第7話 崖線の戦い(3)

 死屍累々ししるいるい

 真紅く舗装された街道に、槍を失った兵のむくろたおれていた。

 魂を失った抜け殻に、純白の羽毛のごとく、粉雪が覆いかぶさってゆく。


 一方のカルディツァ軍は、崖の上から動かない。

 日の出ているうちに、テッサリア軍の再攻撃は無かった。最低限の見張りを立て、交代で休息を取らせている。

 赤々と燃え上がるかがり火。

 本陣で腕組みしたまま、煌々こうこうぜる石炭を凝視する。そんなシャルルのもとにヘレナが戻ってきた。


「クロエは眠ったか?」

「はい。鎮静の魔術を使いました」

「ご苦労様」


 初陣を迎えたばかりの十五の少女クロエ。

 亡くなった兵士たちの身を清めたい。そう申し出て、亡きがらを整えていた少女の背中をシャルルはじっと見ていた。

 黙々と。淡々と。過酷な現実を受け容れる少女の背中を。

 少女は血を拭きとり、遺髪を切りとった。一人ひとり、戦いの前に書かせておいた遺書と遺髪を揃える作業に没頭していた。


ひつぎは?」

「お命じの通り、百ほど用意しました」

「ありがとう。満月を待ってやれないのが残念だな」


 ルナティアにおいては、水葬すいそうを以って死者をとむらう。

 川から海へたどり着いた遺体が、月の女神のもとへ導かれるように。

 土葬が当たり前だった彼の常識とは、やはり違う。

 ヘレナは言った。月が満ちる夜、川に棺を流すのが最高の格式だと。


「満ち欠けはあれども。月は一日に必ず、太陽と同じく天空を巡ります。そうして、女神様が皆の魂を迎えてくださいます」

「――そうだな」


 死者とともに流す、氷の棺桶かんおけの数を水増しした。

 こちらの消耗を大きく見せたら、敵はどんな手に打って出てくるか。

 力攻めで押し切ろうとするなら、同じ作戦が使えるかもしれないが。


(それはねぇか。相手は五〇〇も減らしてる。慎重になるさ)


 それが戦いの目的である。

 短期決戦から戦いを引き伸ばす。

 遅滞戦闘に誘導できれば上出来だろう。

 しかし、胸中でくすぶる何か。拭い去れない不安がある。

 身体が覚えている幾多の戦い。その勘と経験の埒外らちがいにある『魔術』という存在モノが霧のごとく立ち込め、彼の眼下の先をふさいでいた。


 ***


 鎧を脱ぎ、皮衣かわごろもを身につけて眠っていた最中さなか

 雪洞イグルーの中、寝苦しさに彼は目覚めた。しかし――


(――明かりが、見えねぇ)


 暖炉だんろの明かりが異様に暗い。

 ヘレナかクロエが欠かさず、火の番を続けているはずだ。おかしい。

 身体を起こそうとして、別の異変に気付く。


(……あ、れ……)


 指先の感覚が薄い……力が入らない。

 涙と鼻水、そして尿が勝手に、とめどなくだだれる。

 それだけでなく――。


(いき、が――)


 身体が、筋肉が、働かない。

 分厚い胸筋が重しとなっているだけ。

 叫ぼうとしても、声にすらならない。

 まずい。明らかに死ぬ――空気に、殺される。


(……く、くる……し……い……)


 まだだ。死ぬわけにいかない。

 こぼれ落ちたのは、無数の涙。


(……だれ、か……たす、け……て……)


 かすむ視界の彼方にそびった巨大な何か。

 それは彼を見下ろして、こう言った。


 ――コード九〇七‐〇九‐B。アドミニスター認証。最上位権限の履行を確認――エマージェンシー、全機強制再起動――


 感情のない「こえ」で下された、冷徹な命令。

 それが何をもたらすか。彼はまだ知らない。


 ***


「――はん」


 極寒の中で、いきなり水をかけられ、少し意識が戻った。


(……この、こえ……は……)

