第5話 伝承のみなしご(5)
女王ディアナ十四世の私室に招かれ、あっという間に時が過ぎた。
互いの秘密を共有した女王、王太子、資格者二名と小さな賢者の五名は秘密を厳守して表向き現状を維持する方針を確認した。
「秘密の共有ってまるで子供の頃を思い出しますわね。ふふふっ」
「もう、お母様っ。素が出てしまっていらっしゃいますよ」
茶目っ気を隠さなくなった代わりに威厳のかけらもなくなった女王。そんな母親にあきれ果てて相手をするのに疲れ切っているであろう王太子。
こんな二人のやり取りに最初圧倒されていたが、時間が経つごとに空気に慣れつつあった三人。しかし、不意に真顔になった女王がこう言った。
「さて、カリス・ラグランシア。あなたに大切なお願いをしなくてはなりません」
「……は、はい」
「アントニウス卿には魔術全般を身につけてもらわなければなりませんが、指南役が必要でしょう? この四人の中でそれができる者はあなたをおいて他にいません」
「アントニウス卿の魔術指南役をせよ、ということでしょうか」
「ええ、お願いできるかしら」
「かしこまりました、全力を尽くします。明日から始めさせていただきます」
小さな賢者カリスには機動甲冑の管理全般に加え、資格者カロルス・アントニウスの魔術指南役という大役が女王から申し渡された。彼を『光の
「おいおい、アルス・マグナに入り浸るつもりはなかったんだが」
「何をおっしゃいますかッ。王族の方々に相当する魔術の教養を付けていただかねばならないのですよ。お立場をわきまえてください」
「私もお付き合いしますから頑張りましょうねッ。師範」
十歳後半の年若き乙女二人にそのように言われ、苦しい笑みを浮かべるカロルス・アントニウス。そんな彼が
ばつの悪い彼に、気を取り直した女王はこう語った。
「表向き現状維持となった以上、王家として何の大義名分もなく貴殿を特別扱いするわけにはいきません。ですが、できる限りのことはしたいと考えています」
「はい。先に献上いただいた氷嵐竜の屍を使って、新たな魔道具の研究を進めているところです。魔術が不得手なアントニウス卿の力を底上げできる方法も検討したいと思います」
「ありがたき幸せにございます。陛下、殿下」
一礼した彼は女王に尋ねた。
「この場で見聞きした事柄は、ソフィア王女殿下にもすべて秘すべきでしょうか」
「そのことですが――ソフィアには折を見て私から話したいと思います。ですから、貴殿からは何も話さずにおいていただきたいのです」
「それは……殿下が王位継承者ではないから、でしょうか」
女王はゆっくりと頷いた。その上で理由をこう述べた。
「先に述べた通り、この件はたとえ王族であっても限られた者しか見聞きしてはならないのです。国を揺るがしかねない大事ですし、何より貴殿を守る為でもあります。王族の中でも貴殿を快く思わない者がいます。そのような者たちにこの件を知られてはなりません。その心得をわたくし自らソフィアに伝える必要があるのです」
「よく、わかりました」
「心配することはありません。この件をソフィアに明かしたら、その旨をソフィアの口から直接貴殿にお伝えするように言い含めておきますから」
「かしこまりました。ご配慮に感謝申し上げます」
いくつかの懸案が解決し、彼らが女王の私室を離れたのは日没から三時間以上後のことであった。
来た時と同じようにランタンを手にした王太子ベアトリクス第一王女が先導して、三人を最初の控室まで送り届けてくれた。彼は恭しく頭を下げ、礼を述べた。
「王太子殿下にはご公務でお疲れのところお時間を割いていただき、大変ありがとうございます」
「いえ、母が申し上げた通りです。この国の大事でありますし、この王位継承者たるわたくしの責務ですから」
「失礼ながら、お顔の色が優れないようにお見受けいたします。お見送りはお気持ちだけで結構です。早くお休みになっていただけたら幸いに存じます」
彼がそう言葉を掛けると、ほんの少しの驚きとともに、王太子の頬が和らいだ。
「ふふふ、アントニウス卿はすっかり言葉が堪能になられましたね。名実とも『光の皇子』となられる日もそう遠くはなさそうです」
控室で跪礼をしてお別れの挨拶をした王太子に代わり、侍従が三人を王城の門まで連れていった。馬車の手配を済ませていたのか、
「私はここから宿舎まで歩いて帰ります。お二方は馬車でお帰り下さい」
「今日はいろいろ世話になったな。礼を言うよ……ありがとう」
「いえ……明日からみっちりしごきますので、どうぞお覚悟を」
可愛げのない台詞は照れ隠しのつもりだろうか。そう感じたシャルルはフッと笑みを浮かべながら、独りで帰ってゆく小さな大賢者を見送った。
それから王城を出た一台の馬車に同乗するシャルルとオクタウィア・クラウディアの二人は貴族街のクラウディア家の本邸まで送り届けられた。
「師範、今日は長時間お疲れ様でございました」
