第8話 崖線の戦い(4)

 それから遡ること、数分のあいだ――。


「あぐッ!」


 さやの中で、鞘口さやぐちを引き裂かん勢いでやいばが暴れ狂う。 

 肉がちぎれる痛みに、ヘレナ・トラキアは耐え続けていた。


(痛ッ――!!)


 寝床を叩き壊すほど、悪夢にうなされた。

 その時と同じように、苦しんでいる彼がいた。

 その身体を押さえつけ、組み敷いて、過呼吸に陥った吐息を唇で塞いだ。

 準備なしの男女の交わり。軍服の下腹部だけを脱ぎ払い、暴れ回る彼の剛直な剣を収める鞘となることを選んだのには、わけがある。

 鎮静の魔術が使えれば、こんな荒療治はいらない。

 だが、ここは、いつ敵に攻め込まれるかわからない最前線。彼の意識を深く鎮めている間に奇襲を受けたらどうなるか。極めて危険が伴う選択はできない。

 音の伝播を遮断する結界を張った。

 誰の助けも求めず、自身がすべて引き受ける。その覚悟を決めた。


「私がッ……ああッ、ぜんぶ、受け――うぐっ――とめ、ます。からぁ……」


 目に涙を溜めながら、暴れ馬を御する馭者ぎょしゃと振る舞う。破瓜はかのごとく血を流す唇に治癒の魔術を使いながら、振り落とされないよう、巧みに騎乗する。

 魔力マナ交換を行うのに性行為は最も効率が良い。体液と粘膜を通じて魔力マナが行き渡りやすいだけでなく、新たな命を授かるほどの魔力マナが行き交う行為でもあるためだ。

 互いの魔力マナが入り交じる行為がもたらす、その効果は絶大。魔力マナ枯渇こかつに対する緊急手段であるだけでなく、精神的に感応かんのうする副次的な効果がある。

 どんな激しい行為の後も、心が安らぎを得られる。

 知識ではなく――経験でわかっていたからこそ、選んだ一手。


(どうか、女神様。どうかこのお方をお助け下さいッ。どうか――ッ)