「師範ッ!」


 彼をそう呼ぶ者はただひとり。

 オクタウィア・クラウディア。

 まだ、生きている。耳だけが息をしていた。

 分厚い吹雪のような視界の向こうで何かが動いているような感覚。

 白い闇が瞳を覆っている。

 雪洞イグルーから引きずり出されたのか。風の音が聴こえる。


「カリスさん、衣服をぜんぶ脱がせ、顔と目を洗浄しました。次は何をすれば」

『全身と衣服の洗浄を。石鹸と水を使用してください。毒物が付着している可能性があります。騎士殿だけでなく、周囲の皆様、全員の洗浄が必要です。ふたたび毒物に曝露ばくろされるおそれがあります』

「今しがた、クロエさんが川へ洗濯に。ヘレナ様は石鹸を取りにゆかれました」

『ご容体は?』

「重篤です。早く来てくださいッ! このままでは皇帝陛下がッ!」

『わかっています。ドラヴァイデンにも急かされているんですから』

「一刻も早く、お願いします。私は、このまま蘇生法を続けますッ」


 唇に、何かが重なったのがわかる。


ウィンド・マナ我に内在する・ウィズィンミー風のマナに命ず

 エンター・ザ・バディ皇帝陛下の御身にヒズ・マジェスティどうか入りたまえ

 サーキュレート・ブレ呼吸と血のめぐりス・アンド・ブラァドを循環させたまえ


 重しのような胸筋が開いた瞬間。

 熱く甘い吐息が流れ込んでくる。

 少女の息に思えないほど、大量の空気の流れが通う。


セーブ・ヒズ・皇帝陛下をマジェスティ守りたまえフロム・どうかブリンク・オブ・デスこの死の淵から!」


 意味がわからなくとも、何をしたいのかは痛いほどわかる。

 彼が見た悪夢の中で、彼がオクタウィアに繰り返した行為。

 血まみれの彼女を抱きかかえ、口移しで呼吸を続けたこと。

 あの時と同じ――否、それ以上の手を尽くしてくれている。


「石鹸を持ってまいりました。セット――ゲット・レディ」


 ヘレナの声だ。石鹸を泡立て、全身に塗り込んでいく。

 魔術で新鮮な水を作り、身体にかぶせて、全身を磨く。

 必死さが伝わる。しかし――動かない身体。

 それどころか、身体が言うことをきかず、震えはじめている。


痙攣けいれん、まさか――心停止の兆候!? シャルル様、お気を確かにッ」

「カリスさんッ、早く来てください! このままでは、陛下がッ」

『心臓を圧迫する蘇生術でもたせてください! もう間もなく着きますから』

「呼吸はオクタウィア様が。心臓は私がやります」


 オクタウィアとヘレナ。ふたりがかりの蘇生術。


(――すまねぇな、オクタ――エレーヌ――)


 ふわりと浮く意識。

 渡り川ステュクスの河原がすぐそこに見える。

 深い海の色をした鉄巨人が飛び込んできて、水色の髪の少女が飛び降りた。


「お待たせいたしました! 騎士殿は」

「カリス様ッ、極めて危篤な状態です」


 ヘレナの切羽詰まった声に、悲壮感が宿る。駆けつけるや否や、「小さな大賢者」は彼の身体を刻んで、血を右手にすくって一言。


「――マテリアル・アナライズ」


 左手には七色にきらめく、小さな筒が握られていた。


「縮瞳、嘔吐、下痢、失禁と聞いて予測していましたが……これは神経毒の一種です。ほかの方に比べて重篤なのは、やはり魔術に対する脆弱性のせいでしょう」

「カリスさん! そんな悠長なこと言ってる場合じゃ!」

「無論です。一刻の猶予もありません。成分解析は出来ましたが、簡単に解毒できる代物しろものではないです。緩和剤を投与します」


 矢継ぎ早につぶやくカリスの手の中に、細く鋭い針が作られる。

 ダイアモンドの針が、彼の皮膚を貫いて、静脈へと行きついた。筒と一体になった針を通じてなんらかの液体が送り込まれる。

 潮が引くように、身体の痙攣が消えてゆき、やがて彼の瞳孔が広がった。

 天才魔術師は、生命の危機に適切な処置を加え、シャルルを救いきった。


「――ふぅ、峠は越えました。この種の劇物は、いったん体内に取り込まれると本来は解毒が必須です。血液を解析したところ、一般的な致死量を超えていました。時間をしばらく頂ければ、解毒剤を生成することも可能ですが……」

