第23話 開戦の詔勅(4)
王城の一室で「茶会」が開かれていた頃。
郡都カルディツァから中街道を十マイル、南に下った先。
カルディツァ郡南部の要衝、カンボス市。
これを包囲中のテッサリア軍の陣に、紅髪の武官が赴いた。
「ここで貴殿にお目にかかるとは。ウァルス殿は健脚でいらっしゃる」
「カルディツァに比べれば、カンボスは目と鼻の先のようなものでございます」
「ご老体にして、しっかりとした足取り。どのような鍛錬をなさっているのか」
「武官として名高いアグネア殿に、この文官の老いぼれが教えられるものなど、何もございませぬ」
カルディツァの連絡将校アグネアこと、ラエティティア・クラウディア。
彼女を出迎えた、ラリサの全権大使ファビア・ウァルス。
交渉の場で対面するのは、これが三度目だ。
「茶をお持ちしました。どうぞお召し上がりくださいませ」
「アグネア殿はややお忙しいご様子かと。少し茶でも飲んでゆかれては」
「急ぎたいのはやまやまだが。おもてなしに、礼をもってお応えしましょう」
同じ使用人が持ってきた同じ茶を、アグネアとファビアが同時に飲む。
それに続いて、数名の随行員同士も茶に口をつけた。特に異常はない。
「カンボスを明け渡す、とおっしゃったが。ずいぶん早い心変わりでいらっしゃる。何をお考えなのです?」
「よくそのようなことが言えたものです。関所を壊しておいて」
「あれは、不幸な事故でございました。お見舞い申し上げます」
はらわたが煮えくり返る思い。
その数々をぐっと押し殺した。
挑発に乗せられたら、負けだ。
アグネアはため息をもらした。
「関所が壊されて、私の思い描いていた構想が台無しです。増援が見込めない。それどころか、人が足りないから戻せ。そのような指示が王都から出ている。
「もはや、守り切れない。そう、ご判断なさったと」
「増援がないのに、いたずらに
「カンボスの一個中隊を武装解除させず、パラマスへ移動させたいとか。少々、虫が良すぎる要求に思われますが」
「ファビア殿にはおありとおっしゃるか? 二〇倍近くの敵の包囲の中から、丸腰で出てゆけるだけの図太い肝が」
こんな時のために。
カロルス・アントニウスはひとつの切り札を託していた。
「では、こうしましょう。パラマスで拘束中のテッサリア兵二五〇名をお返しする。わが方の倍の数だ。これ以上、われわれが面倒を見られなくなるゆえ、わが方の一個中隊と交換したい。それなら、貴殿の面目も立つのでは?」
「面倒を見られなくなる。とは?」
「捕虜として
つまり、王国正規軍が引き揚げた後。
捕虜たちの
イメルダの精鋭、二個中隊がむざむざと喪われる。火を見るよりも明らかだ。
「よろしい。アグネア殿のご提案を受け入れましょう」
大筋で合意に至ったのち、両者は文書を取り交わした。
その翌日。四カ月半掲げられた、中隊旗が降ろされる。
無血開城。カルディツァ郡南部の要衝が、ついにイメルダの手に渡った。
一個中隊はただちにカンボスを発ち、テッサリア軍一個大隊が同伴する。
同日、十マイル離れた湊町に着くやいなや。手首を縄でつながれたテッサリア兵の捕虜二五〇名が、テッサリア軍一個大隊に引き渡された。
捕虜交換を終えたテッサリア軍が、カンボスへ引き揚げるまで。少なくとも、両軍のあいだに混乱は起こらなかった。
文書の中に、カンボスの民草らに一切危害を加えない旨、明記してあった。これも少なくとも、表面的には守られた。
***
「カンボスは無事に明け渡した。パラマスの正規軍を、一個小隊から一個中隊に引き上げた。もともと守ってた一個小隊は、引き継ぎを終えて、関所の復旧作業に回した――今のところ、カロルスの計画通りだが」
カルディツァ領主の屋敷。
長椅子に腰かけたアグネアが気づくほど、応接室の調度品が減っていた。
茶を持ってきた家政婦長ヘレナが、その向かい側に腰かける。
「こちらも、家財をミトロポリへ運び出しています。使用人も減らしました」
「クロエを見かけないのはそのせいか?」
「はい。半数の使用人とともに、ミトロポリの別邸に行かせました」
「カルディツァ都督府も廃止が決まった。ペレッツ卿亡きいま、有名無実化しているからな。意味のない縦割りは無くしたいそうだ」
「ユスティティア閣下のご意向ですか」
アグネアが無言で頷いた。
「あの方が、カルディツァにお越しになることは……もう、無いのでしょうね」
「そうだな。ここの食事は美味しかった、と残念がっているよ」
塩田で生産された塩は、カルディツァを一躍「美食の街」へと押し上げた。
