第12話 竜殺し、ふたたび(2)
竜殺しが竜に喰われた。
高く空に打ち上げられ。地面に叩きつけられ。あまつさえ丸呑みに――。
崖の上からなすすべなく、壮絶な結末を見届けるほかなかった。
滂沱と落涙する義妹と対照的に、ヘレナは微塵も涙を見せない。
揺るがぬ確信があった。
(シャルル様は、こんなところで果てるようなお方ではない)
彼女だけは信じていた。
全身の骨はくだけ、鼓膜はやぶれ、深刻な
それでも、彼は生き残った。
今日、あれだけの
竜に喰われたからといって、それで大人しく黙っていると思えない。
「――皆様。守りを固めましょう。ここが正念場です」
水を打った静寂が拡がる。
続けざまにヘレナは言う。
「他の者ならどうしようもないでしょう。しかし、あの竜がひと呑みしたのは、ほかでもない。『竜殺し』カロルスなのです。果たして、ただで済むでしょうか。そうであるはずがありません!」
紫色の
そこに迷いは一切見えなかった。
「ご領主様は必ずお戻りになられます。それまで、味方の損耗を最小限に食い止めること。これが私たちの役割です」
「――閣下の指揮は、いつも的確だった」
王国軍の中隊長、そのひとりが口にした。
彼とともに、テッサリアの陣地に夜襲を仕掛けた。
東から回り込もうと企んだテッサリアの別動隊を撃退した。
それらはすべて、カロルス・アントニウスの指示によるものだった――と。
「何時も敵の動きを掌中に収め、戦われるお方だった。そして、みずから困難を切り拓かれる勇敢さを示された。我々王国軍は、ずっと閣下に救われてきた」
「そうでした。確かに……そうだった!」
「アントニウス卿は女王陛下のため、身命を賭して戦われた。王国一の忠臣である。その忠臣を救えずして、女王陛下に申し開きができようか?」
「「「応――ッ!!」」」
「今こそ、我々王国軍の誇りをかけてッ。閣下を救おうッ!」
「「「「オオオオオオオオオオオオオ――――ッ!!!」」」」
竜殺しの常識外れの強さ、勇敢さ。
これまで積み上げてきた、信用の大きさ。
崩壊しかけた味方の士気は、王国軍の奮起でかろうじて
対するテッサリア軍は最前線こそ崩壊したが、何層もの分厚い戦力を擁していた。切り札の古竜を前面に押し出し、カルディツァ軍の本陣に喰らいつく構えだ。
「「「「其は火の子、其は土の子。燃え盛る炎よ、焼け付く土よ――火槍となりて、穢れを焼き払い給え――ファイア・ジャベリン」」」」
術式結実。
王国軍一二〇名の一個中隊が、一斉に火槍を投擲する。
未だ抵抗を続けていた槍兵の残党に、槍が降り注いで爆発した。
崩壊寸前だったカルディツァ兵にむけ、王国軍の中隊長が絶叫する。
「生き残った者は全員、後方に下がれ! すぐに治療を受けよ!」
必死の戦いの中にあった領主の私兵たちが、後ろを振り向いた。
鬼気迫った顔をした中隊長が、こう叫んだ。
「あの怪物は任せられよ!!! 王国軍の誇りにかけ、我らが討ち果たァァすッ!!」
決然としたまなざしの先に屹立する。
身の丈、四メートル。全長一〇メートルの怪物。
そのすぐ後ろに、怪物を使役しているのだろう。
まだ無傷のテッサリア魔術師部隊が控えていた。
息絶えた仲間を残し、まだ息のある仲間をかついで、カルディツァ兵が退いた。
温存された王国軍と、テッサリア軍との決戦がついに始まる――はずであった。
否、
暴れ出して、近くにいたテッサリア兵を薙ぎ払ったかと思えば、地べたでのたうち回っているではないか。