「いや、お嬢もこんな時間まで付き合ってくれてありがとう。軍務卿閣下にもどうぞよろしくお伝えください」
「……本当に歩いてお帰りになるのですか」
「
王城から邸宅まで馬車で送り届けてもらうこともできた。しかし、家で待つ賢明な家政婦長はそれだけで何があったかをあらかた察してしまうだろう。
だから王城の馬車をここで帰して、残りは歩いて帰ることにした。
オクタウィアに見送られたシャルル・アントワーヌは、見知らぬ星座を仰ぎながら独り家路についた。
(俺の知り得た秘密は、エレーヌにも隠すべきなんだろうな)
彼が何者であるかを知ったカリス、オクタウィア、そして女王と王太子。
彼女たちの態度の変わり様は無理からぬものかもしれない。古代バルティカ皇帝という存在があまりに大きなものであったと思い知った彼はそう理解できる。
だが、彼自身の心の奥底にまだ消化しきれない何かが残っていた。
(大昔の皇帝の末裔――それは俺であって、俺じゃねぇんだ)
彼の背負った大きな使命に比べたら、あまりにもちっぽけな誇り。
風に吹き飛ばされそうな誇りでも、今の彼に欠くべからざる心の拠り所である。
生まれて以来疑うことのなかった神の加護と教会の威光が届かなくなった異界で、騎士叙任の都合で異国の教派への改宗を余儀なくされた彼にとって、『自分が何者であるか』は何よりも重要な精神的支柱であった。
(できることならエレーヌには変わらないでいてほしいなぁ)
彼女には今日見聞きした秘密の一切を明かさない――そう、彼は心に決めた。
***
「おかえりなさいませ、シャルル様」
「わりぃ、帰りが遅くなっちまった」
「こんな遅くまでどちらへいらっしゃったのですか」
「軍務卿ユスティティア様のお屋敷で色々とお話を伺っていたら、ついこんな時間になってたんだ」
ずっと緊張状態が続いていたこともあり、あまり空腹を意識しなかった。しかし、銀髪の家政婦長の姿を一目見た途端、ぐうと腹が鳴り出したのである。
「まぁ……食事をお召しになりますか」
「……うん、いただくよ」
「では食堂へおいでください。すぐに温めますから」
彼女以外の使用人たちはいない。
彼女が厨房で温めたスープを食器に入れて食堂に運んできてくれた。
野菜が何種類か入ったスープだった。この王都で野菜は貴重である。
「あれ、どうしたんだ。野菜のスープなんてごちそうじゃないか」
「王女様がシャルル様と一緒に食事をお召しになりたいとおっしゃいましたので」
「え……!? そんな約束した覚えは……」
「はい、予定にはございませんでした。いつお帰りになるかわかりませんと申し上げたのですが、つい一時間ほど前にお帰りになるまでここでお待ちになりました」
その話を耳にして頭を抱えるシャルル。
「……申し訳ないことをした」
「いえ、仕方のないことです。王女様もそう口になさっていました。ですからどうぞ冷めないうちにお召し上がりください。王女様から菜園で採れた野菜をお土産にいただいて作ったものですから」
ヘレナに促されてスープを口にする。掛け値なしに美味しかった。
今日どんなことがあったのか。話せる内容だけ話しておこうと思う。
「今日は軍務卿閣下といろいろなお話をしてきたよ。先日の接待や、そこで振舞った料理の数々を褒めていただいた。君のおかげでもあるから伝えておきたかった」
「そうでしたか……それはようございました」
「どうやって領地を豊かにするか、どうやって領民に食わせていくか、いろんな話で盛り上がって時間を忘れちまった。例の魔術の
傍らで給仕を務める家政婦長のどこか和やかな眼差しに気づいた。
「ん、どうした。エレーヌ」
「シャルル様が近頃はすっかり御領主様になられたと思いまして」
「それはどういう意味かな」
彼が問うと少し言いよどんだ家政婦長はこう言った。
「先ほどお帰りになったとき、どこか疲れきったようなお顔を無理に隠していたように見受けられたので……何か深刻な出来事があったのではと案じておりました」
一瞬、言葉に詰まる彼。ぼりぼりと頭をかいて応えた。
「そっか、午後になってから飯も食わず頭ばっか使ってたからな……空元気出してたつもりだが、逆にいらぬ心配を掛けちまった。やっぱり君に隠し事はできねぇな」
「いえ……領主として領地のこと、領民のことをお考え
「それは俺が言う台詞さ。王女様に
野菜のスープを食べ終わり、給仕を務めてくれた家政婦長に礼を言った。
「美味しかったよ、ありがとう」
「恐縮でございます。それでは後片付けをしてまいりますね」
「ああ、待ってるよ」
「そう時間はかからないと思いますのでお待ちいただければ」
ほんの少しはにかんだ家政婦長を見送る。温泉を引き入れたこの邸宅では彼と彼女がともに入浴する。そういう習慣だった。
特に口にしなくても彼女もまたそのつもりでいてくれたことに、なぜかほっとしたシャルルだった。
それから三十分ほどで食事の後片付けを終えた家政婦長は亜麻の湯浴み着を持って彼のもとにやってきた。どこかそわそわしていることに気づく。
