第17話 ファイアバード(3)
イレーネの宣言を耳にした兵たちは蜘蛛の子のように、無人の街へ散っていく。
カルディツァの家という家が貪られた。
真っ先に標的になったのは疎開した商人の屋敷。
金品はほとんど残っていないが、食糧庫や酒蔵は手つかずに等しかった。
宝剣、宝槍、
見るに
「そんな心持ちで、よくカルディツァ郡が治められていたものね」
イレーネ・マルキウス「殿下」から冷ややかな視線を向けられた。
イレーネとユーティミアは、最初の会談以来、二度目の対面だ。郡司代行を務めたこともあり、領主の屋敷に向かう馬車に同乗することを許された。
「そのようにおっしゃるのでしたら、引き継ぎなんていりませんね。イレーネ閣下。お屋敷をご案内したら、王都へ帰らせていただきます」
「お待ちなさいな。歩いて帰るおつもり?」
「えっ――何をおっしゃっているんです?」
敵陣に乗り込んだとき、ユーティミアが乗っていた馬車があったはずだ。
しかし、
「カルディツァ市は引き渡しました。まことに不本意ながら、
「まあ、落ち着きなさい。几帳面なあなたのこと。帳簿類があるはずでしょう」
「そんなもの。とっくに処分しました。私たちが汗水流して働いて作ったモノはすべてぶち壊しか、奪い取るおつもりで――」
頬に鋭い痛み。目の前の「貴人」に
目を見開いて凝視するも、とうに「貴人」は退屈そうに馬車の外を見ていた。
「まあ、いいわ。どうせ、あなたの頭の中に全部入っているんでしょう?」
それは事実だ。
帳簿類は処分せず、本当は臨時郡都ミトロポリに移してある。
だが、帳簿の中身のほとんどをユーティミアは把握していた。
でも、それをひけらかしたところで、いいことはなにもない。
「いくらなんでも、買いかぶりすぎですよ。閣下」
「――殿下とお呼びなさいなッ!」
「それはいたしかねます。私が殿下とお呼びする方は、この世に三人――いえ、今はおふたりしかいないのですから」
心底不愉快そうな眼差しにも、ユーティミアは動じない。
ファビア・ウァルスのほうがよほど怖い。イレーネにはない恐怖を抱いていた。
なにより。今は自らがあの『竜殺し』の代行だ。退けない一線がある。
「口だけは達者ね。小生意気な娘のくせに」
「いえいえ。私なんて、大蔵卿ユリアヌス候の爪先にすら及ばぬ若輩です」
マルキウス氏族と取引関係にある要人の名を口に出す。
思うところがあるのか。イレーネが苦虫を噛み潰したような顔で、押し黙った。
ほどなく、馬車はカルディツァ領主の屋敷に到着した。
「なにこれ! 何にもないじゃないの!」
「我が主やその従者の持ち物はすべて引き払いました。手垢のついたものを残されてもご迷惑でしょうから」
頭に血が上り、顔を真っ赤にしたイレーネ。
ものともせず淡々とユーティミアが語った。
「建物は前領主のものから手をつけず残してあります。どうぞお好きなようにお使いください」
「…………」
「
「――ありがたく思いなさい。用済みになったら、私の手で貴様を切り刻んでやる」
吐き捨てられた言葉に、ため息がこぼれた。
(これくらいの煽りに簡単に乗るなんて。案外小物よねえ)
これがマルキウス氏族の現当主か。
大御所イメルダ・マルキウスも、先が思いやられるのではないか。
むしろ、後継者の器に不安があったから、イメルダ自身が健在なうちに「王朝」を確立したかったのかもしれない。
「ソイツをつまみ出して! しばらく顔も見たくないわ」
星降る宵の寒空の下。イレーネの一言で領主の屋敷から追い出されたユーティミアは、テッサリア占領下のカルディツァをつぶさに見ていた。
街のいたるところが食い荒らされていた。
もぬけの殻の民家や商家に踏み入り目星をつけては突き回る。
置き去りの酒やメシを食い散らかす様はゴミを漁るカラスか。
それらと違わぬテッサリア兵どもが
それを止めることすらできないユーティミアは、目をつぶるほかない。
(――アントニウス卿。あなたの見立ては――当たっていたようです)
ほどなく。前触れのない爆発が起こった。
家が吹き飛び、煙突から火柱が立ち上る。
(始まりましたね――しかし、これほどの音がするとは――)
叫びの色合いが酒池肉林から阿鼻叫喚へと様変わりする。
予告されていたとはいえ、目の前の光景に足が
(運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌にして合戦すべし――あの時は難しい言葉を言われて、よくわかんなかったけど。まるでアントニウス卿の手のひらの上に敵がいるかのようだわ)
