生の値
魔病 第一
ようやく夜が白々と明け始めると、ケロウジは橋の下を流れる川へ降りていく。担いだ水瓶に水を汲むと、
靄の向こうで紅葉する木々は今も美しいけれど、足もとの草花にはしっかりと霜が降りている。もう冬が近いな、とケロウジは思う。
もう朝晩は綿のたくさん詰まった上着がなければ寒くてブルリとするくらいだ。
しばらくぼぅっと山を眺めていたケロウジは、思い出してバタバタと家へ走っていく。
「ササ、水を汲んで来たぞ。大丈夫か?」
「おぅ……悪いな。いってて……」
そろりと体を起こしたササは、そのままお気に入りの座布団に逆戻りした。そうしてクルンと丸まって震える。
「白湯がいいだろう。もう少し待ってろよ」
ケロウジは言いながら、昨日の夜から火にかけたままの鍋に水を足す。
「冷たい水が飲みたい……」
「腹が痛いってのに冷たいのはダメだな。今日は一段と寒いんだから」
昨日、ハナガサの家での療養を終えたケロウジがササと五日ぶりに家に帰って来た。
その日の夜からササは痛い、痛いと言って丸まっている。
「おじさんの家は隙間風なんか入らなかったからなぁ。冷えたのかもな」
ケロウジの言葉に、ササは呻くような声で違うと言った。
「お前、何で光草が獣除けになるか知ってるか?」
「いや。そういう物だとしか知らないな」
「光草は魔力を吸う。だから光草は溜め込んだ魔力で光るんだ。そんで獣たちは、自分の体に流れる魔力を調節できねぇ」
ササは途切れ途切れに説明する。
昨日の夜は説明する事もできない程だったので、ケロウジは少し安心して話を聞く。
「魔力を溜めた光草に触れると、体にバァッとそれが流れ込んでくるんだ。獣たちはそれを嫌って光ってる光草には近寄らねぇんだよ。パチッと来るからな」
「そんな理由だったのかぁ。じゃあ光が強い光草の方が効くんだな?」
「あぁ。だが、俺みたいな……つまり魔物には効かねぇぞ。俺たちは魔力を出したり入れたり好きに出来るからな。だから俺は町に入れるんだ」
そういえば、とケロウジは思う。
町に入る時、道と山を隔てる獣除けの柵を越える時、ササは平気な顔でぴょんと越えていた。
どうだ、と言いたげにササは二ッと笑う。
「それで、ササの腹が痛いのと関係があるのか?」
「おぅ。俺は五日もハナガサの屋敷にいたんだぞ。あの港町にはあっちこっちに光草の縄やら煎じたものやらが撒かれてんだ。ちょっと魔力に酔っちまってよぉ。なに、お前が魔力を吸う前の光草を見つけて来てくれりゃあ済む話だ」
魔力を吸う前で光を放っていない光草を少量ずつ食べると治るのだと、ササは言う。
「饅頭にでも混ぜてくれりゃあすぐに治る気がするんだけどなぁ」
「それ食べたいだけじゃないか。まぁいいけど。どのくらいいるんだ?」
「一本でいい。一本を三回くらいに分けるんだ。でないと俺が大変な事になるからな」
「分かったよ」
それじゃあ早いとこ探しに行こうと、ケロウジが立ち上がる。
すると家の戸が開いた。そこには柿の入った籠を抱えたハナガサが立っている。その目がまん丸に見開かれるので、ケロウジは言い訳ができない事を悟った。
「ありゃ……おはようございます」
「魔獣……なのか?」
「そうみたいですね」
しばらく立ち尽くしていたハナガサだったが、急に「あっ!」と声を上げてササに駆け寄る。
ケロウジが止める間もなくそれを見ていると、ハナガサは言った。
「魔病を起こしているな」
「へぇ、人間は魔病って言うのか」
ハナガサの言葉にササが答えた。ハナガサは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに「具合はどうだ?」と聞く。
「どうもこうも、最悪だってぇの。だからケロウジがたった五日でケロッと治ってくれたのは助かったぜ」
その言葉に、ハナガサは眉をひそめる。なので、ケロウジは諦めて告げた。
「そいつはササです」
それから魔獣が光草の縄なんかを越えられる話をすると、ハナガサは目も口もぽっかりと開けてササを見る。
「それではお前は……やっぱり、ササなのか?」
「あぁ。お前の家、居心地は良かったぜ」
「そ、そうか。あぁ……いや、そうだな。先ずは診るか」
見つかったのが他の魔獣師なら対応は違っただろうが、ハナガサは獣たちが好きなのだ。それは撫でくりまわして嫌われるほどに。
ハナガサはケロウジを咎めたりはせずにササの診察を始めた。
「これなら一発でっかい魔術でも打ち上げるか、光っていない光草が一本あれば治るのだが、あれは探すのが難しくて手持ちがないんだ。かと言ってでっかい魔術をやれば他の魔獣師たちが集まって来てしまうしなぁ……」
ハナガサは囲炉裏の前の座布団で丸くなるササを撫でながら頭を捻る。
「まぁ、ゆっくり探してくれよ」
ササはそう言ってヘヘッと笑う。
「なぁ、ケロ」
「はい……」
「私が獣たちを愛してやまない事は知っているな?」
「はい……」
「お前はすぐに隠そうとする。それはお前の悪い癖だぞ」
そんな話から始まり、ハナガサの小言はすっかり朝靄が晴れてしまうまで続いた。
けれどその間にも柿を剥いてササに食わせてやったり、白湯を飲ませてやったりとハナガサは忙しなく動いている。
いい人なのだ、とケロウジは思う。
それでも言えなかったのは、ササたち魔獣にとって人間がどんな存在であるか分からなかったからだ。それをササに聞けなかったから。
ケロウジがそんな風に考えている間にも、ハナガサの小言は続く。
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