第16話 明日を念う心は儚くて

「――ヒール」


 オクタウィアの身体を包んだ、淡い翠緑の光。

 何かの魔術を使った。そうわかった。


「はぁ……少し楽になりました」

「やっぱ、魔術が使えるのすげぇな。そういうのからっきしだし、俺」

「――大したことは、ないです。正規軍の軍人には、必須の技能ですから」


 だが、まだ万全というわけではないのだろう。

 オクタウィアの呼吸は、わずかに乱れていた。

 

「……そっか」

「でも……今、こうして生きていられるの、師範のおかげなんですよ」


 オクタウィアが手を握ってくる。


「蘇生術使ってもらわなかったら、私は……助けてくださり、感謝します」

「騎士として当然だろ」


 彼女がつないだ、少し冷たい手を握りしめた。


「師範の手、温かい」

「じきに、温まるさ」

「――ねぇ、師範」

「……」

「お伝えしておきたいことがあります」


 緑と紫の双眸そうぼうを見つめる。

 美しい宝石のような目が何か、奥に秘めた意志を帯びていた。


「私、ずっと……あなた様を、お慕い申し上げていました」


 絶句。

 真剣な眼差し。

 鋭利な矢で不意を衝かれた。


「まいったな、こいつは……照れるじゃねぇか」

生命いのちの終わりは簡単にやってくる――そう、思い知ったから」


 そうだ。

 この少女は、絶望的な戦いを強いられてきた。

 あんなにボロボロになった、鋼鉄の甲冑を身にまとって。

 戦場に立つのだ。どれほど分厚い鋼に守られようと、蝶よ花よと生きるのとは違う道を歩くのだから。


「だから、言わなきゃ。今のうちに……絶対に、後悔するって……わかったから」


 涙ぐむ少女をそっと抱きしめてやった。


「――でも、わかるんです」

「……?」

「――私の願いは……きっと、叶わないんだって」

「そんなことねぇ! こうして、一緒にいるじゃねぇか!」

「……!?」

「一度唇を合わせた仲だ。その、なんだ……オクタが望むんなら、いくらでも口づけしてやるよ」


 思わず口をついた言葉。

 それを聞き、嬉しそうに微笑む彼女が言った。


「あなた様には、もっと――大切な人がいらっしゃるでしょう?」


 残酷なまでに優しい否定の言葉と悲しげな笑み。

 シャルルの脳裏に浮かぶのは、美しい銀髪、透き通った紫色の瞳。

 緑のドレスを着こなした恋人の喜怒哀楽。

 たった一瞬のあいだ。

 いろんな面影がいくつもよぎっていった。


「ヘレナ・トラキア様。あの素敵なお方に、少し……いいえ、かなり、いていたんです。あなた様の愛情を独り占めするなんて、うらやましいって」

「――知っていたのか?」

「ずっと見ていましたから。あなた様を」


 まっすぐな目を正視できず、彼は目を逸らした。少女が肩を震わせる。


「ふふッ、こんな困った……師範の顔……見るのは、すごく新鮮な気持ちです」

「あぁ……ったく、調子くるうな……」


 今にも途切れそうな声色で、少女は普段と変わらない顔で笑う。


「私には…………願いがありました」

「うん」

「あなたの手を……握りしめたい……口づけがほしい……ぬくもりに、包まれて、いたい……あなたのすべてを――私のものに、したい」

「……ずいぶん欲張りな願い事だな」

「恋する女は……みんな、欲張りな、生き物です」


 あまりにも赤裸々な気持ち。

 では、心に何か温かいモノが宿るのはなぜだ。


「ぜんぶ、かなったんです。その願いがいま……私、とても幸せです」

「……そうか」

「燃え尽きても……きっと、私……忘れま……せん……あなたのこと。駆けつけて、くださって……ありがとう」


 胸の奥がツンとした。

 思わず、少女を抱きしめていた。


「師範は……いじわる、ですよね」

「なんでだよ?」

「もっと、ずっと、一緒に居たい……そんな気持ちに、させるんだから」

「じゃあ、冷たくしろってか?」

「それは、もっと……いじわる……です」


 口調とは裏腹に、微笑む少女。

 その唇が、紫に色づいていた。


「おい、オクタ……顔色が」

「――あっ」


 ふらつく少女。抱きとめた身体が、やけに冷たい。


「……やっぱり、これまで、みたいですね」

「……え?」

「もっと、師範と、お話し……したかった」

「おい……何、言ってるんだ」

「魔術も、決して、万能じゃないけど――ほんの少しだけ、時間が……できました」

「お前……まさか?」


 最後に残った小さな花弁。

 その一枚すら散る間際の刹那。

 わけがわからない。きっとそんな顔をしていた。


「もう……長くない……わかるん、です……」

「――なんでだよ。こうして、生きてンじゃねぇかッ」

「エールザイレンは……王都ここに……集まった龍脈りゅうみゃくの流れ……も、破壊してしまって……」

「龍脈……!?」


 かつて、カリス・ラグランシアと対話したときに聞いた単語。

 辞書を紐解いたように、その時に聞いた言葉が鮮明に蘇った。


「異界から、来られた、あなた様は……魔力マナに依存して…………らっしゃらないのかもしれない。でも……私たちは……魔力マナが、れては、生きて……ゆけないのです」

(嘘、だろ……ッ)

