第二幕:火の鳥

第9話 剣を持つ者(1)

 悪夢の翌日から、郡伯カロルス・アントニウスは一変した。

 鎧を脱がないと決めた。いつ、いかなる時も――。

 雪洞イグルーでなく、本陣で座ったまま眠りにつく彼。その周囲に空気さえ凍らせる魔力マナが常に迸っている。味方さえ畏怖を覚えるほど、底知れぬ量の魔力マナの奔流が――。


 ***


『バルティカの皇帝陛下が、魔術的に脆弱であってはなりません』


 まぐわいの果てで、ヘレナが口にしたことは、実に重たかった。


『シャルル様がご覧になった「告知」――あれは、おそらく。あなた様が近い将来に迎える未来の予測。そう思われてなりません』

『マジかぁ……』


 どうすりゃいいんだ!?

 頭を抱えたシャルルを、ぬくもりが包み込む。


『未来を「修正」すればよいのです』

『――何を言ってるんだ。エレーヌ』


 ヘレナ・トラキアの献策は、こうだ。

 彼――シャルル・アントワーヌに下賜された、三種の装備。

 すなわち、嵐竜らんりゅう皮衣かわごろも淡雪あわゆき鱗鎧うろこよろい竜玉りゅうぎょく腕輪うでわ

 これら三つが組み合わされることで、あたかも竜のごとき、堅固な護りを得ることができる。戦場にいる間、これらを身につけておく。それで、死に至る猛毒に対する耐性もまた、維持しつづけられる――と。


『現に、予測なさった未来を修正されておられます。シャルル様は――』


 王都が燃やされることを未然に防いだ。

 代わりに関所が炎上し、顔なじみの兵隊が何人も死んだ。

 それでも、王国が滅亡する最悪の結末だけは回避できた。


『高貴なるお立場ゆえに受け継がれた力。あなた様がお持ちになった資質。これらを遺憾いかんなく発揮されるときがきたのです』


 誰よりも自分を愛し、理解してくれる。

 彼女の言葉に背中を押され、彼は鎧を脱がないと決めた。


 ***


 戦いの二日目。

 敵は早々に力押しをあきらめた様子だ。

 そして――大規模魔術の行使を試みた。

 一時的に川の水位が上がる。あたかも高潮のように。それがはじまりだ。

 穏やかだった川面かわもがみるみる荒れ狂い、レヴィアタンリヴァイアサンへと変わりはてる。

 上流から水を吸い上げ、鉄砲水とする。その水攻めの予測を立てていたヘレナは、王国軍とともに対抗術式を編んでいた。

 森の木々をなぎ倒しながら、大地を穿うがつ、どす黒い水。土を巻き込み、押し寄せる怒涛は本陣の後背こうはい――北から東に向かって掘られた、空堀になだれ込む。

 水の流れを押しとどめるには、莫大な魔力マナがいる。

 だが、本陣から逸らし、流れを変える。つまり、受け流すだけなら、わずかな魔力マナで十分だ。彼女はそう言った。

 地を這う竜と化した濁流は低地を選んで、空堀のさきを掘り進める。

 果たして、とぐろを巻いた鉄砲水は轟音とともに、崖に滝を作った。


(これが大規模魔術……なんちゅうことを)


 軍隊の弱点は、背を向けた真後ろだ。

 しかし、後ろに回り込んだところで、それを見逃すことはない。

 サイフィリオンの索敵能力と、それを十二分に引き出せるオクタウィアがいる。

 からに回ったところで、あの色違いの目からは逃れられない。

 それでも空堀を掘らせたのは、万にひとつの奇襲をしのぐため。こんな鉄砲水に襲われることなど、はなから計算外だった。


(この発想は、なかった)


 冷や汗が滴り落ちる。

 ヘレナが水の扱いを熟知していることは知っていた。

 だが、ここまでのことをやってみせるとは、想像の埒外らちがいだった。


「すごいな! エレーヌ」


 目を輝かせ、振り向いた彼女の手を両の手で握りしめる。


「エレーヌにみんな、救われた。本当に、ありがとう!」


 キラキラ光る瞳は、美少年のまなざし。

 それが眩しいのか、彼女は赤紫色の目を宙に泳がせていた。


「そ、それほどでも……」

「君の手柄だろ。もっと胸張ればいいじゃねーか」


 そこまで言って、ようやく頬が和らいだ。


「工兵の皆様の測量技術。そのおかげでございますから」

 

 ヘレナいわく。水は高きから低きへ流れる、と。

 空堀はわずかな高低差を巧みに見極め、最も低いところを掘っていた。

 ヘレナは空堀に手を加えて、水の流れを誘導するための術式を編んだ。

 魔術師たる王国軍の兵士が数人いれば、術式は維持される。術式に必要な魔力マナは、街道に沿った龍脈から供給されるしくみだ。

 テッサリア軍の大規模魔術。そのひとつ目は、こうして無力化された。


 ***


 その晩の未明のこと。

 私兵の数人が腹をくだした。

 ヘレナや王国軍の衛生兵が調べたところ、毒物に暴露されたとわかった。

 テッサリア軍が夜襲を防ぐため、陣地の周りに撒いたらしい毒物が、たまたま風で運ばれてきたのではないか。そんな見解を耳にして、思った。


(もし――俺が、装備コイツを身につけていなかったら)