「それは……大丈夫なのですか?」

「わかりません。ですが、今見たところ、大部分が排出、分解されています。どういう理屈なのでしょうね」

「よかった。でも、蘇生術は続けますから」

「オクタウィア様は私よりずっと献身的でいらっしゃいますね」

「こ、皇帝陛下をお守りするのがッ。資格者の役目ですからッ」

「おふたりとも、ありがとうございます。私はクロエを手伝ってまいります。オクタウィア様にはどうか、シャルル様の介抱をお願いいたします」


 ヘレナが場を離れていった。オクタウィアとカリスだけが残る。

 あの悪夢で死んだふたりが、この死にかけた俺を生かしてくれている。

 その思いに、彼はただただ涙を流すほかなかった。

 胸いっぱいの感謝の思いが、冷酷な知らせで吹き飛んだ。


『エマージェンシー。エールザイレン、接近』


 絶望が全部叩きつぶす。

 逃げろ――そう、口を動かすと、唇を合わせたオクタウィアに抱きかかえられた。

 色違いの瞳が彼だけを凝視している。

 愛おしい存在を守らんとの決意に満ちた眼差し。唾液の交差した舌と唇が離れた。


「――大丈夫です。師範」


 頭上に虹彩こうさいはしる。

 黒い炎影へ、白亜の巨体が疾駆しっくする。


「私たちには、心強い味方がいます」

「いつかご覧に入れましたね。夜空の月を象った白亜の機体、我らが月の王国レグナ・ルーナを形にした象徴――」


 おぞましい叫びとともに、くらい色の機動甲冑が火炎をばらまく。

 敵も味方も焼き尽くす、紅蓮の炎に突き刺さった真っ白な閃光。

 鉄華が飛び散る。

 はやい影。それよりもまばゆい光。

 肉眼では、幻のようにしか見えない。 

 しかし、エールセルジーは「そこに質量がある」と指し示している。

 質量をもった残像。

 それが幾重にもわかれ、四方八方から漆黒の機動甲冑を滅多打ちに。

 圧倒的すぎる強さ。

 あの堅牢なウーツ鋼の機体が、手足を切り刻まれ、バラバラになる。


『――おまえ、おまえ、おまええぇぇぇぇ!! なんなんだよ、ちょこまかとッ!!!』


 手足をもがれてもなお消えない殺意。

 残像が一つになった瞬間、昏い色の操縦席を刺し貫く。

 あれだけ暴れ回り、喚き散らした狂犬が、ついに黙った。


『エールザイレン、活動停止。機体擱座。生命反応皆無』

(――ジェリコが、死んだ?)


