第6話 崖線の戦い(2) ~クロエ・トラキアの口述回想録より~
その日は、前夜から吹雪が強かったのを覚えています。
わたくしと、
カロルス殿下――いえ。ここではあえて、「ご主人様」と呼ばせてください。
わたくしはそのように、あのお方をお呼びし、
ご主人様は遠い異国からお越しになって、この国の魔術に
わたくしは、姉様からそのように伺いました。
でも、ご主人様はわたくしが知らないことを、それはもうたくさんご存じで。
そこらじゅうの雪を踏み固めて、小さな建物を作ってしまいました。
国教会のルーナ大聖堂、あの丸天井を小さくしたような造りをしています。それは暴風雪にも耐えました。しかも中は思いのほか、暖かかったのです。
わたくしたちも、兵隊の皆さんも。凍えることなく過ごすことができました。
夜が明けると、暴風雪はすっかり収まっていました。
澄み渡った南の空が、黒い煙で塗りつぶされていました。
ご主人様はわたくしたちに言いました。敵が攻めてくる――と。それから二時間後でした。身の毛がよだつほど、異様な雄叫びが聴こえてきたのは。
わたくしはトラキア氏族の一員であり、
そう強がって、従軍を志願して、そこにおりました。
あの戦場にいた者の中で、間違いなく最年少だった、わたくしは思いました。
怖い。恐ろしい――と。
無理もありませんよね。わたくしは、オクタウィア・クラウディア様のように正規の士官教育を受けた経験がありませんでした。
なけなしの覚悟と意地しか持ち合わせていない、無力な子供だったのですから。
そんなわたくしに、竜の鱗を打ち付けた鎧を
怖いか――と。
わたくしは、素直に頷きました。
嘘をついても意味がありませんでしょう。
ご主人様はそっとわたくしを抱きしめて、背中を撫でてくださいました。
そして、ご自分が初めて戦場に立った日のお話をなさいました。
小便を漏らしながら、震える手で剣を握りしめた。
一緒に育った従騎士の少年たちと剣で人を殴った。
初めて
笑いながらあけすけに、そうおっしゃったのです。
わたくしは、すぐに雪原の中でお花を摘みました。ぶるっと身が震えました。寒さのせいか、怖さのせいか。その両方かもしれません。
とんでもないところに来てしまった。
まくり上げた衣服をつかんだ、腕の震えが止まりませんでした。恐怖でいっぱいのわたくしが、何の役に立つでしょう。
でも、来てしまった以上、もう、逃げ場はありません。
なけなしの覚悟と意地だけを握りしめて、ご主人様のもとに戻りました。
その時、ご主人様から言われたことは、今も覚えています。
『怖がっていい。怖れを知っても逃げない。それが本当の勇気なんだ』
その言葉で、ご主人様もわたくしと同じ「
伝説上の生き物だった「男性」は、決して怖れしらずの
わたくしたちと同じく、怖れをしっている「人間」なんだと。
それを裏づける事実が、自然と頭の中に浮かびます。
王国が
その悪夢にひどくうなされたお姿を、わたくしはお
それでも、ご主人様はお決めになりました。
逃げずに立ち向かうんだ――と。
ご主人様は本当に、勇気をお持ちでした。
勇気とはわたくしも持ち得る何かである。こう教えてくださった瞬間でした。
もちろん、怖い気持ちがなくなったわけではありません。
それでも、
陣地を燃やされないこと。これが当日、わたくしの役割でした。わたくしが役割を果たすことができたのは、ひとえにご主人様の教えのおかげだと思います。
それでも、
ご主人様がお作りになった、新しい軍隊の方々に亡くなった方がおられました。三十人ほどでした。三千人のテッサリア兵と戦ったのですから、数で見ればずっと少ない数かもしれません。
けれども、おひとりおひとりの最期は、無惨でした。矢で心臓を射抜かれて、あっという間にこと切れた方がいました。太い動脈を切られたり、急所を射抜かれて、まだ生きているのに、もう助けようがない。かすれた声で、あるいは絶叫して、切に助けを求めてくるのに、手の施しようがない。そんな方が何人もおられました。
トラキア家では、治癒の魔術を習います。身体の構造も叩き込まれます。だから、多少の
取り返しのつかないモノで、世界は
割れた
即死ならまだ、苦しみが短くて済んだかもしれません。
生きながら苦しみ、絶望に背を向けながら
壊れた肉体から魂が、手をすり抜けてゆくのです。どうしようもありません。