「口移しで、与えてくださった……ほんのわずかな魔力マナで……わたしは……生かされてる…………今の、わたしは……しはんに……生かされて、いるんです……」

「なんでだよッ! なんでそんな大事なこと黙ってたッ!」


 怒りに身体が震えた。

 必死に助けた少女の命が涸れかけている。

 あまりにも無力な、自分自身が許せない。

 握りしめ、叩きつけた拳をそっと包み込む少女の手が、氷のように冷たい。


「ふしぎ、ですね……わかるんです――わたし……もうすぐ死ぬんだって……だから、さいごに……じぶんの望みを、かなえたかった」


 少女の手が震えている。

 夢中で両手を握り返し、身体を包み込むように抱きしめた。


「こんなにたくさんお話しできて、わたし……いま、しあわせです。覚めてほしくない……っ……素敵なゆめ」

(――嘘だ)

「ずっと、師範と……こうなること……願ってた――ぜんぶ、満たされました」

(――嘘だ)

「今まで生きてきて、私、幸せでした」

「――――嘘だァァァッ!!」


 宝石のような深い双眸そうぼう湖水こすいを湛えて。

 それが、今にも堰を切らんとしていた。


「強がンなッ、大人ぶンなッ! 乳臭ちちくせぇ生意気なガキのくせにッ!」


 両肩を掴んで、少女をじっと見つめる。

 すると――。


「……う、うっ……うわぁぁ…………ッ」


 胸の中に顔をうずめて、少女は泣き叫んだ。

 悲痛な泣き声が虚空へと吸い込まれていく。


「まだ…………わたし、しにたく、ない……お別れ、したくないよぉ……」


 すすり泣く彼女が背負った使命、葛藤、苦しみ。

 そして、愛する者たちと引き裂かれゆく悲しみ。


「もっと、あなたと…………もっと……生きて、ゆきた……かった……」


 たおやかな首筋、肩、背中を撫でさすった。

 赤子をあやすように、ひたすらに。

 草葉くさばかげへ持ち去ろうとしたモノを、全部吐き出させた。

 だんだん泣き声がおさまっていく。

 泣き疲れたのだろうか、少女はそのまま動かなくなった。


「オクタ、眠っちまったのか……おい、オクタ?」


 顔を覗き込む。

 幾筋の涙の跡が残る頬。

 僅かに開かれたまぶたと唇。


「……冗談だろ、オクタウィア」


 凍りついた唇に何度口づけても。

 乾いた唇をどれだけ、舌で舐めあげても。

 もう二度と言葉を紡ぐことはない。

 彼女が応じてくれることは、ただのひとつもない。


「……そんな……嘘だろ、嘘だって言ってくれ……ッ」


 彼の願いとは裏腹に。

 緑と紫の美しい瞳は、その輝きを喪っていた。

 穏やかな微笑みを浮かべたまま、少女は永い眠りについた。


 ――取り返しのつかないモノで世界はあふれてる――。


「これが、素敵だと?」


 うなだれる。


「こんなクソみたいな悪夢が?」


 拳を突き立てる。


「――ふッざけんなァァァッ!」


 何度も、何度も、鮮血が飛び散る。

 赤く染まった石畳の色を、より濃くするだけの無為な行為が止められない。

 その痛みを以ってしても、心にぐさりと刺さった痛みが消し去れない。


 ――覚えておけ、シャルル。

 絶望という現実の前では、女子供すら、勇敢な戦士に変わると――。


 こんな可憐な少女が、勇敢に戦って、散っていった。

 なのに――。


「……何をしていたんだ……俺は……」


 守護まもれたのか。騎士の名誉を。

 果たせたのか。騎士の誓願ちかいを。

 絶え間ない問いがみずからを串刺しにする。


「……か弱い女の子の願いひとつ、まともに叶えてやれなかった、この俺が?」


 屈強な全身の筋肉が震えていた。

 怯えでなく、武者震いでもなく。

 どうしようもない憤りが、抑えきれなくなっていた。


「そんなわけねーだろがっ!」


 自傷を繰り返してもやり場のない感情があふれでた。

 血まみれの両手でたおやかな美少女を抱きしめて。

 シャルル・アントワーヌは、ただひとり慟哭どうこくした。


 紅蓮華ぐれんげが燃えるがごとく、黄昏のなかで咲き誇っていた。

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