閑話 一羽の伝書鳩と三つの書簡

海錨かいびょうたらせ! 艦首風上かんしゅかざかみッ!」


 総ての帆を下ろした帆船に、大風と波濤はとうが押し寄せる。

 帆布はんぷで作ったいかりに向かって、舳先へさきが延びる。

 身を切るような波浪と暴風。雨と潮を誰もがひっかぶり、体温を容赦なく奪う海原うなばら只中ただなかに彼女らはあった。


「さあ、気張きばれよ! 必ずみんなでサロニカに帰るんだ!」


 艦首が波を切り裂いたこと、幾たびか――。


 メリヴィア港を発った軍艦『メガケーテス』。

 荒天に見舞われつつも、巧みな操船でこれをかわしきり、ひとりの落伍者を出すことなく、サロニカ港への入港を果たした。

 サロニカ海峡の南、遠くアークティカ大陸には鉄床雲かなとこぐもがかかっている。

 あの雲海うんかいの下は竜の巣窟そうくつだ。人の住むべき場所ではない。

 その一方で風のいだサロニカは、人の活気で溢れている。

 沖合おきあいへ逃げていた船が、熱いスープの待つ家へ向かうように、続々と港に戻って来ていた。

 祭りでもないのに、物売りたちが道に出ては騒ぎ立てる。

 海鳥たちも、突き刺すような海風の中を踊り、おこぼれを狙っていた。


(よく、もってくれたね――メガケーテス)


 サロニカを出港したとき、ピカピカに磨かれていた軍艦は――。

 嵐に打たれ、あちこち穴を穿うがたれ、まるでボロ雑巾のようだ。

 その中で唯一、銀に輝く艦首の女神像を見上げる。

 自分と船員たちを守り通してくれた船に向かって、帽子を脱いだ。

 そんな彼女――エヴィア・デミストクレスのもとに、上陸を許され、とっくに羽根を伸ばしに行ったはずの船員がひとり、駆け戻ってきた。


「大変ですよ! 艦長!」

「どうしたんだ、血相変えて。みんなで酒をやりにいったんじゃないのかい??」

「それどころじゃねーっす! これ! 見てくださいよッ!」


 船員の娘が差し出したモノ。

 書簡が三通。うち、一通はエヴィア宛てで「親展」と記されていた。ほか二通は、ヴァレンティーナ・デュカキス――エヴィアにとって、重要な得意先宛ての書簡となっている。

 書簡には通し番号が割り振られている。その最初の番号が、エヴィア宛ての書簡に記されていた。


「誰から来たと思います? あの竜殺しの領主殿からですよ!」

「――ッ!?」


 封筒を裏返す。

 几帳面な文字で「郡伯ぐんはく カロルス・アントニウス」と記されている。

 そして、もうひとつ添えられた名前に、彼女の瞳がキュッと縮んだ。


郡司代行ぐんじだいこう――ユーティミア……デュカキスッ!?」


 それは行方知れずになった、ヴァレンティーナ・デュカキスの娘の名前だった。

 頭が混乱する。何が、いったい、どうなっているのか!?

 口に手を当てながら、書簡を届けた船員に訊ねる。


「これは……どうやって届いたか、聞いてるかい?」

「鳩です。伝書鳩でんしょばと脚環きゃくかんに、そのユーティミアって名前がありました」

「その鳩はどこにいるんだい?」

「逃げることなく、港湾事務局で大人しくしていますよ」

「……召喚獣、だね」


 これは、なにか重要な意図がある。

 直感が働いた。港湾事務局に駆けてゆき、伝書鳩をみずから確認した。

 伝書鳩の脚には必ず、持ち主が誰かをあらわす足環あしわが付いているからだ。


(ユーティミア・デュカキス。大蔵府主計局おおくらふしゅけいきょく所属――放蕩娘ほうとうむすめが生きていたどころか、王国の官僚になっていたのか……)


 船員を帰し、ひとりきりになった。

 自分に与えられた小部屋があった。

 喧騒けんそうを離れたそこで、自分宛ての書簡の封を切った。


 ――――――――――――――――


 エヴィア・デミストクレス殿


 カロルス・アントニウスだ。

 いつぞやは世話になったが、もう一度お世話になりたく、書簡をお送りする。

 