「お待たせいたしました」
「どうしたんだい、いつもと少し違うね」
「……お屋敷では別々でございますから」
家政婦長という立場もあって、彼の湯浴みの世話は彼女以外の使用人が務めることになっている。よってカルディツァに生活の基盤を移してからは一緒に入浴する機会が無くなってしまったのだ。
「今回はたまたまシャルル様と二人きりで王都に戻ってきましたが、次回このような機会があるかどうかわかりませんので」
「そうだなぁ……」
俯き加減のヘレナを片手で抱き寄せて、顎をくいと上向かせる。影の差した端整な顔つきにほのかに朱色が宿っていた。
「せっかくだ、今日はいっぱい楽しもうじゃねぇか」
「シャルル様……」
見開かれた紫色の瞳が熱を帯びつつ、睫毛の向こうに隠される。瞼を閉じたヘレナの背中を抱き寄せ、うっすらとルージュの引かれた唇を奪った。胸の鼓動が高鳴るのを覚えつつ、小鳥が啄むようなキスを何度か繰り返した。
唇が少し疲れた頃合いに彼女を開放する。白い頬が真っ赤になっていた。
「……困ります、こんなこと」
目を合わせるのが躊躇われるらしい。顔を背けて彼女がつぶやいた。
「これでは湯浴みが億劫になってしまいます」
「今すぐにでも寝床に潜ってヤっちまうか?」
「いいえ、物事には順序がございます。湯浴みも使用人の大事な仕事ですから」
彼の湯浴みの世話も決して手を抜きたくないそうだ。ヘレナは顔をこちらに向けてきっぱりと言った。彼女がこう言いだすと絶対に譲らないのを知っているから、彼はあっさりと折れる。
「じゃ、さっそく風呂に行こうぜ」
恋人から使用人の顔に戻ったヘレナの手を取る。ヘレナもまた彼の手を握りしめて離さなかった。脱衣所で別れた後、使用人の制服を湯着に着替えて戻ってきた彼女は上目遣いでこう言った。
「それではお身体を洗わせていただきますね」
「……うん」
石鹸で背中、頭を洗いつつ、うっすらと生えた髭まで剃り落としてくれた。
「やっぱり、エレーヌに洗ってもらうのが一番気分いいって気づいた」
「あら、そうですか」
穏やかな声に振り返ると柔和な笑みがあった。
「私も身体を洗わせていただきます。少しお待ちください」
「うん」
浴槽の端で足だけを湯に浸して待つ。湯の温度もちょうどよかった。気持ちよさに浸っているうちに、彼女がやってきて隣に腰かけた。
「エレーヌはさ、変わらないよな」
「……え、何がでございましょう」
「いや、なんつーか……俺がどんな地位になっても変わらないでいてくれる」
シャルルがそう口にすると、不思議そうに瞬きをする。
「そうでしょうか? あなた様にだいぶ遠慮しなくなった自覚はあるのですが」
「そういう意味じゃねぇんだ」
隣に座った彼女の手に、自らの手を重ねる。
「初めて会ったとき、俺は言葉も喋れねぇ浮浪者同然だった。カラカラに喉が渇いて凍えていた俺にあったかい白湯を飲ませてくれたのがエレーヌだった」
「まぁ……覚えておいでだったのですね」
「この国で初めて会った人間がしてくれたことさ。忘れちゃいねぇよ」
手を握り合いながら、話を続ける。
「それから言葉が通じるようになって粥をもらったな。熱い粥だった」
「私も覚えています。たどたどしい言葉で
「不思議な魔術のおかげで、会話だけはできるようになったんだよな。もっとも女王陛下の前で赤っ恥をかく羽目になったが」
「仕方のないことでございます。陛下もお咎めになりませんでした。その頃に比べて今のシャルル様はすっかり言葉が流暢になりました。見違えるほどでございます」
「文字の読み書きもある程度できるようになったからな。これも君のおかげさ」
「それはあなた様の努力の賜物ではありませんか。私はただ、そのお手伝いをさせていただいただけですから」
慎ましい返事で答えた彼女の手にもう片方の手を添えて向き合った。
「エレーヌには本当に感謝してるよ。君がいなかったら今の俺はいねぇんだ」
「……どうしたのです、急に」
少し戸惑いの色が目に浮かぶ。
「今は貴族の一員になって自分以外のことも考えなくちゃいけねぇ立場だ。これからいろんなことがあるだろう。俺はきっと、今の俺のままじゃいられなくなっちまう。周りの見方も変わってくだろう。でも、俺は……俺であることを忘れたくねぇんだ」
「……」
「すまねぇ、うまく言葉にできねぇんだが……俺のそばで俺を見守っていてほしい。俺が俺でなくなりそうなとき、首根っこ掴んでいいから引き戻してほしいんだ」
無言でじっと彼を見つめるヘレナ。気まずさに彼は目を逸らした。
「……変なこと言ったな。いつかわかってくれればそれでいい」
「かしこまりました。その言葉を思い出したとき、そうさせていただきます」
自分を見つめる眼差しが和らいでいく。遠い昔に生き別れた母親を思い出すような安らぎを感じる――そんな優しい目が彼の顔をじっと見守っていた。
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