 いのる想いで泣きながらゆるしを乞うヘレナの一念が通じたのか。


「――もう、もう――もう、やめてくれェェェェェッ!!!」


 喉の奥から絞り出した絶叫のあと。

 暴れ馬は打って変わり、大人しくなった。

 冬の嵐のごとく打ちつけた波濤はとうが、嘘のようにいでいった。

 剣と鞘のあいだに、血の混ざった泡と液がじわりと染み渡る。


「シャルル様、お気は確かですか?」

「――え、れ――ヌッ!?」


 ぎょっと見開かれた瞳を覗き込む。

 少年のようにつぶらな目から幾筋も涙がこぼれた。


「ごめん、エレーヌ……ごめんよぉ……んむッ!?」


 汗ばんだ頬を包み、口づけをする。

 彼女から舌を絡ませて、傷ついた彼の心を蕩かせてゆくように。

 息苦しさに唇を離すと名残惜しげに、唾液の吊り橋がかかった。

 時間が止まった。

 そんな一瞬のあとに。


「あ、れ……ここ、は?」

「雪洞の中でございます」


 真顔で見つめ合ったあと、彼が大きく息を吐く。

 ヘレナは、つとめてゆっくりと語りかけた。


「また、悪夢に……うなされておいででした」

「夢を……みていた? クロエは、どこだ?」

「ご安心ください。ぐっすりと眠ってございますよ」


 滂沱ぼうだとこぼれ落ちる雫。

 彼がさめざめと泣いて、鼻をすすらせた。


「どうなさいましたか、シャルル様」


 濡れた頬を撫でさする。直感がよぎった。


「――また、ご覧になったのですね。皆が亡くなった夢を」


 少年のごとく、彼は頷く。

 ヘレナは理解した。彼が『告知』をけたのだと。


「もしかしたら……私も、でしたか?」


 意外にも首を横に振った。だが、様子がおかしい。


「いや……でも、別人のように怖い顔で」

「何か、酷いことを申し上げましたか?」


 明らかに言いよどむ。何か恐れているかのように。


「それはきっと、私の姿を借りたまぼろしです。どうか、話してくださいまし」


 瞳の奥をじっと見つめて促すと、彼の唇が動いた。


「クロエが死んだのは……俺のせいだと」

「――ッ!?」

「こんなことなら、俺を……助けなければよかったって……」


 涙にぬれ、った頬を包んで、ヘレナは何度も口づけた。


「かわいそうなシャルル様……私の魔力マナが流れ込んだので、負の感情が私のかたちをとって表れたのでしょうか」


 頷く彼の目に光るものがあった。


「皆が息絶えたなかで、私の姿をした何者かが、きっと、あなた様の心を切り刻んだのですね」


 あれほどたくましく、頼りがいのある彼の初めて見る姿。

 とても、愛らしい。初めての感情にこの胸が満たされる。

 子を授かったことのないヘレナに、母親のような感情が芽生えた瞬間だった。


「血の匂いがする……まさか、エレーヌ」

「性器が少し裂けただけです。もう、治しました」


 青ざめた顔。めったに見せない表情がそこにある。


「俺は……なんてことを……」

「私がこうすると選んだ結果です。どうぞお気になさらず」

「いや、そうは言っても……」

「では、このままじっとしてくだされば」


 頭を抱えようとした彼の顎をくいと上げ、小鳥の口づけを続けること数分。


「いけませんね。シャルル様のお気持ちを鎮めたかった。それだけなのに」


 なんて貪欲な女だろう。

 カラダがもっと、もっと快楽を求めてしまう。


「かえって、私の気分がどうしようもなくなってしまいました。どうかこのまま、私を抱いてくださいまし」

「……とてもそんな気分じゃない」

「――シャルル様は嘘をついておいでです」


 身体のなかでたかぶった得物は、いまだ果てることを知らない。


「前にも言ったろ? コイツは、自分じゃどうしようもねぇんだ」

「では、今宵こよいは……」


 とめがねをひとつずつ、上からはずす。

 軍服の前をはだけて、絹の下着を脱ぎ払う。

 そうやって、真っ白い果実をふたつ差し出した。


「――私が、あなた様を犯します」


 傷はとうに癒した。錆びついた歯車でも油をせば、円滑に回るようになる。同じように、剣と鞘が隙間なくひとつになっていた。

 一度回りだした水車は止まらない。刺し貫かれ、壊される苦痛が嘘のように、快楽へとめぐりめぐって、たちまち腹の奥から脳幹へと全身を貫いた電撃となる。

 こんなはしたない姿を他人に見られたら――その気持ちを頭の片隅に追いやった。今さら騎乗をやめるつもりはない。握りしめた両掌を手綱にかえて乗りこなす。味わった苦しみと悲しみを補って、はるかに余りある喜悦が彼女を突き動かす。

 身体の奥に杭が打たれるたび、きつく結んだ唇から甘い息が漏れ出した。何度も、何度も、大地を揺らす激震が走って、何もかもガラガラと崩れ去っていく。


「ああ、クソッ!」


 男性オスという生き物は、生殖本能に逆らえないものらしい。

 まろびでた肉の鞠をゴツゴツとした大きな手のひらで包まれ、ほぐされる心地よさに酔いしれる。そこに自発的な律動が加わる。もはや、声を噛み殺せなくなった。


「どうなってもしらねーぞッ」


 その思い切りのよさは、時に向こう見ずなほど。

 本来の彼が還ってきた。ヘレナは二重、三重の悦びにうち震える。

 暴れ馬は空翔そらかける天馬ペガススとなった。

 そして、泣き叫ぶヘレナを星空の彼方へと打ち上げていった。


 ***


 シャルル・アントワーヌは混乱していた。

 何が起きているのか。わけがわからない。

 何が現実うつつで、何が悪夢ゆめなのか。ごちゃごちゃになっていた。


「説明してくれ。なにがどうしてこうなった」


 まぐわいの果て。

 けだるさのなかで切り出す、もっと気の利いた何か。

 軽口に出すに足る余裕さえ、彼は絞りだせなかった。


「少しお待ちを。軍服がしわくちゃになってしまいますので」

(――さんざん俺の腹の上で踊りまわって、何を今さら――)


