顔の見えないあの子と私の邂逅
鈴原ヒナギク
今年の夏の日の話
電灯の消えた美術室に、女の子が一人。顔は見えない。風でふくらんだカーテンに隠されて、胸元から上を見ることすらできない。私がいる教卓側の入り口からでは。彼女は教室隅一番後ろ、全開の窓にもたれかかっていた。うちの女子制服で、華奢な雰囲気があるところからして、確実に女子生徒ではあるだろうけど。
カーテンは揺れる。レモン色のカーテンは厚い素材ではないから、日の光がほんのりと透ける。夏だというのに、風に吹かれ、ひだを作っては解きを繰り返す。それでも見えない。口を見ることすらこの位置からでは叶わない。
夏休みの午前十二時過ぎ、こんな時間にここに居るのは、大体同じ部活の人だろう。けれど、誰だか分からない。それに、さっきまでここに人は居なかった。さっきまで私しか、残ってなかったのに。入ったのにも気が付かなかった。他の文化部の生徒だろうか。うちで部活が午前中に終わる部活は、美術部とか文芸部とか、そこら辺の部だけだ。私もそのうちの一人で。そういう人が部活帰りに寄るような場所じゃない。帰宅部の人が夏休みに学校に来る理由はない。今日は模試や補習も無かったからなおさらだ。それを考えると、引退後遊びに来た三年生ではない事も判断できる。じゃあ。
一体誰だろう。何故だか無性に気になる。例えるなら、長い糸に繋がれていて、それに少しずつ引っ張られる。そんな感じ。
よっぽど暇なのか。話しかけてみようか。何か考え事をしている最中かも。話しかけたら怒られるかも。放っておいてと。話しかけるにしても何と言えばいいのか。何をしてるんですか、生きてるんです、とか返されたら。ならせめて、窓を閉めて帰ってほしいと話しかけようか。その後なんて言えば。二言目が見つからない。言葉を返された後に、反応できるかどうか。言葉に出して説明するのは、正直に言って苦手だ。というかこの人何年生なんだ。遠目から、靴の色を確認する。黄色──二年生。同学年なら、多少は話しかけやすい。けど。
私が逡巡していると。
「あんたの、あの絵さ」
彼女から発せられたようだった。良く響く声だ。高くもなく低くもなく、良く通る声。どこかで聞いたことがあるような気がするけど──。返事を忘れ、私は天井を見て考えた。
「あんな絵でいいの。迷ってばっかじゃん」
バっと顔をあちらに向け、止まってしまった。ぴしゃり。そんな音が聞こえてきそうな一言だった。はっきり言ったこの人。
私は言った。
「部活で描いてる絵の事かな。あの大きいやつ。何でそう思うの」
重い口調で、言ってしまった。私の悪い癖だ。何か不機嫌なことがあるとすぐ、感情的な口調になってしまう。しかも大分低い声で言ってしまった。多分聞き取りづらいだろうと、相手の心情を察して申し訳なくなった。
「ごめんさっき何て、あーいや、理解したから言わなくていいわ。えーと。描いては消して、繰り返してるでしょ、あんた。しかも細かい部分にばかり凝って」
「別にダメなわけじゃあないでしょ」
「そりゃあ、ダメではないけどさ。締切があるでしょ。ずいぶん時間が掛かってるような。大丈夫。ちゃんと間に合うの」
「お母さんみたいなこと言うね、さっきから」これは割と正直な感想だ。
「そりゃあ心配するよ」
「うーん、心配される筋合いは無いかなあ」
そもそも誰だ君は、とは、流石に聞けない。失礼だ。相手は私が誰だか分かっているのか。話し方からして把握してると思うけど。思うけど。カーテンで顔が隠れているはずなのに、どうやって見ていたのか。このカーテン、もしや透けた素材だから、顔の判別は出来るのか。そこまで周囲に知られていたか。いやどうだか。それとも、顔以外の特徴で把握したのか。足音とか。特徴的な歩き方はしてない。
考えていても分からない。聞かなければ分からないな、これは。
聞きたい、知りたい。時間のある限り。二〇二〇年、この夏の、この場で。今。そうでないと、彼女が遠くまで行ってしまうような予感が、私にはした。それは儚く消えるような。繋がっていた糸が切れ、崖の下へ落ちていくような。そんな予感だ。
「いつ、ここに来たの」
「さっき」
「いつの間に──。全く気づかなかった」
「まあねー。隠密行動は得意だから、私」
「わあ、初めて君の口から熟語が出てきた」
「馬鹿にしてる」
「遠慮はしてないね。確かに。何だか懐かしい感じがするんだ。──あ。嫌だったらごめん」
「それは別にいいよ。──ところでさ」
「なに」
「いやーずいぶんと、あんた、集中してたな、と。部活中」
「まあ、今回の絵は大事だからね」
「何か、気迫があった」
「──そっか」
当たり前だと言うか、それとも、そんな事はないと言うか。
私が今回絵を一生懸命描いているのは、自分の全てを注ぎ込むためだ。