 彼は思わず、瞠目どうもくする。


「あれが、機動甲冑『ボーパレイダー』……」


 彼が聖剣を抜いた、あの日。

 脳裏に過ぎったそのままに、月のごとく白い機体は返り血を浴びていた。

 それですべてが終わった――そんな安堵のいとまもないままに。


『警告。近接打撃支援開始まで一二〇秒』

「「「――――ッ!!!」」」

『座標固定完了。有効範囲、同期。各機、速やかに退避せよ』


 エールセルジーがけたたましく頭裏を小突く。

 オクタウィアも、カリスさえも同じ顔をする。

 彼と同じだ。わけがわからない。


「ゆ、友軍って……アルス・マグナには、まだあんなモンが!?」

「いえ、ボーパレイダーに、私たちの三機を加えただけです。その他は部品が散逸して、とても……稼働できる状態では……」

「師範。まずは、この場を離れましょう!」

「何言ってる? 仲間たちはどうするんだ」


 ふたりが押し黙る。

 オクタウィアが拳を握りしめ、首を振った。


「私たち以外、もう――誰も――」


 はじめて気づいた。

 同じ釜の飯を食ってきた兵隊が皆、倒れていた。


「皆様……エールザイレンの攻撃の巻き添えに」

「畜ッ生がッ――!」


 悔しすぎる。鉄拳を叩きつけるほどに。

 ほぞみ、慟哭どうこくをこらえ、はっとした。


「おい、エレーヌとクロエは!?」


 ふたりとも、首を縦に振ることはない。


「俺を置いて逃げるわけねぇ! 近くにいるはずだ。捜さねぇと」

「もう時間がないんですよッ! 騎士殿」

『支援開始まで残り六○秒。各機、速やかに退避せよ』

「馬鹿野郎! 見殺しにするのかッ。あいつらを置いていけるわけねーだろがッ」

「――あえて、申し上げます。


 感情を押し殺した、色違いの瞳。

 空恐ろしいほど、冷たい眼差し。


「機動甲冑の意思は資格者を保護すること。そして何よりも、陛下をお守りすることです。ゆえに、陛下の身が危険にさらされる限り、機動甲冑は戦い続けることを余儀なくされます」

「…………」

「そのもとで、数多あまた民草たみくさが焼きはらわれ、ありのごとく踏みつぶされようとも。陛下の御身が安全と認めない限り、戦うことを止めないでしょう」

「――オク、タ――」

「おわかりですか? 陛下おひとりのために、どれだけの犠牲も躊躇ためらわない。それがたち、機動甲冑です」


 うなだれる。

 火炎が竜巻となって荒れ狂う原野。

 天をあおぐ。

 夜半よわの星々を消し去るほどの暁光は、無辜むこ生命いのちが燃える耀かがやきだ。

 目をつむり、噛み締める。

 この惨禍さんかがすべて、皇帝みずからの身を守るために引き起こされたのだと。


「――わかったよ。オクタウィア」


 選択の余地は、最早もはや無かった。

 サイフィリオンの手に乗って、高台へ逃れたと同時。


『近接打撃支援開始。有効範囲内の不明勢力への攻勢開始』


 幾多の光が弧を描く。それが彼がいた一帯を覆った。

 それは山火事か。否、そんな規模ではない。

 それは黄昏か。遙かなる山河の夜闇を吹き飛ばす、怒りの烈光ひかりか。

 焼けただれた大地は、紅い大海と変わり果て、煌々と流れている。

 その光景が、目に焼き付いた。ずっと、身震いが止まらなかった。

 天地を焼き尽くす世界の終焉ラグナロク

 それを寝物語に聞かされ怯えていた、無力なおさの頃のように――。


 ――シャルル様。


 声が届いた。いたかった。

 振り返れば、たったひとりを除いて、誰もいなかった。

 声が出ない。いたましすぎて。

 黒焦げになった義妹いもうとの亡きがらを抱えた姉がいたから。


「あなた様がいけなかったのですよ」

「――――ッ!!!」


 火傷やけどでただれた頬に凍った表情を宿し、上目遣いをする。

 そんな彼女が一歩、また一歩。やおらに、歩み寄ってくる。

 いつもなら魅惑的な仕草がなぜか空恐ろしくてたまらない。


「あなた様が剣をお抜きになったから。機動甲冑に息が吹き込まれた」


 ――やめろ。


「あの忌まわしい聖剣つるぎをお抜きにならなければ、あの太古の機械人形どもが目覚めることはなかった」


 ――やめろ。


「あなた様がこの異国くににおいでにならなければ、この天地も、民草も変わることなくりつづけたでしょうに」


 ――それ以上、聞きたくない。


「もちろん、この義妹クロエも生きていた――すべてあなた様が壊されたのです」


 耳を塞いでも、直接、脳裏に届くささやき。心がひび割れていく。


「こんなことなら――あなた様を救わねばよかった」

「もう、もう――もう、やめてくれェェェェェッ!!!」


 絶叫とともに。目覚める。

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