第六章:イメルダ戦役(後篇)
第一幕:鋼鉄の蝶
第1話 モナーク・レコンキスタ(1)
女王がイメルダ・マルキウスの要求を拒否したこと。
この件は、テッサリアではことさらに敵意を込めて、ばらまかれた。
――――――――――――――――
辺境伯イメルダ・マルキウス閣下は、たいへん失望された。
王都におわす女王に、われらテッサリアの民草の苦しみが伝わらない――と。
テッサリアには、はるか東の草原地帯を根拠地とする騎馬民族、スキュティア人に脅かされてきた歴史がある。
スキュティア人に対抗するための兵器として、機動甲冑の保有を認めるよう求めた結果、女王はお許しにならなかった。そればかりか、イメルダは王国の敵である、というではないか。
テッサリアは貴重な小麦を献上し、長らく王国を支えてきた。
にもかかわらず、この仕打ちは、あんまりではないだろうか。
王国がわれらを守らないのであれば、今後、自身でわが身を守らねばならない。
閣下は、その痛切なる覚悟と決意を以って、軍旗を掲げることを宣言なされた。
誇れよ、諸君!
もはや、テッサリアはルナティアの「辺境」ではなくなった――と。
因習深い王都と
母なる河ペネウスに連なる、すべての流域がわれらの領邦だ。
仇敵に奪われたままの土地、「未回収のテッサリア」がある。
立てよ、諸君!
母なる農地を! 母なる山河を! 母なる大地を!
それらを取り戻す
――――――――――――――――
「なんつーか、売られた喧嘩を全力で買ってやった。って言い分だな」
宣戦布告の文書が、カルディツァの屋敷にも届いた。
そればかりか、郡内のいたるところに、この
郡都の民草らも、大混乱に陥っている。
(それにしても、この手際のよさ。イメルダの息のかかった連中が相当な数、領内に入り込んでいるみたいだな)
腕組みするシャルルに、家政婦長のヘレナが茶を持ってきた。
「ありがとう。エレーヌに聞きたいことがあるんだけど」
「はい。なんでございましょう?」
「この、未回収のテッサリア、とか言ってるのはなんだ」
地理に
「大きくわけると、三つございます」
実際に、地図上の場所を指さしながら答えてくれた。
「一つめは北部テッサリア二郡。つまり、シャルル様のご領地です」
「そりゃ、そうだよな」
「二つめはトリカラ郡をはじめとする、スキュティア諸部族の支配下におかれた東部テッサリア諸郡。そして、三つめは陛下の
「ちょっとまて。直轄領も入っているのか?」
「はい。ペネウス河の支流、アーベル川の上流部は直轄領にあたります。ペネウスのすべての流域、と主張している以上、こちらも含まれるはずです」
地図を凝視する。山に囲まれた
「こんなところに、何の価値が?」
「アーベル高原には鉱山があります。森のない王都周辺では貴重な、質の良い木材も得られます。テッサリア領には鉱山が少ないので、押さえたいのではないかと」
「直轄領との資源交易ができないもんな。わかった! 説明をありがとう」
「
敵にだって、正義がある。
彼にとって、それは何か。
(領民にわかりやすい『正義』を示さねぇと。この戦い、勝てねぇかもな)
これだけ、領内に食い込まれているのだ。
彼を陥れる、
民草に忍耐を
「エレーヌ。街の有力者たちに会いにゆきたい。ついてきてくれるか?」
「もちろん。どうかご一緒させてくださいまし」
***
その後、シャルルみずから街の有力者一人ひとりの邸宅を訪ねた。
いつもなら、遣いを差し向けて、領主の屋敷に呼び集めるところ。
使いの者でなく、
「すまん、急いできた。茶はけっこうだ。用件だけ言う」
突然の来訪。誰もが驚いた。
その上で、彼はこう言った。
「すぐにでも街から逃げろ! 馬車になり、
せいぜい、「徹底抗戦」への協力でも呼び掛けに来たのだろう。
そう高をくくっていたところ、「すぐ逃げろ」と言われ、絶句。
「無論、やれるだけのことはやるさ。でもな、兵隊も馬も数が足りねえ。せいぜい、あんたらが逃げる時間を稼ぐので精いっぱい。これが実情だ」