 ついて出そうになった憎まれ口をぐっと呑みこんだ。


「石鹸はたしか、このあたりに――」


 使用人の挙措動作は、屋敷で目にしている仕草。

 服を脱ぎ、ぶつぶつと何かつぶやいているヘレナに、おかしなところはない。

 どこから湧いて出たのか。彼の拳よりも少し大きな水玉が現れては消え、消えては現れる。汚れた個所を丁寧に押すように洗浄する手際のよさは、日常の彼女のそれと変わらない。


「セット――ゲット・レディ――ウォータ――トランスピレーション」


 息が白んだ。

 否、彼女の手の中にあった衣服から一斉に湯気が立ち、消え去った。


「……なんだ、今の」

「濡れたままでは繊維せんいが痛むので、さっと乾かしました」

「――は!?」

「前にお話しした、泥濘でいねいから水を抜く原理。あれと同じです」


 すました顔で答える頬が、ほんのわずか、紅く染まる。

 絹の下着すら纏わない姿。その恥じらいが垣間見える。


「いつもの可愛いエレーヌらしくなってきた」

「また、ほおをひっぱたいて差し上げますか?」

「遠慮する。これが現実だってのは理解した」


 それからだ。

 ヘレナはシャルルの身に何が起きていたかを口にした。

 それを鎮めるため、とんでもない荒業あらわざを使ったことも。


「ごめん。苦しい思いをさせたよな」

「あなた様の背負った苦しみに比べれば、どうということはありません」

「とは言っても――ッ」


 唇を軽く塞がれる。


(気のせいかな。エレーヌがいつも以上に、優しく感じるのは)


 その微笑みがどこか、記憶の彼方にある母親の面影と重なる。


「お話しすべきことはこれがすべてです。よろしければ、打ち明けてくださいまし。シャルル様が何を見聞きしたのか」

(――どうすりゃいいんだ、これ)


