(3)

 ツウィンカが使用する予定の仮面は、去年使ったものに幾らか端切れを付け足したものだった。大作とは呼べないお粗末なものだったが、元々使える物に手を加えたに過ぎないので、不都合はなかった。ツウィンカはこのささやかな創作物を、弟に被せた。

 カイは例年祭りには参加しない。仮面を付ける機会はない。

 だが、仮面を纏うことによって、弟がごく普通の子どもに見えなくもなかった。意思の見えない表情が隠れるからだろうか。

 翡翠の瞳だけが仮面から見えた。それは確かに同じ色であるのに、普段のカイとは違って見えた。

 面白くてカイに触れようとした時だった。


「――何をしているの」


 ひどく感情的な声だった。振り返るとリースヒェンが後ろに立っている。

 母が怒っているのか焦っているのか分からない。ただ、普段のリースヒェンと違って、何かに動揺しているように思えた。その表情は険しい。

 目に力が入っているからだろうか。仮面から見えたカイと同じ、翡翠の瞳がいつもよりも尚濃く見える。驚いたツウィンカは、慌てて弟から仮面を剥ぎ取った。


「仮面の出来を見ようと思って。実際に人が付けているのを見た方が分かりやすいと思ったの」


 けしてカイを苛めていたわけではないと主張しなくてはならなかった。だが、普段にはないリースヒェンの姿に動揺したツウィンカは上手く説明が出来ない。カイだけがいつもと変わらずに虚ろな目をして床に座り込んでいた。

 先に沈黙を破ったのはリースヒェンである。


「そう。でも仮面はあまり他人に着けるものではないわ」


 他人という言い方に違和感を覚えたツウィンカは、何をしたわけでもないのに責められたような恨みがましい気分も手伝って、リースヒェンに反論した。


「カイは家族でしょう」

「自分以外の人間だという意味では他人なの」

「でも」


 尚も言い返すツウィンカに、リースヒェンは額を抑えて息を吐いた。顔を上げると、いつものリースヒェンに戻っていた。

 彼女はまず、ツウィンカに謝罪をした。


「ごめんなさい。驚かせて悪かったわね。例え相手がカイではなくても、自分の仮面を他人に使うのは良くないことよ。名前を他の人に使わないのと同じで、自分の一部を明け渡すのと同じことなの」


 毎年大晦日に仮面を付けているが、そんな話は聞いたこともなかった。仮面は一人一つと決まっているものではない。毎年新調する者もいたが、身内のものを使い回す者も多い。

 その程度の物のはずだ。

 だからリースヒェンの言葉に対して、完全に納得したわけではなかったが、とりあえずは頷くしかなかった。

 カイは目の前で言い争いにも満たない二人のやりとりを、いつものように見つめていた。赤子のように目に見える情報全てを取り込んでいるようであった。決定的に違うことはカイには感情がないということだ。

 促されれば歩き、食べ、眠る。だがそこには感情の一切がなく、笑うことも泣くこともない。人が生きている中で得ることが出来る喜びや悲しみを得られないのに、幸いであると村人は言う。

 それでもリースヒェンは我が子供に優劣をつけずに、同じように扱った。だからツウィンカも、カイが優先されたとは思わない。胸が痛いのは、いつも感情の波が穏やかであるリースヒェンの動揺に触れてしまったからである。

 他人に仮面を付けるということはそれ程、母の目から見て危うい行為に見えたのだろうか。


「今日は大晦日だから、今のうちにイトカと遊んでらっしゃい。夜には遊べなくなりますからね」


 リースヒェンはツウィンカを外へと促した。夜には遊べなくなるとはつまり、ツウィンカとイトカが祭りに参加することを意味していた。大晦日には村の皆が仮面を被って外を練り歩く。

 自分が何者かを明かせないので、仲の良いイトカとは一緒に行動できない。この時ばかりはツウィンカはツウィンカと言う名の人間ではなくなり、生きているのか死んでいるのかも分からない正体不明の人間になる。

 自分が自分であることを認識できるのは一重にその仮面が自分のものであると知っているからだ。

 ツウィンカは自らの仮面を他人に譲渡することを想像した。自分自身であると自らに証明するものは仮面しかないのに、それを明け渡した時、ツウィンカは自分には戻れずに、永遠に正体不明の人間になってしまうのだろうか。

 顔を曇らせたツウィンカは、飾り付けた仮面を無意識に放って立ち上がると、そのまま床を蹴って外に出た。

 その後ろ姿をリースヒェンは暫く見つめていた。




 愛しい我が子だった。

 生まれた時からずっと片時も離れずに傍にいた。ツウィンカもカイも、リースヒェンの守るべき家族であると同時に、生きる理由でもあった。


「一方と違って、もう一方は考える喜びも、大地を踏みしめる楽しみも知らないか」


 幼いが、老獪とも言える声がリースヒェンの心を読み上げた。リースヒェンが声の先を向くと、そこには仮面をまとった子どもが立っていた。

 仮面の輪郭の部分にも端切れが張り巡らされているので、覆い被った人物は一目では誰か認識できない。正体を隠すという点で、仮面の役割を正しく果たしていた。

 だが、この場においてこの背丈の子どもは一人しかいない。子どもは一歩二歩とリースヒェンに近づいた。

 リースヒェンは目を伏せた。今自分がどういう顔をしているのか、リースヒェンには自覚があった。崇拝とは違う色を見せていることだろう。

 彼女は今や巫女である前に母親であった。


「おいででございましたか」


 それには答えずに、仮面の子どもはリースヒェンとは反対の方角を見た。何を見ているのかとその先の家具を見て、それから直ぐに思い至った。

 南である。

 ノルズリの先には海しかない。

 村では禍因も福因も、何かが訪れる時は必ず南からやって来る。


「何がやって来るのですか」

「お前たち親子にとって良くないものだ」

「何てこと」

「南へ行け」

「そんな」


 リースヒェンは驚愕した。仮面の預言に対して、リースヒェンは一度も首を横に降ったことがない。彼らにはある種利害関係が働いていて、仮面がリースヒェンを害することはなかった。

 ――良くないものがやって来る。

 彼女が驚愕したのは、それが何者であるのか予想が出来たからである。全てに別れを告げる覚悟をリースヒェンはしなければならない。

 深呼吸をしたリースヒェンは、再び顔を上げる。

 その時だった。

 ごとり、と何か重いものが落ちる音が聞こえた。 咄嗟に背後を振り返ると、戸口には老婆が立っていた。老婆は自らの持つ仮面を落としてしまったようだった。

 彼女は皺だらけの目を見開いて、リースヒェンと仮面を付けた子どもを見比べ、そして膝を折った。


「おいでになられたのですね。そうだろう、リースヒェン」

「エンジュビェタ、扉を勝手に開けたのね」


 リースヒェンは咎めるような眼を老婆に向けた。扉は呪術であり、守りである。それを破った者に、呪術師はその場所の守護者として禍を与えなければならなかった。

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