第15話 ファイアバード(1)
キエリオン郡から運び込んだ土。
これを原料に、硝石を作らせたシャルルだったが――思惑が外れた。
「意外と少ないな。土の量から、もっと取れると見積もってたんだが」
彼がそう漏らすと、まる一日硝石づくりをやらされたフリッカが応じる。
「土の中に含まれている
「その――
ジト目で睨まれた。
「――閣下がお持ちの教養って、極端ですよね」
「それ、どういう意味だよ?」
「物知りなのか、物知らずなのか。もうわかんないって意味です」
元来人当たりのいいフリッカが、嫌味な言い回しを使うようになった。
仕方ないだろう。そうなるだけの自覚が、いくらでもある。
(フリッカにはいろいろ無茶振りしているからな。言わせておこう)
そう思った彼を尻目に、フリッカはため息をこぼし、解説をはじめた。
「大気の組成のうち、約八割を占める気体。これが窒素です」
「要するに、俺たちが普通に吸ってる空気の大部分ってわけだな」
「はい。そして、植物の生育に欠かせない有益な物質でもあります。しかし、これを土壌の中に取り込むのが難しいんです」
「思い出してきた。
「まさにそれです。今日一日かけて作った硝石も、窒素を含んでいます」
「もともと土が痩せてるから、その窒素ってやつも少ない。だから、
問題は硝石だけではない。
「もういやだー! 頭おかしくなるぅ~!」
「こんなことやめて、剣持って戦いたい!」
ダイアモンドを作った兵士たちも、単純すぎる作業を日が暮れるまで繰り返して、へとへとになっていた。
最初閃いたほど、この国では火薬を簡単に作れないのではないか。
火薬を大量に作り、この戦争に活用する。そんな思いつきは、このルナティアでは現実的ではないのかもしれない。
(すると――これ使えるのは、この一回限りかもな)
シャルルは、そう思いはじめていた。
ならばどうやって使うか。一晩中考えて、いつの間にか眠っていた。
***
その翌日――
オクタウィアがサイフィリオンを駆って、今日も偵察を行ってくれている。
『テッサリア軍の先遣隊でしょうか。数にして五〇〇ほどが三キロメートル南の集落を占領しているのが確認できました。その先は吹雪でわかりません』
「――エールセルジー。三キロメートルとやらをマイルで表現できるか」
『はい。一・八六四マイルです。マスター』
「なるほど。近いといえば近いが……互いの攻撃が届くほどではないな」
今日と明日、郡都を発つ民草には朗報かもしれない。
三万人の住民を、たった一週間で疎開させるなんて、無理難題にもほどがある。
誰もがそう口にした難事業が、もうすぐ実を結ぼうとしていた。
人口の九割以上はすでに郡都を離れた。残りの一割未満も仮宿の空き状況に応じて脱出を続けている。明くる朝に郡都を発つ一団が最後だ。
しかし、あえて街に残りたいという者もわずかながらいた。
どうしても、品物を手放して郡都を離れるのを嫌がっている商人連中が何軒か。
その他は、どうせ余命いくばくもないから――と
「ばあさん。本当にここに残るつもりか」
「ああ。アタシはもう長くないしの」
「テッサリア兵が
「どうせもうじき召されるいのち。それがちょっと早まるかどうかの違いよォ」
今日も説得に訪れたシャルル。
達観した老婆が、彼には他人に思われなかった。
コンスタンティノポリスからの撤退戦で、同じように
父のアルテュールにずっと仕えてきた、無名の戦士らと重なってみえたのだ。
「だからせめて、住み慣れた家で死にたいんじゃよ」
「家だけじゃない。街が燃えるかもしれないんだぞ」
「それでもじゃよ。領主様」
老婆の目は、据わっていた。
「アタシはここで生まれ、ここで生きた。もうじきここで死ぬ。それでおしまいさ。燃える街を外から眺めて悔いて死ぬくらいなら、ここで死ぬほうがずっといい」
故郷を追われる苦しみを知る彼は言葉に詰まった。
流れる沈黙に耐えかねたのは――彼のほうだった。
「――すまない。八方手を尽くしたが……俺の力不足だ」
「流れ者のアンタさんが、ラリサに何百年も根を張ってたマルキウス家に勝てるわけなかろ? そんなこと、はじめからわかりきっておった」
老婆の手厳しい言葉は、淡々としたものだ。
泰然自若とした、老兵たちの姿を思い出す。
死期を悟り、最期が目の前に迫っていても、こんなに動じないものだろうか。
この老婆が立っている境地には、シャルルでさえ遠く及ばないのではないか。
「――でも、アンタさんが手を尽くしたこともわかっとる。若いもんを逃がすためにいのち賭けてきたことも、ぜんぶわかっとるよぉ」
