閑話 一羽の伝書鳩と三つの書簡
「
総ての帆を下ろした帆船に、大風と
身を切るような波浪と暴風。雨と潮を誰もがひっ
「さあ、
艦首が波を切り裂いたこと、幾たびか――。
メリヴィア港を発った軍艦『メガケーテス』。
荒天に見舞われつつも、巧みな操船でこれを
サロニカ海峡の南、遠くアークティカ大陸には
あの
その一方で風の
祭りでもないのに、物売りたちが道に出ては騒ぎ立てる。
海鳥たちも、突き刺すような海風の中を踊り、おこぼれを狙っていた。
(よく、もってくれたね――メガケーテス)
サロニカを出港したとき、ピカピカに磨かれていた軍艦は――。
嵐に打たれ、あちこち穴を
その中で唯一、銀に輝く艦首の女神像を見上げる。
自分と船員たちを守り通してくれた船に向かって、帽子を脱いだ。
そんな彼女――エヴィア・デミストクレスのもとに、上陸を許され、とっくに羽根を伸ばしに行ったはずの船員がひとり、駆け戻ってきた。
「大変ですよ! 艦長!」
「どうしたんだ、血相変えて。みんなで酒をやりにいったんじゃないのかい??」
「それどころじゃねーっす! これ! 見てくださいよッ!」
船員の娘が差し出したモノ。
書簡が三通。うち、一通はエヴィア宛てで「親展」と記されていた。ほか二通は、ヴァレンティーナ・デュカキス――エヴィアにとって、重要な得意先宛ての書簡となっている。
書簡には通し番号が割り振られている。その最初の番号が、エヴィア宛ての書簡に記されていた。
「誰から来たと思います? あの竜殺しの領主殿からですよ!」
「――ッ!?」
封筒を裏返す。
几帳面な文字で「
そして、もうひとつ添えられた名前に、彼女の瞳がキュッと縮んだ。
「
それは行方知れずになった、ヴァレンティーナ・デュカキスの娘の名前だった。
頭が混乱する。何が、いったい、どうなっているのか!?
口に手を当てながら、書簡を届けた船員に訊ねる。
「これは……どうやって届いたか、聞いてるかい?」
「鳩です。
「その鳩はどこにいるんだい?」
「逃げることなく、港湾事務局で大人しくしていますよ」
「……召喚獣、だね」
これは、なにか重要な意図がある。
直感が働いた。港湾事務局に駆けてゆき、伝書鳩をみずから確認した。
伝書鳩の脚には必ず、持ち主が誰かをあらわす
(ユーティミア・デュカキス。
船員を帰し、ひとりきりになった。
自分に与えられた小部屋があった。
――――――――――――――――
エヴィア・デミストクレス殿
カロルス・アントニウスだ。
いつぞやは世話になったが、もう一度お世話になりたく、書簡をお送りする。
ヴァレンティーナ・デュカキス殿宛てに、二通の書簡を認めた。
可及的速やかに、彼女に手渡してほしい。きわめて重要で急を要する内容だ。
貴殿、ヴァレンティーナ殿、ならびにデュカキス一族の運命をも左右しかねない。
他の誰にも見せることなく、早急かつ確実に、ヴァレンティーナ殿に渡してくれ。
可能なら、ヴァレンティーナ殿と一緒に、二つ目の書簡を読むことを特別に許す。
三つ目の書簡は、親不孝者が親に宛てた個人的な書簡だ。読まずにおいてほしい。
この書簡が無事に届き、できるだけ早く貴殿の手に渡ることを期待する。
カルディツァ郡伯 カロルス・アントニウスより
――――――――――――――――
(これは、大変なことになった)
あの竜殺しが自分に何を期待しているか。わかった――伝令使だ。
(わからないが……この二つ目の書簡には、何か重要な情報が記されている)
しかも、ヴァレンティーナ・デュカキスと一緒ならば、という条件付でエヴィアも読むことを許すと書いてある。実に魅惑的だ。ごくりと唾をのんだ。
間違いなく、
「酒でも呑もうかと思ってたが! こうしちゃいられないね!」
三つの書簡をだいじにカバンにしまった。
そして、一目散に得意先の商会へと駆けていった。
***
「おおい! ヴァレンティーナさんは居るかぁぁいッ!」
中年の女性が建物に駆け込んで、叫んだ。
石炭で温まる穏やかな商会に、再びの嵐。
賑やかだった商会に訪れた、一瞬の静寂。
それが過ぎ去っていくとともに、肩で息をした女性のもとに、彼女より数歳年上、顔なじみの婦人がやってきた。
「おや、エヴィア艦長。どうなさいましたか? そんなに慌てて……」
蒼い髪を肩の上で切り揃え、目元に小さな丸眼鏡をつけた――ヴァレンティーナ・デュカキスその人だった。
「アンタに大事な知らせがふたつある。だから急いでやってきたッ」
キョトンとした丸眼鏡の女性に、「親展」と記された書簡を二つ差し出す。
「アンタの娘、ユーティミアからだ! 手紙をよこしたんだよ!」
「……ユーティミア……!?」
呆けた丸眼鏡の女性。その表情が一変した。
声を潜めた商会の働き手たちも、その名を聞き、顔を見合わせる。
