催された大祭
そら
催された大祭
東京の比較的閑静な下町のとある通りは、真っ盛りの夏の陽光を散々に浴びて幾らかくたびれていた。
夏の日の夕暮れ時とは、そんな風に疲れた表情をしていることがよくある。
橙色、というよりは紺色が多く含まれたようなそんな弱々しい日差しの空には小さな、ふっくらとした雲がゆるゆると浮かんでいる。
少年は首元が汗でしっとりと湿ったユニフォームが心地悪くて仕方がなかった。
グローブとバットと水筒と、その他諸々の荷物の重さにはとうに慣れたはずであるのに、殊更に暑かった今日のような日には、再びその重さをはっきりと思い知らされるのである。
家に帰ったら先ずはどうしようか?
と、悩む少年の隣を一台の軽トラックが走り去る。
少年は気がつかなかったが、この軽トラックの荷台には後日、近所の河原で行われる花火大会に向けた諸々の道具が積まれているのである。
運転手は花火師の一人で、花火道具を倉庫へと運んでいる最中であった。
トラックは狭い道を、少年をかわして巧みにすり抜けていったが、予想外に
少年の持つ荷物が道幅を占領していたので、トラックはぎりぎりまで道の反対側へと寄らなければならなかった。
現代都市東京とは思えないような通りであるが、確かに存在しているのである。
その通りは運転手にとって馴染みの通りであったから、危なげなく少年を避けることが出来、少年もまた、いつものことであるから別段気にする事はなかった。
ただ、あまりに道端を攻めたものだから少年から見て、左前方にある
半分シャッターを下ろした閉店済みの古書店の入り口付近の乱雑に積まれている
古本に、タイヤの巻き起こした風圧が、ばさ、ばさ、と叩きつけられた。
すると、その内の一冊の本などは頁がぱらぱらとめくられた。
今のはちょっとだけ危なかったかな?
などと考えながら少年はまた再び、家に帰ったら…と幸せな悩みを続ける。
少年は気が付かなかったが、偶然にも頁がめくられることになったその一冊の古本とは、古代中国において成立した預言書『ハシャギョエン』についてをまとめたものなのである。
『ハシャギョエン』を知っている人は、或いはもういないのかもしれない。
漢字では『歯車御園』と表す。
『歯車御園』は紀元後間もなくに編まれ、百数冊存在した原本のうち、現存するのは中国のある歴史家と、ドイツのある収集家の手許の、併せて二冊だけである。
『歯車御園』において、世界は二つに分けられる。
“現世界”と“地下現世界”である。
現世界とは我々の暮らす世界である。
対する地下現世界については、四次元断面についての云々、量子力学と光学について云々、といった視点から精密に考察を進めることも出来るのだが、ここでは端的に言っておこう。
それは、言わば我々の世界の遙か地下に存在する不可接触世界であり、現世界における様々な不確定要素の生成と現象を司る役割を果たしている。
つまるところ、我々の世界に「偶然」をもたらす存在であると考えていいだろう。
そんなものがどうして存在するのか?と、多くの人は疑問に感じるであろう。
それを理解する為には遙かなる知恵と知性の熟成が要求される。
それに、実際、我々がそれを理解する必要は無いのである。
ただ、我々は理としてそれを受け入れればいいのであり、また、そうしなければならないのである。
『歯車御園』はその内容が極めて難解であったがために後世ではすっかり廃れてしまったのであるが、ここに事実として判然と断言しておこう。
それは正しいのである。
さて、話を元に戻すと、少年の気にとめなかったこの古本。
これこそは正しく、中国のたった一人の『歯車御園』研究者である歴史家が、
現在喉から手が出るほどに求めて止まない、世界でたった一冊の注釈書なのである。
無論、古代中国語で記された書物である。
そして、風圧によって偶然にも開かれた頁の一部を翻訳すると次のような事が書かれている。
西暦二千二十年七月二十四日午後六時三十五分、御園にて大祭催すべし
日付は正しく今日を指している。現在時刻は午後六時三十分。
この“大祭”が如何なるものかを知るためには、諸君らは先だって地下現世界の実像を知っておく必要があるだろう。
地下現世界とは、周囲を岩壁に覆われた光の射さない洞窟の世界である。
白石の巨大な塔を中心にして飾り気の無い住居が建ち並び、各所には申し訳程度の光源として、松明がぱちぱちと乾いた音をたてている。
直径にして十数㎞程の土地の周りには水が広く深くはっていて、それはさながら
洞窟内に出来た孤島のようである。
その孤島は御園と呼ばれ、深い闇に包まれた薄明かりの下で三十八名の住民が暮らしている。
彼等は周囲の水辺に流れ着く、現世界の歪みを糧として生きている。
彼等は調整者なのである。
我々と彼等の関係は、地球と月の関係とよく似たものがある。