 彼が見た『告知』は、ごくわずかの人間しか知らない秘密を含んでいた。

 彼がバルティカ皇帝アルトリウスの嗣子ししであるらしいこと。

 彼が女王ディアナをも凌駕りょうがする、「絶対命令権」を持ち得ること。

 彼が生死にかかわる状況に陥ったとき、機動甲冑たちが「彼ひとり」を守るため、黙示録もくしろくに記されたような恐ろしい破滅をもたらしかねないこと。

 長いようで短い。そんな逡巡しゅんじゅんのあと、彼は口を開いた。


「ひとつだけ。確認したいことがある」

「なんでございましょう」

「ソフィア様から俺について、他には絶対に漏らすな。そう、念押されたことが何かあるかどうか」

「ええ。ございます」

「それはなんだ」

「あなた様がどのような血筋のお方であらせられるか、でございます。ユア・マジェスティ」


 聞き慣れない。しかし、耳に残っていた言葉。


「それだ。最後のひとこと」

「……?」

「ソフィア様も口にしてた。深い意味のない古めかしい言い回しと言われたが、ずっと気になってたんだ。何か特別な意味が込められているんじゃないのか?」


 美しい赤紫色の瞳が見開かれる。

 目をつむって、ヘレナが答えた。


「古代語における、君主への敬称。今様いまように申し上げれば――陛下へいか、でございます」


 知っていた。

 知られてしまっていた。

 最も心を預けた女性に、自分が何者であるか――を。

 うなだれている暇はなかった。

 さんざん打ちのめされた心に鞭打って、彼は訊ねる。


「――この件は、クロエも知っているのか?」

「はい。姉妹同時に王女様より明かされました。他の者には一切口外こうがいせぬように、と王女様は厳命なさいました」

「――わかった。全部話す。俺が見たこと、聞いたこと――いや、この五感で感じ、知り得たすべてをだ」


 シャルルは何もかも、包み隠さずに打ち明けた。

 思わぬところで反応があった。


「……オクタウィア様と、接吻せっぷんを……」

「ただの蘇生術だろッ。それに、エレーヌは必死に俺の胸を圧迫してて、それどころじゃない様子だったからッ」


 ものすごくふくらませた顔を、つついてやりたく思ったのもつかの間。


「たしかに、理にかなった行動ではあるんです。カリス様から直接指示を受けられるお立場でもありますから。では、その続きはどうなったのですか?」


 一通りしゃべりつつ、彼は自分の身に起きた出来事を咀嚼そしゃくしていく。

 惨状を聞くにつれて、ヘレナの面持ちがより深刻さを増していった。


「ひとつ、腑に落ちないことがあります」

「なんだい?」

「シャルル様が選定の聖剣を抜いた。太古の機動甲冑を覚醒させ、災いをもたらした――こう、私が責めたというくだりが、どうにも納得できないのです」

「それは、幻かなんかだ。そう言ったのはエレーヌじゃないか」

「ええ。申しあげました。ですが、その内容は私はもちろん、そしてあなた様も――一切身に覚えがございませんね」

「そりゃそうだが。でも、ジェリコのときと一緒だろ?」

「その件は、王女様と私たちが存じ上げていました。つまり、あなた様もいずれ知る事実でした。しかし、これは明らかに違います。私はあの剣がなんであるか、詳しく知りません。それか、カリス様やその他の方からお聞きになりましたか?」


 そんな覚えはない。そう口にすると、ヘレナはこう言った。


「誰も知り得ないことを、シャルル様はどのように知り得たのでしょうか」


 わからない。ほんとうに身に覚えがなかった。

 何も言えない彼にヘレナが事実を突きつける。


「あなた様に他者の魔術回路を移植された形跡がある。おそらく、それはバルティカ最後の皇帝アルトリウスのもの。でなければ、選定の聖剣を抜くことはできなかったはず。王女様から伺った今になって、思い返したのです――聖剣を抜かれたあの日、シャルル様は変わってしまわれたのではないか、と」

(俺が――変わった?)


 何を言ってるんだ。エレーヌ。

 口をついて出そうな言葉を呑み込んだ。


「あの日からしばらく、シャルル様の食欲が落ちました。味や匂いがしないと伺った覚えもございます」

「たしかに……そんなこともあったな。今はなんともねぇが」

「いいえ。なんともなくありません。あえて申し上げますと、異常です」


 自分が異常だと言われた。

 身も心も許した相手であっても、決して心地よい言葉ではない。


「な、何を根拠にそんな……」

「今のシャルル様は、少なくとも、毒物を嗅ぎ分ける鼻はお持ちのはず」

「毒物って」


 まさか――!?