 ヴァレンティーナ・デュカキス殿宛てに、二通の書簡を認めた。

 可及的速やかに、彼女に手渡してほしい。きわめて重要で急を要する内容だ。

 貴殿、ヴァレンティーナ殿、ならびにデュカキス一族の運命をも左右しかねない。

 他の誰にも見せることなく、早急かつ確実に、ヴァレンティーナ殿に渡してくれ。

 可能なら、ヴァレンティーナ殿と一緒に、二つ目の書簡を読むことを特別に許す。

 三つ目の書簡は、親不孝者が親に宛てた個人的な書簡だ。読まずにおいてほしい。


 この書簡が無事に届き、できるだけ早く貴殿の手に渡ることを期待する。


 カルディツァ郡伯 カロルス・アントニウスより


 ――――――――――――――――


(これは、大変なことになった)


 あの竜殺しが自分に何を期待しているか。わかった――伝令使だ。


(わからないが……この二つ目の書簡には、何か重要な情報が記されている)


 しかも、ヴァレンティーナ・デュカキスと一緒ならば、という条件付でエヴィアも読むことを許すと書いてある。実に魅惑的だ。ごくりと唾をのんだ。

 間違いなく、もうばなしの匂いが漂う。


「酒でも呑もうかと思ってたが! こうしちゃいられないね!」


 三つの書簡をだいじにカバンにしまった。

 そして、一目散に得意先の商会へと駆けていった。


 ***


「おおい! ヴァレンティーナさんは居るかぁぁいッ!」


 中年の女性が建物に駆け込んで、叫んだ。

 石炭で温まる穏やかな商会に、再びの嵐。

 賑やかだった商会に訪れた、一瞬の静寂。

 それが過ぎ去っていくとともに、肩で息をした女性のもとに、彼女より数歳年上、顔なじみの婦人がやってきた。


「おや、エヴィア艦長。どうなさいましたか? そんなに慌てて……」


 蒼い髪を肩の上で切り揃え、目元に小さな丸眼鏡をつけた――ヴァレンティーナ・デュカキスその人だった。


「アンタに大事な知らせがふたつある。だから急いでやってきたッ」


 キョトンとした丸眼鏡の女性に、「親展」と記された書簡を二つ差し出す。


「アンタの娘、ユーティミアからだ! 手紙をよこしたんだよ!」

「……ユーティミア……!?」


 呆けた丸眼鏡の女性。その表情が一変した。

 声を潜めた商会の働き手たちも、その名を聞き、顔を見合わせる。


「アタシ宛てにもらった手紙によれば、大事なことが書いてあるそうだ。できれば、ふたりきりで話しがしたい」

「――わかりました。艦長を奥の応接室にご案内して」


 血相を変えたエヴィアを見て、丸眼鏡の女性は応接室に彼女を招く。

 表の喧騒けんそうから切り離された、密談をするにはうってつけの場所。

 こぢんまりとした部屋だが、調度品は高級なものばかりが揃う。

 ヴァレンティーナは扉を閉めると鍵をかけ、人払いの魔術を使った。


「お忙しいところ申し訳ない。コイツは尋常じゃないと思ってね。ちなみに、これはアタシがもらった手紙だ」


 一枚目の書簡に目を通すヴァレンティーナのもとに、ふたつの書簡を滑らせる。

 読んだヴァレンティーナは、傍らのナイフを取り、丁寧に二枚目の封を切った。

 二枚目の書簡には、一枚目の書簡と同じ書体で文章が記されている。

 読み進めるうちに、ヴァレンティーナの表情が険しくなっていった。


「これはたしかに――思いもよらなかったことが書いてあります」


 書簡をヴァレンティーナから受け取った。エヴィアもまた、絶句した。


「油の先物取引から手を引け……これは!?」

「私たちに対する警告でしょう。それにしても、どうやって。わが商会が先物取引に手を出していることを知り得たのか……」

「竜殺しカロルスに会ったがね。あれはなんというか、底知れぬヤツだった」


 会ったのは、テッサリアのイメルダに攻め込まれている最中だ。

