幸せの鍵
春風月葉
幸せの鍵
ある街の裕福な家庭に少女は生まれた。名前はエメ。両親との恵まれた日々の中でエメは心の優しい子に育った。彼女の幸せは今後も変わることなく続くはずだった。しかし、幸福な日常との別れは突然に訪れた。
始まりは雪の降る日、エメの父親が病で亡くなったことだった。そこから少しずつ、そして確実に彼女の運命の歯車は狂いだした。エメの母は父を失ってから口数が減っていた。エメは幼いながらもそのことに気づき、母を心配していた。そんな母がある日を境に以前のように口を開くようになった。エメはそんな母の変化を喜んだ。
母の口数が戻る頃にはエメの暮らしは随分と貧しくなっていたがエメはまったく気にならなかった。彼女にとってそれらは母との幸せな毎日の付属品でしかなかったのだ。しかし、それが誰にとってもそうではないということを幼いエメはまだ知らなかった。
母の口数が戻り、以前までの明るさが戻ったことを最初は喜んだが、エメは少しずつ母の違和感に気づき始めた。父の代わりに仕事を始めたことは知っていたため、忙しいだろうことは分かっていたが、母の帰ってくる時間は毎日遅くなり、ついにはエメの起きている時間に帰ってこなくなってしまっていたのだ。エメは母に自分も働くと主張した。少しでも母の負担を減らしたっかった。そして母といる時間を増やしたかったのだ。しかし、母はエメの主張を笑った。そして、そんなことよりもお父さんが見つかったと口にした。
エメは泣いた。父がもういないことが、自分でも分かっていたことが、母には分かっていなかったのだということに深く傷ついた。母はきっと、もういない父の幻を見ているのだとそう思った。しかし、エメの予想は裏切られることになる。
母が新しい父を連れてきた。エメは言った。その人はお父さんじゃないと。その声は母に届かなかった。エメは新たな父を受け入れることができず、母もそんなエメを受け入れなくなった。
エメは新しい父親を拒んだが、彼はエメに歩み寄ろうとしていた。熊のぬいぐるみを買ってきたこともあった。しかし、いつからか挨拶だけを残し、口を開かなくなった。
新しい父親は父ほど稼ぎが多くはないようで、母とよく口論になっていた。エメは毎晩、ベッドの中で二人の声が消えるまで震えていた。
運命の日、エメは捨てられた。新しい父親に任せ、母は仕事辞めたが父親一人の稼ぎだけでは三人を養えず、母とエメの関係も父親が来てからは悪くなる一方だったため、エメ自身も自分がいらない存在になっていることには気が付いていた。気が付いていたが、実際に捨てられたことは悲しかった。
もっと早く新しい父親を受け入れていれば、母の代わりに少しででも働いていれば、そんな後悔ばかりが頭の中をズリズリと這い回った。そして、彼女の中に一つの考えが浮かんだ。必要な存在になることができれば、もう一度帰れるのではないかという、幼く浅はかな考えだ。
エメは貧しい家のためにお金を集めた。親切な大人がやり方はすべて教えてくれた。父を受け入れるために本当の父を忘れようとしたが、それはできなかった。幸せだった日々を思い出すと頭の奥が痛んだ。
どれだけ時間がたっただろう。エメは袋にいっぱいのお金を片手に持って家に帰った。扉を叩くと新しい父親が現れた。最後に見た印象と比べると随分痩せて頼りない雰囲気になっていた。彼はエメを一目見ると大粒の涙をボロボロと流しながらおかえりと言った。他人のはずだった男にそのときエメは初めて父親の影を感じた。
エメはきっとこれからすべてが元に戻って望む方向に進むのだと思った。母と和解できれば、また幸せな時間を取り戻せると実感した。エメは父に母の場所を訪ねた。父は下唇を噛み、目を閉じてうつむいた。母は半月前に過労で他界してしまったらしい。父が言うにはエメの安心して帰ってこられる場所を作りたがっていたらしい。エメの手から硬貨が零れ落ちた。止まらない涙が足元の雪を溶かした。
エメは分厚い雲の向こう側に向かって弱く、しかし確かに呟いた。
…ただいま。
幸せの鍵 春風月葉 @HarukazeTsukiha
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