閑話 マダム・アイアン・バタフライ

 イメルダ・マルキウス。

 大テッサリアの盟主にして、今や鋼鉄くろがねちょうと謳われる僭主せんしゅ

 齢五〇をすぎた彼女には、先祖伝来の「宿願」があった。

 それは東の仇敵、スキュティア人をテッサリア平原から追放すること。なかんずくその盟主である、トリカラ一門の血を根絶やしにすることだ。


 禍根の淵源は、百数十年前。

 テッサリア平原の東方から、スキュティアと呼ばれる遊牧民が流入した。

 連中は穀物を奪い、テッサリア東部各地を荒らしまわる野蛮人であった。

 マルキウス家の中興の祖、ドロテアに嫁ぐはずだった王家の血筋を引く娘――彼女を奪い去り、あろうことか子まで産ませてしまった、忌まわしい奴らでもある。

 その王家の血筋を引いた部族長に辺境伯号が授けられた。放置すれば厄介な餓狼に首輪をつけてやった。王国にしてみれば、そんなつもりだったのだろう。

 トリカラは「王国の守護者」を自負し、他国からの侵略の際、王国の騎馬隊として鬼神の働きをした。辺境伯号の世襲が認められたトリカラ一門は代々部族長が「トリカラ辺境伯」を名乗り、スキュティア諸部族の頂点に君臨している。

 そして、スキュティア人は他国と接する王国外縁部――テッサリア東部から南部にかけて、なし崩し的に領地に組み込んでいった。

 この喪われたテッサリアを回復することが、マルキウス一族の宿願だった。


 三〇年前、家督を継いだイメルダは、先祖伝来の宿願を「悲願」に掲げた。

 平原の東南に侵食していた、スキュティア人の領域を分断することに成功。

 テッサリア人の「聖地」であった、デルフォイ山地と神殿をも取り返した。

 精強、かつ美貌を誇ったイメルダの名声は、若くして絶対的なものとなる。


 しかし、穀倉を荒らすネズミを完全に駆逐することが容易ならざるように。

 スキュティア人という連中は実にしぶとい獣で、神出鬼没の盗賊であった。

 彼奴きゃつらは、ひとつの部族が巨大な家族であるという。それは弓弦ゆづるよりしなやかで、鋼より固い結束をはぐくむ。「木隠こがくれ」という厄介な魔術を使って、草叢くさむらや森林に身を潜ませることにも長けている。

 歳を取り、みずから馬に乗って駆けることがなくなった今。スキュティア人は再び平原を侵略するようになっていた。贅沢がたたり肥え太り、痛風に蝕まれたイメルダが、往年のようにみずから戦場に立つことは――もうない。


