第13話 官僚の矜持と苦節(1)
その日の夕刻前――。
カルディツァ軍一個中隊、王国軍二個中隊は襲撃を受けることなく、郡都カルディツァに帰還した。
出撃を見届けた民草に比べ、凱旋を迎えた民草の数は、見違えて少ない。
それでも、敵の軍旗を誇らしげに掲げ、勝利に酔う私兵たち。
彼女たちに美味い飯と酒を振る舞えと指示して、彼は領主の居館に戻る。
蒼穹の色をした鉄巨人が庭先にいた。その操者が最敬礼で、彼を迎えた。
「皇帝陛下、
「――
真剣な眼差しで見つめあったふたりが、
どちらともなく、しばらく笑いあった。
「オクタには本当に世話になった。ありがとな!」
「はいっ! 師範や兵隊の皆さんの助けになれたなら、嬉しいです」
この数日間、彼女は常に最前線から一歩引いた荒野をくまなく飛び回っていた。
そうして知り得た敵の動きを、逐一彼に報告してくれていた。
カルディツァ工廠に戻ることなく、機動甲冑の操縦席で眠る日々。年頃の乙女だ。きっと、お風呂にだって入りたかったのではないだろうか。
「褒美として一番風呂をとらせる。すぐ身体洗ってこい」
「――え、臭います? そんな自覚無いんですけどッ!? 恥ずかしい!」
顔を真っ赤にして、オクタウィアが浴室に駆けていった。
そんな姿を微笑ましく見送ってから、応接室に向かった。
郡司代行のユーティミアが、街の有力者らと会っていた。
「おかえりなさい! アントニウス卿!」
「ご苦労様。ほら、土産だ」
軍旗をかざしてみせた彼に、場がざわついた。
「テッサリア軍の大隊旗……まさか、本当に勝ってしまうとは」
「いや、勝っちゃいないさ。敵を十五倍くらい、削った程度だ」
「……じゅ、じゅうご、ばい?」
三つの大隊旗。一つの中隊旗。
少なく見積もっても、一八〇〇を超える犠牲を敵に強いた。
アグネアが言った、北に差し向けられる一万人のうちの二割弱を削った。
街の有力者たちも一様に、信じられないといった面持ちだ。
「ご領主様、よくぞご無事で……」
「味方が一二〇人ほど戦死した。アイツらが時間を稼いでくれた。文字通り、命懸けでな」
「そうでしたか。まことに痛み入ります」
「もう一日くらい踏みとどまりたかったが、俺の兵隊が半分になった。ここいらが限度だ。士気も落ちる」
「まことに、ご苦労様でございました。領主様」
「いいんだ。こういう時のために税をもらって、働くのが領主の仕事さ」
にっと笑みを作り、目に
「ユーティミア、疎開の状況を教えてくれ」
「子連れの住民はほとんどが疎開を済ませました。カルディツァ全人口の八割が街を出ています」
「あと二割――残ってるのは五、六〇〇〇ってところか」
「ええ。急いでもらっていますが、今の早さではあと二日かかります」
「二日もありゃ、テッサリア軍に市街を包囲される。明日のうちに出られなかったら居残り組確定だな」
街の有力者が青い顔をする。
「わ、私たちの家や街は……」
「守れる保証は何一つねえ。資産を逃がしとけ。そう言ったろう?」
目を剥いた彼女を見かねて、ユーティミアが助け舟を出した。
「換金性の高いもので、資産価値のあるもの。これらに当てはまり、まだ持ち出せていないものがあるのでしたら、
「わ、わかりました。代官様……」
有力者たちとの会談が終わり、彼女らが帰った頃には日が暮れていた。
「シャルル様、ユーティミア様。お食事の準備ができました」
「え!? いつの間に……」
「お疲れのご様子ですから、とシャルル様がぜひ
「――すみません、お気を遣わせて」
「後方のこと、全部お前に任せてたからさ。メシ食ってけよ」
「お言葉に甘えさせていただきます」
食堂に案内されると、私服に着替えたオクタウィアが待っていた。
起立して、跪礼で彼らを迎える姿は、貴族の令嬢の立ち振る舞い。
シャルルとユーティミアも、答礼を返した。
「どうぞ、かけてくれ。あまりぜいたくなモノはないけどな」
魚介を使った献立にユーティミアが驚く。
街道を封鎖され、
「どうやって……こんなごちそうが?」
「これだよ。食ってみるか?」
シャルルがユーティミアに手渡した鉄瓶。