しわだらけの手が、剣ダコのできた掌をいたわってくれた。
「アタシゃ、アンタさんが好きだった。少なくとも、前の領主やその前の領主よりはずーっとマシじゃ。こうして、お目にかかれる機会もなかったしのォ」
「――それも、これが最後かもな」
「そうじゃなァ。はっはっはッ!」
老婆の手を握り返す。老婆の目は、孫をみるように和んでいた。
「いや――案外、早く逢えるかもな」
「なにを言うんじゃ、このバカたれ」
厳しい言葉とは裏腹に、そのまなざしは優しい。
「死に急いじゃあかん。アンタは若い。やれることがまだまだたくさんある」
生き延びておくれ。御父上の御遺体を異教徒から守っておくれ――。
そう言い残し、散っていった――あの老兵たちと同じ目をしていた。
「シャルル・アントワーヌ。俺の本当の名前だ。教えてくれ。ばあさんの名前を」
「アリスさ。昔はこの街で指折りのかわいさと綺麗な歌声だって褒められたもんだ。あれをご覧よ。そこに額縁があるだろう?」
老婆の指差す先。壁にかかった、小さな肖像画があった。
亜麻色の髪をした、澄んだ青い双眸の女性の絵だ。
火炎のごとき真紅の羽毛で彩られたドレスで着飾って、胸を張り、歌を口ずさんでいる様を何色もの顔料を使って描いている。
互いに見比べる彼。若き日の老婆を描いたものだと気づいた。
「下町の歌姫とか、燃えるような赤い衣装から『火の鳥』とかね。ちやほやされてた頃に、絵描きさんが描いてくれた宝物さ。ま、今となっちゃ髪はすっかり白髪。自慢の声もしわがれてしまったがの。ホッホッホ」
王侯貴族でもないのに、肖像画を描いてもらった。
彼女の美しき姿を封じ込めた、切り取られた若さそのものに違いない。
「領主様に
「何を言ってる!? 大事な肖像画だろ?」
「大事な絵だからこそじゃ。そこいらの掃除屋に捨てられるよりはずっといい」
両手で簡単に抱えられるほど、決して大きくはない額縁。
決して軽くはないであろう重さに、彼は尻込みしていた。
「いくら逃げろと説得しても、
老婆はこの大地からとうに死んだ古い言葉でシャルルに願った。
まったくの他人に、本当の名前で呼ばれるのはいつぶりだろう。
なにより……その口ぶりが、幼少の
かつて誰からも愛され、愛した下町の歌姫。その可愛げは今も確かに存在し、彼の中の幻と同じように訴える。
「――わかったよ。アリスのばあや」
幻視の中のその人に言うように――。
シャルルはしかたないな、と老婆の願いに頷いた。
彼が口角を上げて答えると、若返ったような紅い笑みで老婆が応じた。
***
川沿いに発展した、南北に長い街並みをもつ郡都カルディツァ。その全体は市壁で取り囲まれている。
南北に走るバルティカ中街道に直結する二つの大きな城門と、東のキエリオン郡へ向かう小道につながる小さな城門。これら三つの門のほかに、街を貫くパラマス川に沿った
有事の際は、これら城門を閉じ、跳ね橋を引き上げて、陸路での郡都への出入りを阻んでいる。川の上に遮るものはないが、川の中に鎖を渡してあり、小舟で市域に入ろうものなら、足止めされ、両岸から攻撃の的になる。
賊や野盗といった類が相手なら、これだけの備えがあれば、市民を都市の外へ放り出す必要などなかったのだが。
(数千の大軍に囲まれちゃ、長くはもたねえからな)
相手はテッサリア平原の覇者にして、三万人の兵力を動員できる「辺境伯」イメルダ・マルキウスの軍勢。そのうちでも、彼女が
三十年を優に超える彼女の軍歴は、シャルルの三倍に相当する。
それに付き従う兵隊たちも、相応の練度を持ち、彼が相次いで打った奇策や天候の変化にも適応してきた手強い者たち。シャルルがこの世界で最初に手にかけた賊たちとは、次元が違っていた。
(敵が押し寄せるのが先か。ばあさんが天寿を全うできるのが先か)
彼に、籠城戦という考えはなかった。
郡都カルディツァは関所から遠く離れている。
王国軍という
(味方の人的被害を最小限にするには――これしかねえ)
兵力も人材も足りない。
戦後の復興を考えると頭が痛い。
それでも、戦争に勝たなければ「戦後」すらない。
(――
老婆と別れた、明くる朝。
疎開するカルディツァ市民の最後の一団が、王国軍に護衛されて北へ向かう。その
それとは逆に、南に向かって一台の馬車が走る。
領主カロルス・アントニウスが送りだした全権代表、ユーティミア・デュカキスの向かった先。そこはテッサリア軍本陣であった。
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