 毒に穢されて、「告知」が現実になっていた。

 身の毛がよだつ想像に、この身が震えあがる。

 それと同時に、動かぬ確信をひとつ。手中に収めることができた。


(俺がみる悪夢には、致命的な未来の「告知」が含まれている)


 死んだ親父おやじが背負わせた、高貴すぎる身分。

 それに伴った、あまりにも大きすぎる義務。

 いわば、すさまじく切れるダモクレスの剣。

 その切れ味は、未来を縛る「鎖」をも断つ。


(俺の双肩にぜんぶかかってる? おもしれぇ。やってやろうじゃねぇか)


 本陣で目を瞑りながら、椅子に深く腰掛け、彼は微睡まどろんでいた。


 ***


 戦いの三日目。

 オクタウィアから新しい報告が届けられた。


『輸送船でしょうか。大きな川船が何艘も連なっています』

「物資を届けにきたのか」

『それだけではないみたいです。これまでとは違う軍旗を掲げています』

「増援を送り込んできた。なぁるほど。そういうわけだな」


 人材がたくさんいる。うらやましくて、ため息さえこぼした。

 そんな彼の反応に、近頃はオクタウィアも慣れてきたらしい。


『師範は恐れしらずですよね』

「なんだよ、やぶからぼうに」

『あれだけの数の兵隊が来るのに、淡々としているじゃないですか』

「しらないわけねーだろ。俺だって人間だ」

『神経が図太ずぶとすぎませんか。恐怖をしらない。としか思えないんですけれど』

「そうじゃねぇ。たんに麻痺まひしてるだけだ」


 ため息がもれたのが伝わってきた。


『……本当に、五千人に囲まれるかもしれませんよ』

「はなっからそのつもりさ。堅固な要塞を囲み、潰すには十倍の兵力がいる。エールザイレンを使わないなら、そのくらい使わねぇとな。俺たちの守りは抜けん」

『いつまで、ここでくい止められるとお考えで』

「一週間。それくらい持てば、まあ上出来ってところだな」


 レオニダス王はテルモピュライで三日間、ペルシアの大軍を押し留めた。

 それに倍する一週間。この地で敵を押し留めれば、民草の疎開そかいがすすむ。

 今朝ユーティミアが早馬で寄越よこした報告によれば。王都とキエリオン郡から羊毛が届けられた。街を出られなかった子供たちの疎開の見通しが立った――とある。


「とにかくだ。今日を生き延びれば、俺はレオニダス王を越えられる」

『レオニダス王? 誰の名前ですか』

「スパルタの王様。つっても、まぁ。オクタにはわからねぇんだろうけど」

『師範がそうおっしゃるということは……著名な武人であられたお方、ですか?』

「ああ。何十、何百倍の敵を相手に、一歩も退かなかった。そんな英雄さ」


 一瞬、言葉に詰まる。

 オクタウィアがおそるおそる訊ねてきた。


『――そのお方は、どうなったんですか?』

「敵に囲まれ、退路を断たれた。普通は投降する。だが、そいつらは古代ギリシアでもっとも勇敢な戦士だった。右手に長槍、左手に大きな丸い楯を持った、三〇〇人の重装歩兵。かれらは一糸乱れず、密集して戦った。槍が折れたら剣で。剣が折れたら素手で。腕が折られたら歯で。果ては、数万の敵を道連れに全滅した」