両掌にちょうど収まる、円筒形の鉄の鍋。
上蓋をはずすと、ぶつ切りの魚と牡蠣が汁に浸かっていた。
フォークで一口くらいの大きさに切り、何も考えずに食む。
たちまち、端整な顔立ちが歪んだ。
「んんん! しょっぱっ!!!」
「ははははは! 保存食だからな、腐らねぇように塩使ってるんだ」
「よくこんな塩辛いものが食えますね」
「身体動かしてると、塩っ気がほしくなるんだよ。戦場じゃ移動も、戦いもあるし、身体を何かと動かすからな」
「これを、前線の兵隊さんが食べているんですか?」
「ああ。これのおかげで、
「はい。カルディツァに戻らずに山籠もりできたのは、『
新開発の
これが常にアルデギアで生産され、
それをヘレナが調理して、盛り付けて、クロエとともに給仕している。
「先ほどのものほど、塩辛くはないですね」
「はい。水を注いで、塩分を薄めています。汁それ自体に旨味があるので、捨てずに使っています」
「オクタも、最初はキツかったんじゃないか。これ」
「身体を動かす任務ではなかったので、私には味が濃すぎるなって。なので、パンを煮汁に浸して一緒に食べてました」
「さっきのに比べると、ずっと……美味しいです」
「エレーヌがハーブ使って調理してくれてるからな。そりゃ美味くもなるさ」
不意にナイフとフォークを置く。
官僚がメガネをはずした。優れない顔色のわけがわかった。
「――ちょっとだけ、愚痴ってもいいですか?」
首肯する。
「ここしばらく、満足に眠れていないんですよ。戦費をどう確保すればいいか。そればかり、ずっと考えていて。眠れないんです。だけど、郡司代行の職務があるから、皆さんの前では弱みを見せるわけにはいかなくて」
「…………」
「大蔵府で予算編成の時期になると、帰りが遅くなることはままあります。それ自体慣れてはいるんです。だけど、解けない難問を解かなくちゃいけない。それが苦痛で仕方ありません」
この場にいる中で一番、金勘定に明るい。
誰もがそう認める才媛をして、眉間に皺寄せ、苦痛とさえ言わしめる。
「どんな数式を解くよりも難しくて――どう考えても、答えが見つかりません」
カルディツァ郡の財政は危機的状況にあった。
経済復興のため、ただでさえ、大蔵府からの
経済活動が活発になり、財政再建の芽が出始めたところで、戦争になった。
そんな状況下で、戦費の確保に奔走している彼女は、明らかに過労気味だ。
「どうにもこうにも首が回らないので。家出同然で出てきた、実家を頼ろうかなんて――何度も頭を
「お前の実家、裕福なのか?」
そういえば、ユーティミアの生い立ちを聞いた覚えはない。
聞けば、サロニカの商家出身であるという。
「親が親戚と一緒に、それなりに大きな商会を営んでいるんです」
「ほう! それで帳簿読めるのか」
「幼いころから読んでました。算術は物心ついたら、もうやってたくらいです」
「さっすが! やっぱ天才だな!」
掛け値なしの
「もともと数学に興味があったんです。サロニカでは
「それで、家出してきた、と?」
「ええ。
「実家の援助なく、か――けっこう苦学したんじゃないのか」
「ええ。まあ……それなりには……」
あのカリス・ラグランシアが、食うに事欠いたことがある、と言ったほどだ。
「苦学生の集まる寮があって、そこでフリッカと知り合いました。フリッカは地方貴族の出身ですが、大飢饉で税が取れなくて、困窮したそうです。農業のこと、植物のことを学ぶんだって、図書館に入り浸ってました」
「アイツ、昔っからそうだったんだな」
「私もたくさん、数学書を借りては読んでましたよ。それが大蔵府の官僚の方の目に留まって、学位を修めた後の入庁を条件に学費免除が受けられました。それで、首がつながったんです。おかげでサロニカには帰れなくなっちゃいましたけど」
「そっか……」
「でも。あのころが人生で一番、楽しかったです」
「……苦労かけて、すまん。本当に、ありがとう」
「今も楽しいですよ。それなりに」
ユーティミアが静かに笑みを作る。
シャルルはため息をひとつ。肩の力を抜いて、言葉をかけた。