──いや。それはもしかしたら、それはただの建前かもしれない。
「何かにこだわってる感じがしたんだ。絵の細かい部分じゃない、別のところ」
「多分、それは」
「それは、何」
「それは──」
私は顔を下げた。女の子の顔は見えないはずなのに、視線を感じる。
分かっている。もう、自分で言葉にできる。けれど、口にできない。したくない。声に出して、自分の本音を認識してしまうのが。何よりも。
私は逡巡した。使われていない教室は、静寂。響くのは風と、蝉の音のみ。
それを払った言葉、ひとつ。
「より良い賞を取るため」
私は顔を上げた。大きく目を見開いているのが自分でも分かった。彼女は、こちらの顔は見えているのか。もし私の顔がはっきり判別できているなら、きっとバレているだろう。それが図星だと。
この先どうなるか分からない。それは、今年、二〇二〇年の情勢において顕著で。いつ休校になるか、部活動が禁止になるか、分からない。もし何か起こったら、応募したい絵も完成させられない。家に持っていくのも難儀な大きさだから、なおさら。
それに加えて。
私は他人によく見られたいと思っていた。他人からの評価が上がれば、進学にも生かせる。そして何より。
生きていていい。周囲から良い評価を貰うことによって、そう言われているように感じるからだ。感じられるからだ。
全てにおいて自信がないのは自覚している。直さなければいけないと、分かっている。それでもふと、思ってしまうことがある。
もっと求められる人間になりたいと。
「もう、今にも泣きそうだよ。大丈夫」
「ははは。そう言うってことは、見えてるんだね、こっちの顔」
声が自然と大きくなる。笑い声は暗く、乾いていた。
「──描けないんだよ、好きなように。このままじゃ駄目だ、このままだと、どれだけ時間をかけても入賞なんて出来やしない。だったらどう描けばいいかって。どうしても」
どうしても、迷っちゃうんだよ。
私は言った。一拍。顔の見えないあの子は言った。
「じゃあ、迷わなければいいじゃん」
その言葉で、私の中の、何かの紐が切れた。胸から、苦しいような熱いような、煙にも似たものが噴き出す感覚がした。
私は走り出す。整然と置かれているだけで用途を果たしていない机の間を抜け、椅子の足にぶつかり、それでも走る。頬に脇に、背中に何かが伝う。でも私には、それが何なのか分からなかった。女の子の元に辿り着くまでは。
教室は決して広くない。だというのに、彼女の目の前に立つまでに、ずいぶん時間がかかった気がした。
不思議と息が切れる。私は手に持った。彼女の前にかかる、日光退色したカーテンを。女の子は何も言わない。私がこれからする事を理解しているのか。そうだとしたら何故止めないのか。顔を見られても平気だと言うのか。なら何故顔なんか隠してるんだ。そもそも君は。
一体誰なんだ。
私は叫んだ。軽々と、あっさりと、そんなこと口にするな。
言うならせめて──。
その顔見せて、面と向かってからにしろ!
私はカーテンを開いた。破けてしまうのではないかと、自分でも一瞬思うほどに。カーテンの向こうにあったのは。
──どおりで、聞いた声だと思った。聞いたことのある口調だと思った。どこか覚えのある、ものの考え方だと。
カーテンの向こうにあったのは、友人の顔だった。
それも、中学では元美術部同士、絵の制作や創作について良く語り合った友人だ。容姿もほとんど変わっていない。それぞれ別の高校に進学したから、あの時のように話す機会も無くなると、そう思っていた。
はっきりとした物言いをする奴だ。色んな意味で容赦ない。遠慮もない。そこも全く変わっていなかった。
彼女の顔を見て、すべての気力が抜けた。流れていた汗が一気に冷え、私の中にあった固定観念が溶け去った。私は目をつむり、軽くため息をついた。
再び目を開けると。
彼女は居なくなっていた。
家に帰ってすぐ、私は友人に電話した。彼女は電話に出てくれた。──寝起きの声で。さっきまで夢を見ていて、それは、何故かうちの制服を着て、窓の開いた教室で、私と話をするものだったそうだ。
会話の最後、彼女は言った。
自分が描きたい絵を描いてよ。あたし、あんたの描く絵が楽しみなんだからね。
今思えばおかしな話だ。この科学に囲まれた時代、二〇二〇年に、こんな不思議現象が起こるなんて。でも。
おかげで吹っ切れた。これでもう、私の作業進行も問題なくなるはずだ。あの一言で、あの一言だけで、私は立てると思えたから。
夏休みの美術室。頬を伝う汗を拭いながら、私は絵筆をとった。
顔の見えないあの子と私の邂逅 鈴原ヒナギク @Hinagiku_Suzuyama
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