というのも、我々の住む現世界と地下現世界との絶えざる緊張状態によって、
そこには中庸が生まれるからである。
中庸とは理である。
理であるならばこれ以上の言及は必要ではないだろう。
彼等の容姿、それは少々奇怪である。
彼等は皆、体が銅製の歯車で複雑に構成されたからくり人形のような見た目をしている。
“人形”とは少々誤解を招く言い方であった。
彼らの全てが人の形をしているわけでは無くて、猫の姿のものあれば鳥の姿のものもいるのである。
更に厳密に表すとすれば、人間型一八体、猫型三体、鳥型六体、蛇型六体、牛型二体、豚型三体である。
彼等は言葉を持たない。悠久の時をただ過ごすのである。
そして、また、それに耐えうる穏やかな知性を備えている。
時には水辺で釣りをしてみたり(彼等の他に生命体は存在しない)、椅子の上でただじっとしていたり、
彼等が体を動かす度に、全身を構成する歯車のどこかが、からからと空回りをする。
実によく彼等を注意して観察すると、彼等の体のどの部分の歯車もそれぞれが
独立したものであり、一つとしてかみ合ってはいないことが分かる。
その為に彼等はことある毎に、からからという虚しい音を辺りに響かせるのであるが、この運動こそが正しく、現世界に影響を及ぼしているのである。
歯車が右に一回転すれば、正の偶然が、左に回れば負の偶然が現世界のどこかで
発生する。という訳である。
彼等の体を構成する歯車は個体にもよるが少なくとも大小合わせて百個以上は有しているから、日々相当な数の偶然が生み出されていることが分かることだろう。
また、ここで断っておかなければならないのは、それらの偶然の全ては正負共に
等しく、ほんのささやかなものであって、それらは一つ一つの働きにおいて現世界に目立った影響を与えないということである。
しかし、ほんのささやかな偶然とは、因果によって対応する傾きへの蓋然性を強めていくものである。つまり、御園内において、一挙に歯車の回転が一方向に集中してしまうようなことがあると、現世界において非常な好転、もしくは非常な暗転が
生じやすくなる。ということである。
歯車の産みだす正と負については概ね人類生存に即したものと考えてよい。
例えば、遠い昔、御園において一体と一体の人間型による取っ組み合いが生じた
際には、双方の歯車の多くが猛烈な右回転を起こして、現世界で各国の医療体制が
僅かに充実に向けて進んだことがある。
更に遠い昔には一羽の鳥型の個体が数十分間に渡って牛の個体に追いかけ回されたが為に生じた急激な左回転運動の末、全ての海域において、ハリケーンが頻発したというケースもある。
人間の営みは全てが「努力」であり、それを取り巻いているのが「偶然」である。
我々の世界とは、実にこのようにして回っているのである。
さて、いよいよ「大祭」に話を戻そう。
大祭とは早い話が“鬼ごっこ”である。
三十八体の個体が参加する四百年に一度の鬼ごっこ。
二つの世界の奇妙な共通点である“鬼ごっこ”という言葉を聞くと、多くの人々は
和気藹々とした光景を連想しがちであるが、ここまでの話を辿ってきた諸君らは
気が気でない思いであろう。
古くは氷河期の到来と終結を招いたこともあるこの大祭には、地球上の諸問題が
関わっていると考えるべきである。
本日より十と六の日数をかけて行われる鬼ごっこにおいて、歯車の右回転と左回転
の回数が相殺し合うなどという都合のいい展開は今まで一度たりとも無かったのだから。
国際関係・環境・世界経済・人類科学
我々は世界的な大祭を前に祈るほかないのである。
どうか、世界が少しでも良くなりますように。
少年は夜の帳の下りつつある街を、尚も歩き続けていた。
家に着いたらすぐにユニフォームを脱ぎ捨てて、冷房の効いた快適な部屋で夕飯まで横になろう
そう決めた少年の足取りは軽やかであった。
夏の夜とは不思議と心が躍るものである。
少年は、近々行われる花火大会にふと、思いを馳せた。
その時、地下現世界の大祭において、最も歯車を多く有する人間型の個体が、オニとなった豚型の個体に追いかけられている最中であった。
オニに追い詰められたその個体は、灯りのまばらな暗い道の上で躓き、
傾斜の急な下り坂を真っ逆さまにころげ落ちていった。
からからと歯車の回転する音が闇の中から響く。
少年は突然、発砲音のような音を耳にした。
追うようにして、にわかに、ぱん。
という音がどこからか鳴り響き、目の前の夜空に大きな花火が一発、
見事な光彩を輝かせて開いた。
少年は首をかしげたが、思わぬ偶然に喜びを覚えた。
さて、これは一体?
催された大祭 そら @19991227
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