「まあ。俺から言えることは、ひとつだ」
たったひとつだけ、確信をもって言えることがあったから。
「親には生きているうちに甘えとけ。死んでからじゃあ、遅すぎる」
「…………」
「負い目があるっていうなら、なおさらさ。恩は、恩で返すもんだ」
「私に今さら、なにができるんですか?」
「他の誰にもないものがある――情報だ」
彼女が目を見開く。
「この場にオクタウィアを招いた理由だが、ユーティミアにはわかるか?」
「いいえ。さっぱりです」
「この戦いで一番貢献してくれた。一番情報を集めてくれた
オクタウィアが様々な情報をもたらしてくれたこと。
それを活かして機先を制し、何度も未然に危機の芽を取り除いたこと。
それを語るうち、ユーティミアの頬に赤みが戻ってきたように思う。
「情報を速やかに得られる。これが機動甲冑最大の強みだと俺は知った。そして、情報を先んじて手にすること。これが何より武器になる。そう思い知った」
「たしかに、オクタウィアさんが機動甲冑で調べた情報を、ほぼ同時にアントニウス卿も知ることができる……
「だろ? でもさ。これって別に、戦場だけの話じゃねえ。ありとあらゆる駆け引きに応用が利く。
商家出身のユーティミアにも納得がいったのか、頷いている。
「言わんとすることは理解しました。でしたら、なぜこの場に私を?」
「ひとくちに情報と言ってもだな。それを知ること、伝え聞くこと、分析すること。その意味するところを正確に理解し、行動に移すこと。いろいろあるが、これは全部別個のもんだ」
「…………」
「俺には軍隊の動かし方はわかるが、財務のことはわからん。だが、ユーティミア。お前は国家財政も、経済原理も知っている。財務諸表も読めるし、俺の領内でヒト、モノ、カネがどうやって回ってるのかもわかってる。俺には煩わしい情報ばかりさ。街のみんなや水運ギルドとの交渉だってあったろ? 俺が戦争に専念できてるのは、そいつらぜんぶお前が引き受けてくれてるおかげだ」
「もうひとりの
シャルルはクロエを傍らに手招く。
耳元で短くささやくと、彼女は食堂の戸締まりを確認し、魔術を使った。
「これから大事な話をする。決して漏らすなよ」
オクタウィアとユーティミアが頷き、彼は続ける。
「近いうちに、油の高騰が一服する」
「「――ッ!?」」
「カリスに聞いた。月に一回、油の買い付けがある。四日後だそうだ。そこで、王家とアルス・マグナは、油の買い付けを見送る」
「――それって、つまり……大口の買い手がつかない、と」
シャルルは頷いた。
「一時的だろうが値崩れを起こすだろう。するとどうなる?」
「油を
「そこに、お前んところの商会が噛んでいたら?」
大蔵官僚が血の気の引いた顔をみせる。
猫背になって、首を垂れる。こめかみに手を当て、冷や汗を垂らす。
はじめて自分ごとと悟った様子だった。
「まあ、落ち着け。そうと決まったわけじゃないだろ」
「しかしッ!」
思わず机を叩く彼女。彼でさえ、目を見張った。
その他の皆は、なおのことだったろう。
「サロニカの商人なら、この商機を逃すはずありませんよッ!」
普段、冷静沈着で通しているユーティミア。
その彼女が凍えるように身震いし、大声で叫んだ。
ここまで感情をあらわにするのは、とても珍しい。
「今のお前に余裕がないってのが、よくわかったよ。ユーティミア」
「……ッ!」
「そこまで追いつめちまったことに、責任を感じてる。よく言ってくれた」
「も、申し訳ありません……不甲斐なさで、いっぱいです」
「そんなことはないさ。ユーティミアはよくやっている。俺ならとっくに
可能な限り、優しい笑みを作った。
喩えるなら、怯えた子猫の警戒を解いて、かわいがるように。
ほんの少しだけ、彼女が落ち着いた頃合いに、続きを語った。
「さっき、私に何ができるのか、って
生唾をごくり。呑む音がした。
「油の
ユーティミアの額に汗が浮かぶ。
機動甲冑操者である資格者の「告知」がどれだけの意義を持つのか。
それを知らない者など、今やこの王国にいないのではないだろうか。
「機密情報でなく、あくまでアントニウス卿が告知を