もっとも掠奪の被害を受けた商家では、兵たちが酒樽をひっくり返す勢いで、酒宴に興じていた。そこで数度の爆発が立て続けに起こった。
それらが連鎖して間もなく、ひときわ大きな爆咆。悲鳴と破裂の混ざった耳を引き裂く轟音。
屋敷からイレーネ・マルキウスとファビア・ウァルスが飛び出してきた。
「な、なに! 敵襲? ファビア、いったいどうなっているの!」
「わかりません! 大規模な魔術が仕掛けられた形跡もないはずです!」
動揺する二人に、つかつかとユーティミアが駆け寄る。
「イレーネ閣下! この
ユーティミアは
ここぞとばかりに、感情を爆発させて、イレーネに食い下がる。
「私たちは進んでカルディツァを明け渡した。なのに
「し、知らない! 知るわけがないでしょう!」
「いったい私との約束はなんだったんですかッ。何もかもずっと耐えてきましたが、もう我慢なりません!」
「貴様、何を!」
「汝、वक्रःकुक्कुटाः! 翼よ、我が
腐っても大豪族マルキウスの娘、老いてなお健勝なイメルダの懐刀。
魔術を知る者であれば、ユーティミアの叫んだ言葉がなにか即座に悟る。しかし、止められない。
「直接召喚魔術、だと……!」
虫も殺せぬ顔立ちをした「小娘」が唱える短い術式に、テッサリアの要人二人が「しまった」と後手を踏んだと思い知るも、後の祭り。
複雑な術式を組んでの召喚ではない、真の名による召喚。
それが可能なのは下等な物質や存在を呼び出すか、あるいは――。
「な……これは……!」
卓越した魔術師が切り札として持つ、莫大な魔力を注ぎ込んだ召喚魔術。
烈風が、廃都へと変貌しつつある街路に吹き荒れる。
ユーティミアの展開した召喚門から
そして、その背には家すら覆い隠すほど巨大な翼。
「グリフォン、だとォッ!」
それは、大商人の
目を見開くイレーネ・マルキウスの見上げた先、有翼獅子の背にさっと乗り込んだユーティミアは
「所詮は田舎豪族の放蕩娘と蛮族の小賢しい役人の言葉でしたね。人間の約束事すら守れぬ相手と対等に話した私が愚かでした」
「貴様、言わせておけば……」
イレーネが売られた喧嘩へ口を開こうとした矢先、石畳を踏み砕く獣の鉤爪が彼女の目前で一閃した。
「あの炎、我が主とルナティア本国の物見が見逃すはずがありません。私もこの件を報告するため、
「待て! まだ話は終わってはいない!」
「こちらの話は終わっておりますので。馬上からで申し訳ありませんが、失礼させていただきます」
吐き捨てるような言葉。疾風。抜け落ちた羽根が、炎に照らされた瓦礫の街に舞い落ちる。
黄昏時。ユーティミアが虚空より
***
すわ、雷でも落ちたか。
爆音に飛び起きた老婆だが、すぐに違うと気がついた。
鳥が驚いたか。街のほうぼうで一斉に飛び回っている。
沈んだ太陽を呼び戻したがごとく、郡都の空は煌々としている。
煙と炎がいたるところで立ちのぼる。その中に、真っ赤な何かを見た。
「――あれは、なんじゃ?」
粉なんて大きさではない。あれは鳥だ。
火の粉ではなく、火の鳥が翼を広げている。
少なくとも、老婆の目にはそのように映った。
鳥が羽ばたいては降り立って。火をつけてはまた飛び立っていく。
手のつけようのない数の渡り鳥が、カルディツァの黒い空を赤く埋め尽くす。
――家だけじゃない。街が燃えるかもしれないんだぞ――。
領主はこうなることを予見していた?
皴の刻まれた額と頬に、汗がいくつもしたたり落ちていった。
「――アンタさんがしつこく逃げろと言ったのは、こういうことだったのかい」
死期がもう迫っている。
その覚悟はできていた。
そのはずが、身が竦む。膝が笑う。手が汗ばむ。
轟音がひとつ鳴るたび、そこで誰か死んでいく。
生きる執着を捨てた老婆が、恐ろしいとさえ感じる。
この底知れない恐怖が、勝ち誇ったテッサリアの兵隊を襲うのだ。
思い出深き街カルディツァを、粉々に砕き周り、焼き払いながら。
むごい。
なんとむごい光景だろう。
あれほど老婆のもとへ足しげく通ってくれた若い領主様が、これほど非情な決断を下すとは老婆にも見抜けなかった。
「――つらい道をえらんだね。シャルルの『ぼうや』」
この街と引き換えに敵に犠牲を強いた。
あの若者が背負う業の深さを思いやる。
「――どうか、女神様のご加護がありますように」
もうじき逝く彼女が託した肖像画とは比較にならないほど、重い何かが――。
これから生きてゆかねばならない若者を、潰さないでくれることを切に願う。
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