「そ、それでは。街や、家は?」
「すまんが、守り切れる保証は何ひとつねぇ。覚悟してくれ」
「――領主様は、どうなさるんですか?」
「決まってんだろ。これから奴らと戦う! あんたらを逃がすためになッ」
領主の全身から、恐ろしいほどの魔力があふれ出ている。
ただの一度も、こんなことはなかった。
本気で戦う覚悟だ。そう、思い知った。
「……私たちが、何か協力できることは?」
「街のみんなに、俺が言ったことをそのまま伝えてくれりゃいい」
「逃げ道に仮宿を二、三マイルおきに作った。ミトロポリか、キエリオンか、好きな方を選べ。繰り返しになっちまうが、食い物は持てる限り、持ち去ってくれ。敵にはパンひとつ、渡さねぇつもりだ。街の
思わず、目を剥く。頭がついていかない。
「最悪、街はめちゃくちゃになる。だが、生命と財産があれば立て直せる。だから、俺はみんなを逃がす。これが俺の『正義』だ。約束する。どうか、力を貸してくれ」
彼の直談判で、街の有力者たちの顔が一変した。
三万人といわれる、郡都カルディツァの全人口。
可能な限り、北と東に疎開させる――
これをなし遂げるため、皆が
水運組合から、
河川水運の目途が立ったことで、より食糧の輸送がしやすいミトロポリへ二万人、キエリオンへ一万人を新たな目標として、疎開を開始すると決まった。
***
茶会からの五日間で、カロルス・アントニウス領内兵力の再配置が完了した。
カンボスを明け渡し、手の空いた一個中隊一二〇名がパラマスの湊町に入った。
湊町はすでに要塞化されている。サロニカ海軍の軍船からはぎ取った
敵を容易に近づけさせないためだ。
これだけの工事を終わらせた、従来からの一個小隊四〇余名。そして、シャルルの私兵三個中隊三六〇名は、関所の復旧支援という名目で移動を済ませていた。
私兵は
現在、カルディツァに駐留する正規軍は一個中隊一二〇余名。他、二個中隊は各々避難経路上に
そして、カンボスからは、テッサリア軍の二個大隊一〇〇〇名が北上を開始。
十倍の兵力を以って、カンボス近傍の集落から次々と支配下に収めていった。
「角笛を吹け! 出陣だ!」
鳴り響く角笛の音とともに、郡都の南門が開く。
郡都についたばかりの私兵たちに留守を任せて。
正規軍一個中隊が迎撃に発った。
軍馬に跨った騎馬隊四〇名と、歩兵八〇名。
四つの荷車を引く、八頭の
その先頭に立つのは、『竜殺し』カロルス。
馬上の雄姿を見送った、無数の民草のなかで。
銀髪の家政婦長が、女神に祈りを捧げていた。
***
『観測情報共有――RT更新――反映中』
『規定の警戒範囲内に敵性反応無し。観測を継続』
オクタウィアが搭乗する機動甲冑サイフィリオン。
その視力の良さと敏捷性を十二分に発揮していた。
積もった雪に紛れて、見通しの良い標高
「ありがとう、オクタ。エールザイレンは近くにいないな」
『はい、少なくともアーベル川の手前にはいないみたいです』
「万が一、エールザイレンに気づかれたら。交戦はするな。即座に撤退だ」
『かしこまりました。夕方になるまで、監視を継続します。サイフィリオン、次の地点までの経路を出して』
『了解』
「頼むぜ。
簡単なねぎらいの言葉をかけると、少女が安心したようなため息をついて、それから通信が切れる。
「それにしても。時間経過無しの情報が遠く離れた場所で見聞きしたようにわかる。こりゃ、とんでもねぇ話だ」
偵察の情報というものは、いつも遅れて届く。
シャルルがルナティアに来る以前に参陣した、どの戦いであっても。
国一番の早馬、部隊一の遠見を揃えたとしても。
それらが見聞きした情報は、すでに過去のモノ。
シャルルの耳に届く頃には、そこに敵はいない。
だからこそ、戦術家たちは地形や気象から推理し、見当をつけ、予測して動く。
それらがピタリと当てはまったことなど、一度たりとしてない。
「こんなもんがあれば、
オクタウィアとサイフィリオンのもたらした情報と地形。