 絶望的な戦力差にもかかわらず、「次は取引の話がしたいもんだ」と笑った漢の顔が忘れられない。次があると思っている。つまり、勝つ算段があるということ。

 それを聞いたヴァレンティーナが腕を組んで黙っている。

 思案の沈黙のすえ、彼女が重たい口調で語った。


「聞くところによれば――王国の資格者は、デルフォイの巫女と同じように、告知をける能力があるそうではないですか」


 エヴィアが軍艦に乗って航海中に、情勢は大きく変化していた。

 テッサリアが竜殺しが乗っていたモノと同様の『機動甲冑』を稼働させたこと。

 それを用いて、直轄領の関所を破壊。王国との関係が一気に険悪になったこと。

 女王が詔勅を発し、テッサリアとの全面戦争に踏み切ったこと。

 聴いたことすべてが、エヴィアの想像を超えた出来事ばかりだ。


(あの竜殺しが『告知』を受けて、王都を守った――だって!?)


 脂汗が垂れる。

 自分がそんな『怪物』を相手にしていたのか――と思い知らされた気分だ。


「巫女の神託は、そうそうちまたの人間に知らされるものではありません。それこそ、多少なりとも神殿に寄進しなければ。それを縁もゆかりもない私たちに、竜殺しカロルスとやらが伝える理由が、私にはわからない」


 もっともだ。エヴィアだってそう考える。

 サロニカの商人は実利、そして信用を重んじる。

 その在り方は儲かるのであれば、国すら裏切り、親すら殺すとも言われる。

 その一方で恩を売ることさえ、ある種の先行投資と考える。

 信用の積み重ねが、大きな商機に結びつく足がかりになり得るからだ。


「アタシが思うに、竜殺しは何らかの取引を望んでいるのでは?」

「イメルダ・マルキウスと戦争やってる間にですか? この書簡には何が欲しいとか一切書いていないというのに?」

「これらの書簡には通し番号が振ってある。その順番に封を切るよう、仕向けるためでしょう」

「――だとしたら――」


 最後に残った書簡。

 その差出人の名は、ユーティミア・デュカキス。

 十年近く前に家出して、いまだ還ってこない馬鹿娘の名。

 他の書簡が竜殺しとの連名だったのに対し、この書簡だけは違った。

 苦労してつかみ取った官職は記されず、娘の名だけが記されている。

 ヴァレンティーナはナイフを手に――最後の封を切った。

 丁寧に書かれた文字は、成長の証か。

 その反面、ところどころに懐かしい筆跡がにじんでもいた。

 立派な書体が崩れかけたところに、水滴をこぼしたような痕が残る。

 娘の感情が肉筆に乗っているのが、ありありと見て取れた。


「子供はいつになっても子供――とは、よく言ったものね」


 険しかった表情は、野分のわきが去った後の青空のごとく。

 一点の曇りもなく、澄んでいた。


「エヴィア艦長。これから大時化おおしけのようです。よって、わが商会は船を降りることにいたします」


 ヴァレンティーナ・デュカキスの丸眼鏡が光った。

 子煩悩な母親の眼差しは、とうに消え去っている。


「――ただ、降りるだけでは意気地がないというもの。少しばかり抗って、お土産みやをいただこうと思うのですが」

「――ヴァレンティーナさん。アンタ、まさか――」

「ええ。だいたいお察しのとおりですよ。なんでしたら、ご一緒しますか?」


 黒い笑みにゾッとする。

 それと同時に、耳元で妖精がささやく。

 口許が、吊り上がった。


「せっかく乗り合わせた船だ! こうなりゃ、行くところまで行くさ!」


 この日の午後、ヴァレンティーナは先物市場で買い建てた油をすべて転売。

 利益確定するとともに、逆に油を売り建てる決断を下し、皆を押し切った。


 アルス・マグナと王家が油を買い付ける――その一日前のことである。

 その日、油の先物価格は稀に見る高値を更新し続け、大引おおびけとなった。

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