 シャルルの一瞬の閃きが、ヘレナの言葉でめられる。


「キエリオンのお屋敷で毒入りの菓子を指して、腐っているとおっしゃいましたね。異変に気づいた者が、ほかに誰ひとりいないなかで」

「……ッ」

「実際は腐っていたのでなく、毒が盛られていた。それを、シャルル様は腐った臭いとして嗅ぎ分けた。おわかりですか? 私たち女性の嗅覚では考えられません」

「おいおい、ちょっと待て! 別に、男だからって特別鼻が利くなんてこたぁねぇ。この国の女は、男がみんなそんなモンだって思ってんのか?」

「そうでは、ないのですか?」

「あったりまえだ。俺を犬か狼みたいな獣扱いしないでくれ」


 ヘレナ・トラキアは使用人であるが、貴族の子女でもあった。

 女王に仕える侍従長の次女である。ゆえに相応の学識を持つ。

 思案顔の彼女が、こうつぶやいた。


「私たちの作る料理を、シャルル様は普通にお召し上がりになる。精油や香料の匂いも、私たちと同じように感じていらっしゃる。たしかに私たちと同じです」

「そりゃそうだろ。男だから特別何かってことはない」

「ですからこそ、腑に落ちません。基本的な味覚や嗅覚。これらは変わらないはずなのに、局所的に毒物かそうでないか嗅ぎ分けができる。さすがに異常です」

「……そんなに俺を、尋常ならざるバケモンだって言いたいのかよ」

「いいえ。私の愛しているお方が特別すぎる。と申し上げています」


 愛している。

 ガキのようにいじけた心を、母親が解きほぐしてくれるように。

 ささくれだった心に、これほどまっすぐ突き刺さる言葉もない。


「特別すぎる、か……そりゃどうも」

「ほかにもございます。旬の果実とはいえ、酸味が強い林檎リンゴをそのまま口にされて、美味おいしいとおっしゃいました」

「酸味っていえば……そうだな。サロニカの軍艦でかじった『ライムーン』とかいう果物も美味うまく感じた」

「ライムーン……たしか、異国の柑橘かんきつで耳にした名前です」

「それだ! 船乗りに言わせりゃ、身体にいいらしい。片割れを兵隊にくれてやったのに、こんなもん酸っぱくって食えねぇって、文句言われたけどな」


 小気味よい笑みを作る横で、ヘレナが思索を巡らせる。


「これはあくまでも仮定にすぎません。シャルル様の鼻と舌は、より生存性に向いた能力を得たのではないでしょうか」


 生存性。つまり、生き残りやすさ。

 分厚い字引じびき容易たやすく引くがごとく。

 りし日の父の言葉がよみがえる。

 

 ――俺がお前を育てる。

 例え、俺がいなくなっても、お前一人で生き残れるように。

 だから、死物狂いで学べ。吸収しろ。

 一分一秒を惜しめ。俺の全てを、教えてやる――。


「――シャルル様、どうかなさいましたか」


 いきなり、現実に引き戻され、戸惑った。


「――わりぃ。毒物をみわけられる能力を体得した。そう言いたいんだな」


 彼女が頷いた。


「そして、これは能動的ではなく、受動的に働く高位魔術――言い換えれば、異能と表現すべき何か。しかも、先天的な能力でなく、後天的に得たものでしょう」

「選定の剣を抜いた時に、それが身についた。エレーヌはそう思うのか?」

「ええ。どことなく、首飾くびかざりの魔術まじゅつに近いものに思われます」

「くび……かざり?」


 初めて聞く魔術の名前だ。無理もない。


「あなた様がルナティア語ルナティアーノを理解できるように、私が使用したものです」

「あ……」


 ごく自然に受け入れてしまっていた事実。

 文字も読めない異国の言語を、かいすようになっていたこと。

 それもまた魔術の効能だと聞かされ、シャルルは仰天した。


「そんなとんでもねぇ魔術がエレーヌには使えるのかよ!?」

「いいえ。特殊な術式が組まれた首飾りがございまして。それに魔力マナを流し込んで、発動させるものです」

「そいつは、ルナティアの魔術とは違うのか?」

「首飾りの魔術は、帝国時代の術式とされております。とても謎が多く、同じ術式を現代で再現できないそうです。私たちにはおの魔力マナを流し込んで、首飾りに刻まれた術式を作動させるくらいしかできません」

「で? それに近いというのは?」

「まず、永続的な能力を後天的に付与する点が同じです」

「ふむ。あとは?」

「そして、効果が現れるのに時間がかかること。これも似ています」


 さっそくわけがわからない。それを察したのか、ヘレナがこう語った。


「最初に粥をお召しになったとき、シャルル様はとてもたどたどしい、感謝の言葉を述べられました。今も覚えております」

「俺、なんて言った?」

「ありがとう、おねえちゃん。です」


 顔じゅうが一瞬で沸騰した。


「ああッ。もういい。忘れてくれッ」

「いいえ。一生忘れないと思います」


 ニコニコと満面の笑みを浮かべる。

 そんな顔を正視できない彼に、ヘレナが追い打ちをかけてきた。


「シャルル様の私に対する呼び方が、おねえちゃん、お姉さん、お嬢さんと変わってゆきました。徐々に年齢相応に近づいていく様を、ずっとお側で見ていました。敬語で恥をかくことも、今はございません」