『…………』


 数万、という数字。それは彼女の理解を越えていたのだろう。

 テルモピュライでペルシア軍が失った兵力数は、テッサリアの全兵力数に値するのだから。


「彼らが稼いだ数日間で、ギリシア軍は反撃態勢を整えた。自分たちの命をかけて、国家の危機を救ったのさ。文字通り、救国の英雄だ」

『そこで戦死なさるおつもりですかッ。皇帝陛下!』

「心配すんな。オクタウィア。俺は死なねえ」

『その自信ですよッ! いったいどこから出てくるんですかッ!』

「自信じゃない。あえていえば、そうだな――ちかいだ」

『……ちか、い?』

「俺が死んだら、みんなおしまいだからな。だから、絶対に死ねない」


 死ぬわけには、いかない。

 この大地を焼き払われるわけには、絶対に――。


 ***


 その日は、午後から吹雪が吹き荒れていた。

 前日までのような敵の攻撃や、大規模魔術の行使はなかった。

 物見の兵たちが目を凝らすも、白い嵐のさきの敵陣は見えず。


「この嵐じゃ、やっこさんもまともに動けないんじゃないかい」

「まぁ、そうだよねぇ」


 雪洞イグルーにこもる私兵たちには、つかの間の休息となったようだ。

 緊張の解けた。悪くいえば気の抜けた彼女たちの様子に、ため息をこぼす。

 そんな彼に、クロエがハーブ茶を持ってきた。


「ご主人様、少しお休みになってください」

「ありがとう。いただくよ」


 ほのかなハーブの芳香。

 ほんの少し、蜂蜜の甘みが舌に残る。


「茶をれるのが、一段と巧くなったな」

「あ――ありがとうございますッ」


 クロエの顔に、ぱっと微笑みがひらく。

 戦場の空気にも慣れつつあるのだろう。


「ご主人様は休まれないのですか?」

「この鎧を脱ぐわけにいかねぇしな。本陣ここで仮眠さえできればいい」

「では、少しだけお眠りになりますか?」


 覚えたばかりの、子守唄の魔術を使うという。


「ソフィア王女様から、いくつか手ほどきを受けまして」

「そうか? じゃあ頼むよ」


 背もたれのある椅子に腰かけたシャルル。

 彼の耳元で、少女は歌を口ずさむ。

 胸に懐かしい気持ちが去来し、仮初めの安らぎに包まれた。


 ***


 戦いの四日目。

 吹雪は収まったが、いまだ空は雲に包まれている。


 大断崖に沿って、東へ二、三マイル四キロメートル強進んだ原野のなか。

 二個中隊――二五〇名程度の集団がいた。テッサリア軍の別動隊である。

 物見が何も見通せない猛吹雪のなかをかいくぐって、原野を移動した彼女たちは、断崖の下に取りついていた。

 堅固に要塞化された、カルディツァ側の守りを破る。敵陣の側面に回り込むため、比較的登りやすい場所を探していた。

 そして、高い断崖に連なった踊り場をみつけた。

 テッサリアは豊富な木材を擁し、木組みに長けた職人もまた多い。必然的に木材の加工を得意とする工兵たちもいた。

 梯子はしごを組み立てて、踊り場と踊り場をつなぐ。造作もないことだ。こうして、守りの手薄な側面。あるいは背後に回り込んでの攻撃の足掛かりを築いた。

 満を持して、二個中隊――二五〇名の半分、百名ほどが登攀とうはんを果たした。

 これで、敵の裏をかくことができる。誰もがそう思っていた。

 そこで、襲撃を受けるなど――いささかも考えていなかった。

 胸を矢に射抜かれた者は、なにが起きたのか、わからぬまま。

 真っ白な雪原に赤い花びらを散らして――その生涯を閉じた。


 ***


「バレてないと思ったか?」


 腕組む彼を尻目に、森に潜んだ王国兵が敵兵を射殺いころしていく。


 テルモピュライの戦訓によれば――。

 ペルシア軍は山中を抜ける迂回路を通り、ギリシア軍を包囲した。

 レオニダス王率いる、スパルタの精鋭たちは、「詰み」となった。

 その後、数万のペルシア軍を道連れに、レオニダスらは玉砕した。


 だが、彼は死ぬわけにいかない。

 彼が死を迎えれば――

 この大地が怒りの炎によって、焼き払われる。

 それを避けるため――

 迂回してきたテッサリア軍の別動隊を叩いた。


『温度が「見える」――これ! 本当にすごいですねッ。敵がどこに潜んでいるか、丸わかりですよ!』


 その立役者の息を弾ませる声が、彼の脳裏にだけ響いていた。

 興奮気味のオクタウィア。その嬉々とした声色せいしょくに、違和感を感じた。

 彼女の言動が妙に高揚している――そのことにシャルルは気づいた。


 ――機動甲冑は臆病も、迷いも。未熟な私のありとあらゆる負の感情を全部殺していた――。


 かつて、彼の目前で恐怖におびえ、そう叫んだオクタウィアの姿を思い出す。

 剣術の師範として、物怖ものおじするな。迷うな。彼女に厳しく言ったことがある。

 サイフィリオンに乗っているときの彼女は、彼が木剣で手合わせした頃の彼女とは別人に思われてならない。

 機動甲冑の働きかけによって、「戦士」へと変えられている。

 それを「成長」と素直に喜んでよいのか。

 結論の出ない問いは、長く続かなかった。


「――閣下。いかがなさいますか」


 百のがらを作りせしめた頃。

 王国軍の中隊長が、次の指示を求めてきたからだ。


「あ、ああ。逃げる崖下の敵は、矢で射掛けて追い払うだけでいい。深追いするな。せっかくだ。置き去りの物資は、おみやげとしてもらっておこう」

「かしこまりました。回収が終わったら、梯子はしごは破壊しておきます」

「それでいい。では、よろしく頼む」


 短く指示を下してから、オクタウィアに声を掛けた。


「助かったよ、オクタ。あの吹雪の中で、よく敵の動きを察知できたな」

『サイフィリオンのおかげです。この子、雪の中もすごく目が利くので』


 あれから何があったのだろう。

 あれほど恐ろしいと口にしていた存在を、「この子」と呼ぶ。

 オクタウィアには、とても親しい存在になりつつあるらしい。


(サイフィリオンとオクタウィア。俺とアイツエールセルジー以上に相性がよさそうだ)


 それ自体は、喜ばしいことなのかもしれない。

 彼女たちの目のおかげで、テッサリア軍の奇襲の芽が摘まれたのだから。

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