領主の館に街の有力者を招き、振る舞われた料理の数々。
その味わいは、いまや領主の館以外の高級宿でも、口にされていたほどだ。
寒村であったアルデギア地方は、魚介の産地として空前の好景気に湧いた。
イメルダによる軍事侵攻が影を落としたのは、その
「残務整理をしているが、ペレッツ卿が『部外秘』の書類をため込んでいた。中身は不明だが、何かの重要書類の可能性もある。これも持ち出すことになった」
「お互いに、大変でございますね」
「まったくだ」
互いに笑みを浮かべるふたり。
「家政婦長殿は、いつ、ここを発つおつもりか?」
「シャルル様が残られるまで、私も残る覚悟です」
「では、これを託しておこう。
彼宛ての書簡を、銀髪の家政婦長は確かに受け取った。
「私は一足早く、ここを発つことになった。しばらくお別れだな。ヘレナ」
「承知いたしました。お部屋の荷物は、ミトロポリへお送りしておきます」
「助かるよ――あとは、よろしく頼みます」
「はい――ラエティティア様の前途に、女神様のご加護がありますように」
家政婦長ヘレナ・トラキアが、ひざを折ってお辞儀をする。
連絡将校ラエティティア・クラウディアは、敬礼で答えた。
***
「はぁ……」
郡都カルディツァの屋敷の一角。
政庁として機能してきた部屋が、今は人もまばら。
帳簿を木箱にしまい込む、ユーティミア・デュカキス。
心、ここにあらず。物思いにふけっているのだろうか。
そんな同僚を、フリッカ・リンナエウスが気にかけていた。
「ねぇ、ユーティミア……そのため息、もう何度目よ?」
「正直ね。今までの苦労がばかばかしくなっちゃってる」
カルディツァ郡とキエリオン郡は、ふたつでひとつ。
まったく産業構造が異なるふたつの郡を、一体的に繁栄させる。
大蔵府からの
直轄領にいては、絶対に関わることのなかった、野心的な試みだ。
その若き
イメルダ・マルキウスに戦乱を起こされて、歯車がぜんぶ狂った。
「あたしも、気持ちはわかるよ。あたしたちが汗水流して耕した農地。それが王都とラリサのあいだにはさまれて、踏み荒らされるかもしれないんだから」
大蔵官僚ユーティミアと、農務官僚フリッカ。
任官同期だったふたりは、それ以上の間柄になっていた。
テッサリアは王国の穀倉地帯だが、王都からみれば辺境に過ぎない。
国家財政を管掌する主計局に籍を置くユーティミアが、王都を離れてテッサリアの二郡に派遣されたのは、もちろん手腕を買われてのこと。だが、それは出世街道からの遠回りを意味していた。
そして、フリッカ。もともと王国内で閑職に近い農務府から、地方に下った。
ともに、
「ああ。もっと、手堅いやり方がよかったんだけどね。私」
「しょうがないよ。領主様が
「……ま、乗り掛かった船だし。最後まで見届けますかぁ」
戦友同士が手を握りしめる。
翌日、臨時の郡都ミトロポリへ。
彼女たち文官は出発していった。
***
機動甲冑サイフィリオン。
王都とカルディツァ郡を頻繁に行き来する、その操者オクタウィア。
王都の本邸で
そして、カルディツァから王都に召還された、叔母ラエティティアである。
晩餐が終わったその席で、母から声を掛けられた。
「オクタウィアに渡しておきたいものがあります」
クラウディア家当主である、軍務卿ユスティティア。
彼女が家政婦長に向かって頷くと、使用人がひとつの箱をもって現れた。
「お母様。これは?」
「銘は『ロンディネの
「カリスに聞いた。お前の機動甲冑が風と聖の『空』属性をもつ、とな」
「ラエティティアと相談して、相性の良いものを当家の家宝から選びました」
クラウディア家、古風な言い回しではクラウディウスと呼ばれる家門。
ルナティアの貴族の中でも、土と風の『氷』の命脈を現代に伝える家。
いくつも家宝があると聞いているが、宝物庫の鍵は当主が持っている。
「あなたを戦場に送らねばならない母として。これを贈ります」
「このような物を……よろしいのでしょうか?」
「ソフィア王女殿下をお守りする。これはもう、あなたひとりの役割でないのです。王家の
箱を受けとったオクタウィアが覆いをはずす。
空を飛ぶ猛禽の羽毛や、野獣の皮が編み込まれた靴であった。
「とても、軽いですね」
「履いてごらんなさい」
言われるがまま、その靴に履き替える。
軍靴とは、比べ物にならない軽快さ。
履いてから気づく。ただ軽いだけではないと。
「この靴、なにか術式が仕込まれていますか?」
「ええ。ほんの少しだけ、
軽く
地面からわずかに浮き上がる感覚を、オクタウィアはすでに知っている。
(まるで、サイフィリオンみたい!)