目を見開いたまま息絶えた方が、とこしえの眠りにつけるように。動かなくなった瞼を下ろして差し上げるくらいです。
『戦場に出れば、血を見ることになる。人の
ご主人様がおっしゃった通りでした。
頭でわかっていたつもりです。実体験はまったくの別物でした。
足腰がおぼつかなくなりました。それはもう、生まれたての
誰もがそこにいたるまでに、どんな人生を歩まれてきたのか。わたくしには、知り様がありません。
知り様もないだけに、この方にはどんなご家族がいて、どんなご友人がいたのか。どんな人生を積み重ねてこられたのか。この日、断たれてしまった
戦いの後に考えてしまいました。
おひとり、またおひとり。ご遺体を拭いて、綺麗に整えながら。
いくら考えても、その方たちが元通りに生き返るわけではないのに。
『心身に深い傷を負う。つらい思いをする。それでも、俺とともに
ご主人様が従軍するのか問うた時、おっしゃった意味がわかりました。
ご主人様が全身に負われていた傷。その痛みがいかばかりだったかを。
それでも、わたくしは。ご主人様にお供したことを後悔していません。
***
ずいぶん、主観的なことを口にしましたね。ごめんなさい。
あの戦いでどのようなことがあったのか、話してほしい。とおっしゃいましたね。これからお話ししますから、書き取ってくださるかしら。
戦いに先立って、姉様とわたくしたちは、綿密な準備を行いました。
一言でいえば、防御術式の構築です。実際には何重もの策を練って、実践する作業でした。もっとも敵に近かったところから順に述べましょうか。
最初に、
あの戦いのとき、その蛇籠に術式を織り込んでいたのです。
水の魔術の眼目は、水の形態を変えることにあります。水は氷にもなり、蒸気にもなります。蛇籠に織り込んだ術式は、瓦礫の間に水をしみこませ凍りつかせるもの。しかも、街道に沿う龍脈から
次に、ご主人様の軍隊の兵士が持っていた大楯。こちらに術式を施しました。
湊町の戦い――第一次パラマス包囲戦――のとき、テッサリア軍は
ご主人様はこの戦いの経験から、テッサリア軍が火を用いた攻撃を加えてくる、と予測なさいました。そこで、先ほどの大楯に氷を張ってみてはどうか。こうお考えになりました。
氷を張ること、これ自体はできます。そして、氷は溶解するときに熱を奪う性質があります。火炎に対する防御としては、理にかなっていました。
ですが、水には固体と液体で体積が変わる特性があります。溶けた部分と固まった部分で体積に差ができて、氷が割れてしまう原因にもなります。
わたくしと姉様はたいへん悩みました。
正規軍の士官の方々と一緒に考えついたのは、氷で合板を作ることでした。結晶の大きな、非常に薄く広い氷を作りだす。これを何十枚と繰り返す。それにくわえて、大楯にかかる衝撃を瞬間的に無効化する。そんな術式を大楯に施したのです。
この術式を維持し続けるには、大楯につねに
そこで、防壁から手前側の街道の石畳に、
大楯の術式に龍脈から
それで構わない。ご主人様はそうおっしゃいました。
幅十八メートル。深さ百八十メートル。この大きさの
こうして事前の準備を経た後に、ご主人様は私兵部隊の役割を決めました。
大楯をもつ部隊は、がっしりとした体格の方々でした。それを後ろから支える方々もそれに次ぐ体格で、斧と槍を組み合わせた武器を手にしていました。
武術が得意な方々は、ご主人様が直々に選ばれて、ずっと傍に置かれていました。今では「予備隊」といわれる、ご主人様の最精鋭の先駆けとなった皆さまです。
そのいずれにも入らなかった方々は、崖の上に雪を固めて壁を作り、身を隠して、隙をみて投石を行いました。
これとは別に、王国軍の二個中隊がありました。
ご主人様と一緒に夜襲をかけた中隊は士気が
あとから加わったほうの中隊は、先ほど述べた碁盤目の術式の維持、敵方の大規模魔術に対する対抗術式の展開、負傷者の救護など守りに徹することになりました。
そして、全部隊に徹底されたことがあります。万が一機動甲冑が襲いかかってきた時は、もうどうしようもない。崖の後ろの林の中に、散り散りになって逃げろ。運が良ければ、カルディツァでまた会おう――というご指示でした。
ご主人様は戦場に
最初、わたくしにはその意味がわかりませんでした。
なぜ?