「これ以上、俺の黒歴史をほじくり出さないでくれッ」

「あら。誉めているつもりですが?」

「少し意地の悪い誉め言葉だ」

「まあ。それは心外ですこと」

「ったく。そういうところもぜんぶ含めて、エレーヌはとても可愛くなったよ」


 彼をバルティカの皇帝ではなく、愛する一個の人間と見てくれる。

 ヘレナが変わらずにいてくれる。胃がキリキリするくらい、よくわかった。


「ともあれ。俺の舌や鼻がひととき利かなくなったのが、その首飾りの魔術とやらに似た何かって話は理解したよ。ありがとう」

「文献などに基づく見解ではありません。私の経験から、そんな気がするだけで」

(魔術が使えない俺に、帝国時代の魔術がひとりでに働いている? なんでだろ)


 自分の意思とは、まったく関係なく――。

 先ほど思い返した、父の言葉を反芻はんすうする。


(俺のすべてを、教えてやる――そういう意味だったのか?)


 銀の髪と朱い頬を撫でながら、彼は過去を振りかえる。


「戦場に連れていかれた俺と違って、兄貴あにきたちは誰も彼も、『政治まつりごと』ばかりやらされてたもんだ」

「あに、き……とは?」

「年上のきょうだいの男性を指す表現さ。女でいうと、姉御あねごってところか?」

姉御様あねごさまはいらっしゃらないのですか?」

「もちろん、いたよ。親父はいろんな女に手をつけた。貴族たちも血縁を欲しがっていたから、すすんで娘を親父に差し出した。だから、きょうだいが多かった」

「……」

「姉は周りの国や、有力貴族に嫁いでいった。俺の世界では男性が家を継ぎ、女性は他家に嫁ぐ。そういうしきたりだ。俺は使用人として仕えた、かわいらしい町娘の子に過ぎなかった。継ぐ家がなかった俺が五歳になってから、将来を考えた親父が引き取って、『武人』として育てたんだ」


 他の兄とは違って、ブルゴーニュ貴族の地位を受け継ぐことのない。

 言い換えれば、しがらみのない。妾腹めかけばらの子だからこそ――。


親父おやじは、俺を戦場でもずっと傍らにおいた。貴賤結婚きせんけっこんですらない、未婚の使用人に孕ませた子だ。貴族の地位を受け継ぐ資格がないからだ。武功を上げるしかない。ずっと……ずっと、そう思って生きてきた」


 だから、たくさん無茶もしたし、傷も負ってきた。

 めかけの子が父親の威光で騎士を名乗っている。そう嘲笑あざわらわれてたまるか――と。

 負った傷を一度見せたら、誰もが押し黙った。このルナティアでさえ同じだ。

 戦場の中に常に在り、騎士の名誉のために身命をもす。

 これがおのれの生き様で、いつか迎える死に様に違いない――。

 そう信じてきた、はずだった。


「シャルル様の世界がどうであれ。この世界では、あなた様こそが唯一無二の血筋を受け継がれたお方でいらっしゃいます。ユア・マジェスティ」


 びもなく、へつらいもなく、忖度そんたくすらない。

 一本の芯が通った、迷いのない眼差しは、シャルルが惚れたヘレナそのものだ。

 それだけに、彼女の直言が突き刺さった。


「お認めになってはいかがでしょう。ご自分の受け継がれた、本来のお立場を」

「――――」

「高貴なる地位に伴う義務。それを果たすお力が、シャルル様にはおありです」


 今さらに、思い出す。オクタウィアに言われた話を――。

 シャルルが近衛騎士このえきしとして、鉄火場てっかばに置かれ続けた意味を。親の立場からみれば、常に親の目の行き届く場所に置いていたのではないか――と。

 今さらに、思い知る。亡き父から注がれた愛情と期待の過大さを――。


(本来の後継者――皇位こういを継ぐ者として、アンタは俺を育てたんだな)


 末子まっしとして注がれた慈悲じひと、皇嗣こうしとして課された苛酷かこくさ。

 父から下賜かしされた形見の鍵剣は、その一端に過ぎなかったのか。

 もっとたくさんの何かを、彼は受け継いでいるのかもしれない。

 彼が手にするはずだった遺言書は、その目録だったのだろうか。


(とんでもない遺産モンを譲ってくれたもんだ……まったく、親父アンタって人は)


 シャルル・アントワーヌは改めて思い知った。おのが身が背負った重き荷を。

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