中庭に出て、念じる。
氷の上をすべるよりも、なめらかに。
舞い踊る自分の身体が動きに、動く。
どうして、この靴が与えられたのか。
オクタウィアはもはや、身体で理解していた。
「最初から、あまり使い過ぎない方がいいぞ」
叔母に言われて、ハッとする。
サイフィリオンで小麦畑を夢中になって飛び回った。
それによって、生命にかかわった油断を思い出したからだ。
見守っていた母と叔母の許に戻ってきたオクタウィア。地に足がついた。
「……そうですね。つい、嬉しくなってしまいました」
「焦ることはない。少しずつ、習熟してゆけばいいさ」
「わかりました」
「私も、アルス・マグナから剣を一振り預かった。その靴に比べたら、とんでもなく扱いに困るシロモノだったよ」
「叔母様が扱いに困る剣なんて、この世にあるのですか?」
「あったんだよ。だから、今まで誰も使おうとしなかった」
そう口にした、若い叔母の横顔。
いつになく、楽しそうな笑みだ。
「使いにくいこと、この上ない。しかし、極めて強力な武器だ。だから、大事な時にだけ使おう。そう決めた」
「冷えてきましたね。そろそろ、中に戻りましょうか。ふたりとも」
「「はい!」」
叔母のラエティティアとともに、オクタウィアは本邸に戻っていった。
茶会から数えて、五日目の夜が更けていく。
***
「なんとか、間に合ったか」
「あれほどにぎやかだった屋敷が、寂れてしまいましたね」
すっかり調度品が無くなった、カルディツァの屋敷。
官僚たちも臨時の郡都、ミトロポリに移っていった。
王国軍も、工兵隊がカルディツァから後退。
民草の
「この屋敷に残った者は、シャルル様と私だけになってしまいました」
「エレーヌは、ミトロポリに行かないのかい?」
「シャルル様が行くとおっしゃるなら、まいります」
「ありがとう。そのときは、君を抱っこしていくよ」
「王女様と同じように、でしょうか」
「ああ」
たったひとり残った、家政婦長ヘレナ。
シャルルと手を握りあい、頷きあった。
「今日は、雲が晴れたな。月が綺麗だとは思わないか」
「ええ。今夜は一段と冷えそうです」
暖炉で石炭が赤々と灯っている。
屋敷の煙突からたったひとつ、煙が立ち上っているはずだ。
ごく自然に肩を抱いた。恋人の肌に鳥肌が立っているのがわかった。
「悪い。これ、着けっぱなしだった」
「いえ……陛下から賜った腕輪ですから、そのままで」
「君に怖い思いをさせるのは、本意じゃないんだけど」
「き……きっと、慣れます」
強力な魔力障壁を生み出す腕輪だ。
皮衣と鱗鎧を着ていないときでも、身につけるよう勧められていたが。
腕輪を身につけているあいだ、誰もが
それは、心を通わせた恋人でさえ、例外ではなかった。
「無理すんなよ。エレーヌ」
腕輪をはずして、枕元に置く。
ようやく、恋人の顔が安堵で満たされた。
「これ着けてると、ずっと元気でいられるんだけど。それじゃ、一晩じゅう君を泣かせそうだ」
「それは困りますね。寝不足になってしまいます」
「他に誰もいないんだ。思いっきり叫んだらいい」
緑色の服に手を掛けるシャルル。
服の構造を理解して、一枚一枚剥いでいく。
「そうですね。次にこんな夜がいつあるか、わかりませんから」
人肌で温めあった、寒い夜。
彼が恋人とまぐわった翌日――。
女王ディアナ十四世は、
大筋は以下のとおりである。
――――――――――――――――
機動甲冑『エールザイレン』の保有を認めるように求めた、イメルダ・マルキウスの一方的な要求を、受け入れることはできない。
機動甲冑ならびに資格者の身柄を、速やかに引き渡すことを求める。
関所を破壊した罪人にして資格者、ジェリコを引き渡さない場合は、国王大権への重大な挑戦、すなわち王国への叛逆行為とみなし、王国の敵とみなす。
王国への忠誠を誓う者は皆、王国の敵を討伐するため、剣を
――――――――――――――――
後世に「
王国正規軍とテッサリア軍の開戦は、事実上、時間の問題となった。
― 第五章 完 ―
※お知らせ※
「イメルダ戦役」のボリュームが思いのほか大きくなったため、前後篇に構成を改めました。第五章を前篇とし、次話からは第六章の後篇となります。
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