それをもとに、シャルルは相手の動きを改めて頭の中で整理する。
てっきり、一〇〇〇名が固まっているのかと思いきや。
敵は、街道沿いの集落を占領しながら進んでいる。そのため、いくつかの部隊に分散していた。
なかでも、二五〇名の部隊ふたつほど、先行している。
手柄を争っているのだろうか、明らかに他よりも突出していた。
「十倍の戦力差。そりゃ向こうもおおよそわかってるだろう。舐めやがって」
カルディツァから街道を南に四マイル。
その近くにあった、崖上の小さな集落。
王国軍一個中隊一二〇名とシャルルは、川と街道を見下ろす崖上に陣取った。
「包囲されたら負ける。だったら――」
中隊旗がはためく陣地から、煮炊きの黒煙が上がる。
石炭を燃やした煙が、敵に居場所を知らせるだろう。
案の定、そこに向けて、テッサリア軍は集結しつつあった。
***
やがて、夜の
はためく軍旗の旗竿の先端に、蝶を
大テッサリアの『国章』と定められた、鋼の蝶であった。
(外れくじ引いたからって。アタシひとりで物見かよ)
軍旗を掲げた、仮組のやぐらの上で、あくびをかく兵士がひとり。
占領した集落から奪ったブドウ酒で、仲間たちが飲み騒いでいる。
(あーあ。明日からしばらく、酒も飲めなくなるんだろうな)
自分のくじ運の悪さを呪った。
たったひとり、真面目に物見に立つのがバカらしい。
寒さにぶるっと震えた彼女は、旗竿の先を見上げる。
虚空に向かって、
(それにしても、
ルナティアにおいて、蝶紋は王家の紋章である。
もはや、王家に何の
そんな意味が込められているのだろうか。
(あー、クソさみぃ……花摘んでこよっと)
たったひとりの物見が、やぐらを降りる。
下着をずり下ろし、しゃがんで脱力した。
用を足して、ぶるっと震えが走った瞬間。
「あ――」
夜の闇を切り裂いた。幾筋もの真っ赤な流星。
あっという間に地面に落ち、一面が燃え盛る火の海に。
急ごしらえの野営地へ、疾風のごとく、騎馬が
「グエッ!!」
「ギャ――ッ!」
無数の馬のいななき。
蹴られ。斬られ。突き刺され。
相次ぐ悲鳴。断末魔。虚空へ消える絶叫。
尻丸出しで、物陰に飛び込んで、怯えていた。
(夜盗か? いや、違う)
誰もが黒を基調とした軍服を着ている。
間違いない。
(王国軍だ――クソッ!?)
舌打ち。
たった一二〇人しかいない。そう聞いていた。
こんな夜襲を仕掛ける余裕などあるはずない。
(あれは嘘だったのか!?
脂汗が止まらない。
開戦間近。そう言いつつも、気の緩んだところに、
ひとり、またひとり。斬り殺されてゆく。
真夜中の原野のど真ん中。泣き叫ぶ半狂乱の騒ぎから、鎧どころか、服もまともに身につけず、
後ろを
二五〇名の部隊が、ただ一瞬で
(逃げようか。どうしようか)
わずかな
(知らせよう……他の部隊に)
みんな酒を飲んでて、まともに馬に乗れやしない。
だったら、アタシが――と、駆け込んだ馬小屋で。
バカらしい――と思う暇もなく、彼女は息絶えた。
雪上に、血しぶきと
「――よし、こんなもんだろう。みんな、引き揚げだ!」
「追撃は?」
「一切必要ない。伝令は今しがた、俺がつぶしておいた」
「ありがとうございます! アントニウス卿」
「各自、持てるぶんの水と食糧。あとは軍馬もだな。かっさらってずらかるぞ!」
「「「オオ――ッ!」」」
「そうだ。敵の軍旗はあるか?」
「やぐらの上にありました」
「大事な戦利品だ。引きずり下ろして郡都に持ち帰れば、語り草になる」
鮮血のついた長剣を血ぶりして。
鞘に納めた『竜殺し』と仲間たちは、影のごとく。
※夜襲の場面、挿絵をNovelAIで作ってみました
https://kakuyomu.jp/users/maria_sayaka/news/16817330648964774082
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