竜をも殺せる武器があるのに?
今だからわかるのです。
機動甲冑を持ち出した時点で、戦いの「質」が変わってしまうのだと。
機動甲冑同士の戦いになれば、踏みつぶされる。それこそ象と象の戦いの下で、無数の蟻が形すら残さないくらいに。
そうなれば、わたくしたちはひとたまりもありません。
少なくとも、ご主人様とオクタウィア様。
二機の機動甲冑がこちら側にありました。
この機動甲冑をあえて出さないことで、いつでも手札が切れるんだと。イメルダを
この戦いで、機動甲冑が使われることはありませんでした。
テッサリア軍は、三千人という兵隊を狭い街道に送り込むことを選んだのです。
そこから先は、ご主人様が思い描いていた通りの展開でした。
強固な防壁が、即席の坂道であっさりと乗り越えられました。
大楯で召喚獣の突撃と、テッサリアの槍兵を受け止めました。
大楯はびくともしませんでした。火槍が刺さって爆発しても壊れません。
その間に正規軍の兵隊が召喚獣を焼き払って、ご主人様の兵隊が槍兵の頭上に石を投げました。
大楯を支える兵隊の顔つきが一変しました。わたくしと同じように、不安を無理に抑え込んでいた表情が、いつの間にか吹き飛んでいました。
防戦一方だった戦い。その風向きが変わりはじめました。
長槍の穂先を斧槍で叩き折る。敵が傷ついた兵を後ろに下げる隙に、少しずつ前進するのです。そうやって槍兵を防壁へと追い込んでゆきました。
長槍が役に立たなくなって、テッサリアの槍兵が火槍を乱れ撃ちます。ご主人様は予備隊を呼び寄せて、大楯の左翼――崖のある側に控えさせました。
魔術の行使は精神力を消耗させます。火槍をいつまでも撃ち続けることなど、不可能でした。いつかは終わりが来ます。ご主人様は、それを待っていたのです。
火槍の雨が止んだ瞬間でした。ご主人様は剣を抜き、号令をかけました。予備隊の全員が大楯の向こう側に突撃してゆきました。凍えきり、
合わせて、正規軍の魔術が防壁の後ろ側に飛んでゆきます。弓兵を追い払い、槍兵を完全に孤立させるためでした。大楯と崖と防壁に三方を囲まれた槍兵に、逃げ場は街道に沿った川しか残っていません。
川に飛び込んだ、あるいは蹴落とされた敵も大勢いました。その多くは川から這い上がれず、動かなくなりました。こうして、五百の槍兵を壊滅せしめたのです。
防壁といわれて作ったものが「防壁」でなく、外側の敵の援護を阻止しつつ、内側の敵を逃がさずに殲滅するための「檻」だった。川べりには何も手を加えなかった。そうすれば、川に飛び込むか、突き落とされるか。いずれにせよ、動けなくなるのが目に見えていた。
こう種明かしをされた時、わたくしは思いました。
なんと、えげつない――失礼、残酷なことを考えつくお方だろう。
わたくしのお仕えしているお方は――。
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