おぞましく、痛々しい叫びは肌が逆立つほど。
紫色の瞳を見開いて、ヘレナが叫んだ。
「シャルル様は――ご領主様は、まだ生きている!」
今にも攻撃魔術を撃たん――。
術式を組んでいた中隊長が、その手を止める。
それから間もなく、
風が止んだ。
息を呑んだ。
暴れていた竜が、はく製のごとく固まった。
そして、剥き出しになった腹から――何かが突き出た。
鮮血。臓物。そして、大きな「何か」が這い出てきた。
「――おえぇッ。くっせぇし、
思わず手を口に当てた。
ヘレナの赤紫色の瞳が、みるみる潤っていった。
「シャルル様――――ッ!!!」
感極まった叫びは、間もなくかき消された。
カルディツァ兵の精鋭たる、予備隊の
ついさっきまで、絶望のどん底にいた者たちの
テッサリア兵は、膝ついた竜殺しを囲んではいるが、誰ひとりとして動かない。
竜殺しの帰還は、みたび、戦場の空気を一変させた。
しばらくして、彼は立ち上がった。
そして、カルディツァ軍の本陣へと駆けだし、絶叫した。
「エレーヌッ! 水だ! 今すぐ水をぶっかけてくれ!」
「――ッ!?」
「全身がいてぇ! 身体が溶けちまうッ!!!」
竜に丸呑みされた事実と、彼女の生物学的知識。
それが、一瞬で紐づいた。
「クロエ! ありったけの水をかけましょうッ」
「は、はいッ!」
「「いきます――ウォータ・フォール!」」
「「「「ウォータ・フォール!」」」」
ヘレナとクロエ、そして王国軍の衛生兵が数人。
一斉に水の魔術を行使して、戻ったばかりの竜殺しに、これでもか。これでもかとばかり滝を落とし、洗礼を浴びせる。それが数十秒続いた。
血と臓物を洗い流した水は、石畳に汚物まみれの川を作ったほどだった。
「
「シャルル様ッ!」
「ご主人様、毛布です!」
真っ先にヘレナが抱き着いてきた。
クロエもまた、毛布を手に、駆け寄ってきた。
「こんな
「おいおい。やめとけよ。バケモンのくさい臭いが移っちまうぞ」
ふたりを引き離し、彼は笑った。
「あ。大事な忘れもんをした。ちょっと取ってくる」
「えっ!? 今すぐ治療を――」
「テッサリアの二個大隊をぶっつぶした。その
正気か!? と皆が圧倒されるなか。
「閣下! 我が中隊もお手伝いいたします!!!」
王国軍中隊長がいち早く呼応した。
「ありがたい! 基本的に奴らの攻撃は俺には無力だが。死体の山から旗探すには、俺ひとりじゃ手が足りねえ」
「ええ! 打って出ましょう! 抵抗の意志を示すぞッ!!」
「「「「オオオオオオオオオオオオオ――――ッ!!!」」」」
いまだ肌が焼けただれたまま――。
竜殺しは片手剣を手に飛び出していった。
王国軍の精鋭一二〇名も彼に続く。
本陣に引き揚げていった――そう思っていた、テッサリア軍に動揺が走った。
「そうだ。ワインのお代わりはいらねえかい!」
竜の屍につぶされた仲間を放り出し、
彼が片手剣を振るい敵を追い払う間に、王国軍の兵士たちが軍旗を回収した。
「閣下! 大隊旗ふたつ、中隊旗ひとつを回収しました!」
「
テッサリア軍、カルディツァ軍、双方が引き揚げた。
六日目の激戦は、かくして幕引きとなる。
***
テッサリアの槍兵一個大隊が、ほぼ全滅。
弓兵一個大隊にいたっては、竜殺したったひとりに壊走した。
その後方の魔術師部隊は、雷撃の魔術を一斉に浴びせるも、竜殺しにはまるで効かなかった。それどころか、想定外の接近戦で五十名近くも殺された。