「表向きの話だけどな。その建前なら、他に情報を流さなくても当然だろ?」
商人は実利で動く。
迷信といった類のものでは動かない。
しかし、資格者の「告知」ともなれば、別格の説得力が伴う。
ユーティミアは何度も小さく頷いていた。
「世の中の至る所で取引をし、網を張り。情報を得て、生き馬の目を抜く。私の知るサロニカの
「わりと手段を選ばない連中だと思ってるんだが。間違いないか」
「ええ。程度の差はありますけど。商機とあれば、どんな手でも使う人間が多いのは事実ですね」
「よし、決まりだ! 俺の名前で、お前んところの商会宛てに書簡を送ろう。ただ、俺とお前んところの商会には取引の実績がない。要するに
「そこで私に、親に手紙を書け。とおっしゃいます?」
シャルルは首を振った。
「いいや。そんな正攻法で落とすつもりはねえ。
「からめ、て?」
「エヴィア・デミストクレス。この名前に聞き覚えはあるか?」
「デミストクレスといえば、海軍に軍人を多く輩出している家系ですね。うちの商会からも、船団の護衛を依頼したことがあったかもしれません」
「そりゃ好都合だ。この間、港湾を封鎖した軍艦に引き揚げてもらったが、そん時の交渉相手がエヴィア・デミストクレスって艦長さ。たしか、メリヴィア港で補給してサロニカに向かうと聞いた。船の名前は――メガなんとか。ケートスとか」
「――メガケーテス。海神に仕える神獣の名。軍艦にありそうな名前です」
ぱんと手を叩く。
曖昧だった記憶が明晰になった瞬間だった。
「お前がサロニカの人間で、マジ助かったわ」
「つまり、軍艦『メガケーテス』のデミストクレス艦長に書簡を送ると?」
「ああ。エヴィアおばさんに仲介を頼む。それなら商会も聴く耳持つだろ」
頷くユーティミア。
「これをできるだけ早くやりたいんだ。早馬じゃ間に合わねえし、テッサリアを通らなきゃいけねえ。そうだな……伝書鳩とか、あるといいんだけどなあ」
「そのくらいでいいんです?」
「――は!?」
「私、持ってますよ」
「――マジで?」
「これでも、アルス・マグナで学位を修めた人間ですから。得意だったのは数学ですけどね。
「まさか。カリスみたいに? 鳥が使役できるってか!?」
「鳥を手足同様に操る、彼女みたいな芸当は無理ですからねッ。自分が行ったことのある場所に鳩を飛ばし、自分のもとに帰ってこいと命ずるだけ。巣に帰る習性を応用した、文字通りの伝書鳩ですよ」
「いや、十分すぎるだろ!」
この国の人間は、彼の常識を超えたことを平気でやる。
しかし、その価値が自覚できていないこともままある。
ユーティミア・デュカキスもまた、そうだった。
彼女が官僚として
そう信じた彼の確信が、言葉となって結実する。
「お前の手で渡せ。お前しか知らない、お前しか渡せない情報を。それが唯一無二の武器になるんだ」
「――ッ」
「親に恩を売れ。今なら高く売れる。そして、きっと思い知るはずさ。お前が王都で立派になったってな!」
じっと見つめた青い瞳。
そこに一筋の光が宿ったのを、彼は
【あとがき】
官僚の矜持と苦節、というタイトルは日本国の内閣官房副長官(官僚機構のトップ)を長く務めた、
昭和から平成――消費税導入の1987年竹下内閣から、阪神淡路大震災とオウム事件といった激動の1995年村山内閣まで、長きにわたり官僚機構のトップとして、七人の内閣総理大臣を支えてきた裏方の役割を果たした御仁。
その著書の名を、裏方として懸命に尽力する若き官僚の物語に拝借しました。
内部情報にもとづく株取引を現代の社会でやると、「インサイダー取引」として罪に問われます。しかし、サロニカという半独立の自由都市に政治的影響力が及ばない。そんなルナティア王国には、これを規制する法体系は存在しないのでした。
カネ儲けのためには、御禁制の大麻草栽培に手を出す輩も普通にいるところなので、サロニカの商取引は仁義を切れば、わりと何でもありなところがあります。
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