「アタシ宛てにもらった手紙によれば、大事なことが書いてあるそうだ。できれば、ふたりきりで話しがしたい」
「――わかりました。艦長を奥の応接室にご案内して」
血相を変えたエヴィアを見て、丸眼鏡の女性は応接室に彼女を招く。
表の
こぢんまりとした部屋だが、調度品は高級なものばかりが揃う。
ヴァレンティーナは扉を閉めると鍵をかけ、人払いの魔術を使った。
「お忙しいところ申し訳ない。コイツは尋常じゃないと思ってね。ちなみに、これはアタシがもらった手紙だ」
一枚目の書簡に目を通すヴァレンティーナのもとに、ふたつの書簡を滑らせる。
読んだヴァレンティーナは、傍らのナイフを取り、丁寧に二枚目の封を切った。
二枚目の書簡には、一枚目の書簡と同じ書体で文章が記されている。
読み進めるうちに、ヴァレンティーナの表情が険しくなっていった。
「これはたしかに――思いもよらなかったことが書いてあります」
書簡をヴァレンティーナから受け取った。エヴィアもまた、絶句した。
「油の先物取引から手を引け……これは!?」
「私たちに対する警告でしょう。それにしても、どうやって。わが商会が先物取引に手を出していることを知り得たのか……」
「竜殺しカロルスに会ったがね。あれはなんというか、底知れぬヤツだった」
会ったのは、テッサリアのイメルダに攻め込まれている最中だ。
絶望的な戦力差にもかかわらず、「次は取引の話がしたいもんだ」と笑った漢の顔が忘れられない。次があると思っている。つまり、勝つ算段があるということ。
それを聞いたヴァレンティーナが腕を組んで黙っている。
思案の沈黙のすえ、彼女が重たい口調で語った。
「聞くところによれば――王国の資格者は、デルフォイの巫女と同じように、告知を
エヴィアが軍艦に乗って航海中に、情勢は大きく変化していた。
テッサリアが竜殺しが乗っていたモノと同様の『機動甲冑』を稼働させたこと。
それを用いて、直轄領の関所を破壊。王国との関係が一気に険悪になったこと。
女王が詔勅を発し、テッサリアとの全面戦争に踏み切ったこと。
聴いたことすべてが、エヴィアの想像を超えた出来事ばかりだ。
(あの竜殺しが『告知』を受けて、王都を守った――だって!?)
脂汗が垂れる。
自分がそんな『怪物』を相手にしていたのか――と思い知らされた気分だ。
「巫女の神託は、そうそう
もっともだ。エヴィアだってそう考える。
サロニカの商人は実利、そして信用を重んじる。
その在り方は儲かるのであれば、国すら裏切り、親すら殺すとも言われる。
その一方で恩を売ることさえ、ある種の先行投資と考える。
信用の積み重ねが、大きな商機に結びつく足がかりになり得るからだ。
「アタシが思うに、竜殺しは何らかの取引を望んでいるのでは?」
「イメルダ・マルキウスと戦争やってる間にですか? この書簡には何が欲しいとか一切書いていないというのに?」
「これらの書簡には通し番号が振ってある。その順番に封を切るよう、仕向けるためでしょう」
「――だとしたら――」
最後に残った書簡。
その差出人の名は、ユーティミア・デュカキス。
十年近く前に家出して、いまだ還ってこない馬鹿娘の名。
他の書簡が竜殺しとの連名だったのに対し、この書簡だけは違った。
苦労してつかみ取った官職は記されず、娘の名だけが記されている。
ヴァレンティーナはナイフを手に――最後の封を切った。
丁寧に書かれた文字は、成長の証か。
その反面、ところどころに懐かしい筆跡がにじんでもいた。
立派な書体が崩れかけたところに、水滴をこぼしたような痕が残る。
娘の感情が肉筆に乗っているのが、ありありと見て取れた。
「子供はいつになっても子供――とは、よく言ったものね」
険しかった表情は、
一点の曇りもなく、澄んでいた。
「エヴィア艦長。これから
ヴァレンティーナ・デュカキスの丸眼鏡が光った。
子煩悩な母親の眼差しは、とうに消え去っている。
「――ただ、降りるだけでは意気地がないというもの。少しばかり抗って、お
「――ヴァレンティーナさん。アンタ、まさか――」
「ええ。だいたいお察しのとおりですよ。なんでしたら、ご一緒しますか?」
黒い笑みにゾッとする。
それと同時に、耳元で妖精がささやく。
口許が、吊り上がった。
「せっかく乗り合わせた船だ! こうなりゃ、行くところまで行くさ!」
この日の午後、ヴァレンティーナは先物市場で買い建てた油をすべて転売。
利益確定するとともに、逆に油を売り建てる決断を下し、皆を押し切った。
アルス・マグナと王家が油を買い付ける――その一日前のことである。
その日、油の先物価格は稀に見る高値を更新し続け、
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