要塞攻略のため用意していた切り札、「アロサウルス・フラギリス」を投入してもなお、竜殺しを討ち果たすにはいたらなかった。
竜殺しひとりが、まるで堅牢な要塞に思われるほど、強かった。
カルディツァ兵の損耗もまた、激しかった。
大楯を構えていた小隊と、その後方で斧槍を手にしていた小隊。彼女たちの八割が戦死した。
この六日間の犠牲者をすべて合わせて、一二〇名を数える。これは一個中隊ぶんに相当する。シャルルが戦力化した私兵。その三分の一が喪われた計算だ。
カルディツァ軍がこれだけの犠牲を払って、テッサリア軍に一八〇〇ほどの犠牲を強いた。彼我の損害比率は十五倍。十分すぎる戦果といえる。
しかし、篝火が照らす彫りの深い顔立ち。その影は深みを増すばかり。
(あいつらの
ヘレナに治療を受けながら、シャルルは思う。
敵味方入り乱れたなかから、仲間の屍だけを拾うのは困難だ。
なにより、今も
天候が崩れ、吹雪で視界が遮られたなか、やみくもに撃っているせいか。まったく見当違いにすっ飛んでいくのもあれば、まれに陣内に弾着することもあった。
これが、夜通し続くのだろう。たちの悪い嫌がらせだ。
(――無理だな。これ以上は)
王国軍兵士と私兵たちの疲労は、限界に達している。
(もう一日くらい、ここで踏みとどまりたかったんだがなあ)
この大崖線を突破されたら、郡都カルディツァまでは
まだ逃げ切れずにいる民草を、戦禍に巻き込むことになるだろう。
(――またやるのか。あの撤退戦を)
コンスタンティノポリスを包囲した、異教徒の
改宗者たちによって編制され、鉄砲で武装した
彼らの追っ手から、父の棺を守り抜き、
それを――民草を守る
強く。より強く。
こぶしを握り締めて、
***
七日目の早朝。
朝靄のなかで川下に向かって整然と並ぶ兵士たち。
敵味方入り乱れた
「勇敢なる戦士たちよ。これが
「一同、敬礼!」
号令とともに、皆が背筋を伸ばす。
一斉に右手を左胸に当てる。その表情は様々だ。
硬い表情を崩さない者。
彼女らの想いを背負い、彼は新たなる道を示す。
「集いたるわが友よ。帰りて皆に伝えよ。わが
それは、生き残った者たちへの言葉でもある。
帰りて皆に伝えよ――生き残れ、ということ。
「カルディツァへ
「「「「オオオオオオオオオオ――ッ!!!」」」」
意気軒高な
夜通しの投石を繰り返した早朝に、川霧のなかで響き渡ってくる
それが圧倒的優位に立っていたテッサリア軍に、
彼女らが攻勢に出なかったことが、撤退するカルディツァ軍に有利に働いた。
大崖線の戦いは、双方に無視できない損害を出しながら、決定的な勝利をもたらすことなく、いつの間にか終結した。
これ以降、戦線はより北へ――郡都カルディツァへと移っていく。
【あとがき】
大崖線の戦いは、
誇張を除いた実際のテルモピュライの戦いも、ギリシャ軍一三〇〇以上(スパルタ重装歩兵全滅、スパルタ軽装歩兵壊滅または全滅)に対し、ペルシア軍二〇〇〇〇以上とされており、圧倒的物量の敵に対して、一五倍強の犠牲を強いたようです。
>「集いたるわが友よ。帰りて皆に伝えよ。わが
シャルルがこう演説したのは、詩人シモデウスによる以下の詩を念頭に置いたものです。
「見知らぬ旅人よ、行きてラケダイモン(=スパルタの自称)の人に伝えよ。われら命に服して、ここに眠ると」
次回は、郡都カルディツァに舞台を移してまいります。
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