 ないだろう。と思っていた。

 あの奴隷ジェリコを手にするまでは。


 真の名を以って万物を招来する、召喚魔術。

 それを用い、ヒトの奴隷を使役する禁忌を成し遂げた。

 その報告の衝撃たるや、手にしていた杯を落とすほど。

 ただの奴隷ではない。心以外の五感すべてをわが物とした奴隷だ。

 薬物により正気を、味覚を奪い、快楽アメ苦痛ムチを以って手綱たづなとした。

 わが意のままに動かせる駒であり、耳目であり、手足ですらある。


 しかも――だ。

 それが、眠っていた太古の機械人形をも目覚めさせた。

 難点を挙げれば、何事もあの奴隷ジェリコりすぎることだが。殺戮と破壊を目的とした純粋な兵器とみれば、むしろ都合がよい。

 ラリサの閲兵場ごとペレッツ一党を叩きつぶした惨状は、「戦慄」という言葉すら安っぽく思われるほど、ひりつくようなおぞましさがあった。

 この底知れぬ「恐怖」を意のままに操れる。

 その万能感たるや、どんな美酒よりも酔いしれるほど。

 災厄さいやくをも起こす手段が手中にある。イメルダは身震いせずにいられなかった。


 齢五〇をすぎて、長女のイレーネに家督と面倒な政務を譲った。

 その一方で、みずからは大御所として隠然たる実権を握りつづけていた。

 権力者イメルダは、痛風の苦しみで失いかけた情熱を完全に取り戻した。


 資格者ジェリコを引き渡すよう、勅命が下されたとき。

 イメルダの脳裏に、どす黒い思惑が根を下ろした。

 否――百数十年にわたって積み重なった、もうひとつの宿願。

 先祖代々秘されてきた、「野望」という「種子」が発芽した。

 イメルダは勅命を逆手にとった。ペレッツ一党を殺害した罪人として、ジェリコを告発。いさぎよく王国軍に引き渡し、王都へと向かわせた。

 計画は首尾よく進んだ。カロルス・アントニウスに邪魔されるまでは――。


 思い起こすのは、ジルトゥニオンの山火事。

 あれ以上の惨事を、王都で引き起こすことができていたら――。

 ルナティアの国体は瓦解、ジェリコを縛る律法は空文くうぶんとなろう。

 そうなれば、ジェリコは「自由」だ。

 イメルダが握りしめた魂の鎖、それ以外の何者にも縛られない。


 否。律法によれば、資格者を使役できる存在はただひとり――女王である。

 女王ディアナが死ねば――イメルダ・マルキウスこそ、次の女王たりえた。


 しかし、それはカロルス・アントニウスに阻まれた。

 さすがは「竜殺し」。獣のようなジェリコを巧みにいなし、立ちふさがる。

 長年の経験と勘。それはまだ錆びついていなかった。

 ジェリコを無理やり戦場から退却させた。その代わり、関所を叩き潰した。

 関所が無くなれば、王国軍は従来以上の戦力を直轄領に割かねばならない。

 示威行為であると同時に、王国軍を直轄領以北に閉じ込める思惑があった。


 テッサリアは王国の穀倉地帯である。

 テッサリアと直轄領の回廊こそ、「竜殺し」カロルスが居座るカルディツァ郡。カルディツァ郡での戦闘が継続すれば、あらゆる物資の取引が滞る。必然的に直轄領の民草は飢えと物価高に苦しむ。

 女王は足元の統治の立て直しを余儀なくされ、「竜殺し」カロルスへの支援を諦めるだろう。そうすれば、彼奴きゃつは孤立する。戦って華々しく死ぬか、逃亡しても膨大な債務を抱えて破滅するか。そのどちらかだ。


 竜殺しとの戦いが、戦術的に劣位であろうともかまわない。

 それらを補って余りある、戦略的優位を作り上げればよい。


 ジェリコをめぐる数々の勅命も、有耶無耶うやむやにできるかもしれなかった。

 東方のスキュティア人はその後に、片っ端から根絶やしにすればよい。

 いっぱしの王国の臣民を気取った遊牧民どもを駆逐しようではないか。

 根拠地トリカラ市を焼き尽くす。王都を燃やすよりずっと容易たやすかろう。


 殺せ!

 つぶせ!

 斬り刻め!


 焼け出された褐色の賤しい者どもに墓石は要らぬ。

 積みあがった屍体を、休耕地に埋めてやればよい。

 テッサリアの穀物を奪って肥えた体を無駄に捨てるよりは、使い甲斐があるというものだ。


 八百年間、きらめきつづけた月は沈まんとしている。

 闇はいっそう深みを増す。月明かりのないみちは暗い。

 しかし、古代文学をそらんじれば、闇深ければ暁近しThe Darkest Hour Is Just Before The Dawnとある。

 先祖伝来の悲願――テッサリアの平和パクス・テッサリアーナという名の夜明けは近い。


 国家経営に欠かせぬものは、食糧とカネである。

 それらを生み出すのは、農民と商人たちである。

 彼女らテッサリアの民を守護し、統帥するためには、絶対的な力が欠かせない。

 テッサリアを治める我々マルキウス一族こそ、その力を手にするにふさわしい。


 湧水のようにこんこんと穀物が湧いてくる。

 そんな心得違いをしている魔術師どもを、国家の中枢から一掃しよう。

 斜陽化した国家を刷新する、新しい国家像――それが大テッサリアだ。


 本来は、もっと時間をかけて進める計画であった。

 異邦人の「竜殺し」と心中する覚悟が女王にあるだろうか。

 絶対にそんなわけがない――こう、イメルダは高を括っていた。

 カルディツァに攻め入って、「竜殺し」を再起不能に追い込めば、北の脅威は無くなる。それから、東のトリカラを攻めてスキュティア人どもを蹴散らす。

 これらすべてつぶしてから、満を持して直轄領を切り取っていく算段だった。


 ところが、女王ディアナはしたたかな君主だった。

 イメルダが思っていたより、ずっと強靭な意志の持ち主だった。

 ジェリコと機械人形を引き渡そうとしないイメルダを、女王は「王国の敵」とまで言い切った。いま王国に売るつもりのなかった喧嘩は、こうして買い取られた。

 それにくわえて、かつて王国最強の騎馬隊として名を馳せた「トリカラ辺境伯」が呼応する兆候さえ見せている。

 イメルダの思惑が狂った。テッサリアは、北方の王国正規軍と東方のトリカラ軍を相手に、二正面作戦を強いられようとしていた。


 しかし、引き返すことはもはや能わず。

 一度空に上がった狼煙のろしは、消し去れず。

 一度始めた戦いは絶対に負けられない。


 アーレア・ヤクタ・エスト――。


 月が西に没するとき、太陽が東より現れる。天文てんもん不変ふへん原理ことわりだ。


 我、必ずや。太陽とならん――。


 どれだけの血潮を流しても、蒼き大地を真朱まあかく塗り替えてみせる。

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