小さく呼んだ。二人の姿が見えない。それなのに、直ぐにも黒い者たちが迫ってくる。どうすることが正解なのか分からず、ツウィンカは混乱した。捕まらずに無事でいることが家族の為になるはずだと思う一方、もしこの火事の中で二人が助けもなく苦しんでいるのなら助け出さなくてはならなかった。例えツウィンカの手が非力だったとしても、結果は関係なくツウィンカはそうしなければならなかった。だから二人がこの中にはいないと確信が持てないと、この場から離れることが出来ない。
ツウィンカが喘ぎながら固まっていると、
カイだ。
顔も輪郭も不明瞭なのに、そうだと分かったのは、見慣れた弟の後姿と一瞬見えた翡翠色の瞳のおかげだった。驚いたツウィンカは言葉を失った。カイが自らの意思でツウィンカの手を引いている。更にあろうことか、カイはツウィンカを導き、前方を走っているのだ。
もしかしたら、これは夢ではあるまいか。手を引かれながら、ツウィンカは分からなくなっていた。船から落ちた魂が、自らをどこにいるのか把握できずに彷徨うように、ツウィンカもどこかの狭間に落ちてしまったのではあるまいか。
「母さんはどこ?」
ようやく動いた口が尋ねたことは、答えが返ってくると思って投げかけたものではなかった。疑問を口に出さずにはいられなかっただけのことだ。
カイがいるのにリースヒェンがいない。リースヒェンは常にカイの傍にいて、カイを世話しているのに。この場に彼女がいないのは、決して平和な理由からではあるまい。ツウィンカの予想に反して、カイはぴたりと歩みを止めて仮面ごとくるりとツウィンカの方を振り返った。
「お前の母親はもういない」
「なに?」
その時初めて、今自分が対峙している人物がカイではない可能性にようやく思い至った。
カイは自らの意思で動かないだけで、促されれば走り、歩く。だが、言葉を発することは生まれてこの方一度もなかった。幾ら後姿がカイだとはいえ、突き詰めて言えばカイと同じ姿をしているとはいえ、カイ自身だとは限らない。
慌てて仮面を剥ぎ取ろうとした。だが伸ばした手はぴたりと静止したまま動かなかった。何が起こったのか理解できなかったツウィンカはもう一度手を動かそうとした。
動かなかった。
力で抑えられているわけではなく、敢えて表現するのなら、腕の感覚が消えていると言った方が近い。この目で腕が見えているのに、まるで錯覚を見ているような、ツウィンカの腕など初めから存在しないかのような感覚だった。ツウィンカの全身を恐怖が取り巻き、再び汗が噴き出た。今まで存在していた肉体が無くなるのは耐え難い恐怖だった。
「仮面を外すと私の存在が弱まる。今日は大晦日だから、これでも道が開けているのだ」
「カイとリースヒェンはどこにいるの」
「お前はこれと共に、この村から出なければならない。それがリースヒェンの願いだ」
仮面を被った何かはこれ、と自らの身体を指示した。まるで、今ツウィンカと話している存在と身体の主とが別物のような言い方である。ツウィンカは自らの恐ろしい考えが、形を帯びてきたように感じた。カイは本来あるべき能力を失うことで、その身に不思議を宿す。だからこそ村人はカイを崇めた。恩恵を受けることが出来るからだ。
カイは恩恵を与えたる神の依り代である。
ツウィンカはたどり着いた答えを投げかけた。
「あんた、あたしの弟の身体を乗っ取ったの?」
「あなた様なのでございますね」
ツウィンカの声と第三者の声が重なった。あの少年だった。
先ほど糸の切れた操り人形のような印象を与えた少年は、今や顔面に歓喜の表情を湛えていた。まるで神に
「こんな山奥にいらっしゃったのですね。随分お探し申し上げました」
「リースヒェンは自らの運命をお前に渡した」
カイに宿った仮面は、少年を無視してツウィンカとの会話を再開させた。仮面の緩慢とした動きは演技がかっていて、何かを模しているようでもあった。少年と言い、仮面の子どもといい、人間でないものが人間の形を借りて交信しているような不自然さがある。それらは決して心地よいものではなく、ツウィンカの感情を刺激した。少年の従える黒い影が動き、ツウィンカと仮面に迫る。
ツウィンカは恐怖に悲鳴を上げた。あれらはツウィンカの幼馴染を残酷に生者から死者に変貌させた。仮面は緩慢に顎を上げる。カイと同じ翡翠の瞳に強い光が宿っている。
舞のようだと思った。ツウィンカは舞を見たことはなかったが、お伽噺に出てくる魔術師に仕える舞姫が、こうして身体の動きが表現する美しさによって他者を魅了することを知っていた。
腕を上げるだけのその動作が果たして美しいのかどうか分からなかったが、緩やかな動きにもかかわらず、指先までぴんと意識が通ったしぐさに、恐怖を忘れて一瞬目を奪われたことは確かだった。仮面の小さな指が指す方向は空。もう夕暮れなどではなかった。
夜である。
雲が一筋の月光さえも覆い隠した。闇だ。蝕のような本当の暗闇に辺りが包まれたかと思うと、目の前が真っ白になり、次の瞬間にはツウィンカは圧倒的な力で頭を押さえつけらた。
天地が割れる。
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