第14話 王国への仕官

「おはようございます、王女様」

「ごきげんよう、ヘレナ。何か変わりありませんか」

「はい……何の問題もございません」

「あら、少し顔が赤いような……熱があるのですか」


 相変わらず鋭いお姫様だが、ヘレナも慌てずに対応した。


「いいえ、朝が少し寒く感じたので先ほどまで入浴しておりました。ご心配には及びません」

「朝が寒くなってきましたから風邪をひかないように気をつけて」

「お気遣いいただきありがとうございます、王女様。リンゴ酒をお持ちいたしますので、応接室でお待ちくださいませ」


 ヘレナをすぐ風呂へ行かせたのが功を奏したようだ。使用人の立ち居振る舞いを物陰から見守りつつ、シャルルはそう思った。

 昨晩の交わりがあまりにも激しかったので、彼女の髪はめちゃくちゃになっていたし身体は体液まみれになって汚れていた。それらの痕跡を消すので精一杯の時間しかなかったのだ。彼女がお風呂を出てきたのと入れ違いに、彼は朝風呂に入ってきたところである。

 ヘレナも入浴中に頭を切り替えたのであろうか、シャルルが入浴している間に新しい着替えが脱衣所に用意されていた。粗相そそうのないように衣服に着替え終えてから彼は応接室に向かった。リンゴ酒を陶器のカップに注ぐ侍女と、それを待ち構えているお姫様がいた。


「おはようございます、ソフィア様」

「ごきげんよう、シャルルも朝風呂だったのですね。温泉が気に入りましたか」

「俺の国では清潔な水を得るのが難しく、全身を温かい湯に浸す習慣がありませんでした。この温泉は傷に効きますし身体も芯から温まるので気に入りました。ありがとうございます」


 湯治の甲斐あって古傷と先日負った傷が予後良好なのは紛れもない事実だ。そう語った彼にお姫様はすこぶるご機嫌の様子である。


「今日はアグネアの紹介で軍務府を訪ねます。先方の予定も確認済みです」

(昨日の今日でもう武官と会う予定を作るとは、を見るにびんってやつか)


 寒い夜明け、凍え切った彼を馬車の上から見つけて全ての予定を変えさせて救護すると決断したのがソフィア王女だった。ヘレナからそう聞き及んでいた彼はお姫様の意思決定と行動の速さに舌を巻いた。

 それからほどなく彼の邸宅を赤髪の武官アグネアが訪ねてきた。


「二週間ぶりだな、アグネア殿。変わらずお元気そうで何よりだ」

「騎士殿も壮健だったか。そういえば言葉遣いも見違えたようだ」


 さり気なく握手を交わすとアグネアが意外そうな表情をしている。


「もう、陛下の前であんな口はきかなさそうだな」

「耳が痛い話だ」

「これは失礼。しかし、それが貴殿の本来の口調か」

「こんなところで立ち話もなんだ、どうぞ応接室へ」


 シャルルはアグネアを応接室に迎え入れた。そこにはソフィア王女が腰かけている。


「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」

「ごきげんよう、アグネア。今日はお時間を割いてくれてありがとう」

「いえ、お構いなく。騎士殿に渡す物もございましたので」


 アグネアは袋で包んだ棒を手にしていた。袋を開封すると長い木の剣が現れた。


「侍女殿からの依頼で木剣をこしらえてきた。聞くところによれば剣の鍛錬に使いたいそうだな」

「まじかッ、ありがたい! 得物がなくて鍛錬もできず身体がなまっていたところさ」


 手に取って柄を握り長さを確かめる。長剣と見立てれば程よい長さに思われた。


「うん、俺の体格にも合っている。ちょうどいい」

「貴殿の身長に合わせてうちの職人に作らせた。気に入ってもらえたなら光栄だ」

「型の稽古ならこの邸宅の庭でもできそうだしな」

「貴殿さえよければ、うちの屋敷の修練場に来るといい。それなりに広さもある」

「いいのかッ、それは助かる……だが、困ったな」


 彼の反応に、長椅子に座った赤髪の武官が怪訝な顔をする。


「残念だが今の俺にはお礼のしようがねぇ……相済あいすまない」

「なぁに、気にするな」

「いや……待てよ、無くはないか……」


 シャルルは腰の短剣の鞘にくくり付けた革製の小袋のなかから何かを探した。

 すると金色に光る貨幣が出てきた。異教徒の聖典の一節が打刻されているらしいが何と書いてあるかは彼にすら読めない代物だ。それをアグネアに差し出した。


「俺が稼げるようになるまで、とりあえずこれを預けておきたい」


 見慣れないものを観察するように、アグネアとソフィアが身を乗り出した。


「これはなんだ……もしかして貨幣か。見たことのない色をしているが」

「この記号はもしかして文字かしら、意味はわからないけれど……どう思いますか、ヘレナ」

「さぁ……私も初めて目にする文字ですから……」


 金貨に対する三人の反応を観察してシャルルは気づいた。


(お姫様を含めて金貨を初めて目にするような反応だ……貨幣って言葉自体はあるんだし、おそらくこの国ではきんの流通じたいがねぇのかもな)


 彼の過ごした世界でも金は不足しており、銀貨や銅貨が広く流通していた。金貨が多く流通していたのはヴェネツィアやコンスタンティノポリス、あるいはそれよりも東方のアナトリア、レバント、エジプトといった異教徒たちの支配下にあった一帯である。

 異教徒たちの王朝が打ち立てた遠くの異国で作られた金貨――それは父親とともに東方へ遠征に向かった彼の見果てぬ夢、その行き先を指し示したお守りのようなものであった。


「昔、遠征先で手に入れた異国の貨幣だ。ディナール金貨という。俺のいた国よりもはるか東方で打刻されたものだ」

「金貨って……まさか、これが黄金こがね!?」


 驚愕したアグネアがしばしの間、言葉を失っていた。

 それほど貴重な物であるならば、それなりの価値があるかもしれない。そんな彼の心を知ってか知らずか、切れ長の目を細くした彼女はこんなことを口にした。


「一つだけ忠告しておく……この国でこれは人に見せない方がいい」


 絶句。続ける彼女の口調は重苦しい。


「ルナティアで黄金はとても希少だ。それゆえこの国では伝統的に白銀が尊ばれてきた。黄金は欲深い者が求めるものとかえって忌避されている。大衆だけでなく王侯貴族でさえそうだ。もし流れ者である貴殿がこのような物を持っていたと知れ渡れば、この先貴殿の身を危うくするだろう」


 脅しのような忠告に彼は唾を呑んだ。彼女の目を見たところそれが冗談でないことは間違いない。


「黄金はこの国では大変貴重だ。あいにく私には正確な価値がわからないが、これが希少なものだということはわかる。町の質屋などに持っていくのはやめておけ。その価値に正しく見合った銀貨や銅貨をすぐには用意できないはずだ。それどころか変な噂が立つし、邪欲を持つ輩を呼び寄せる結果を招くかもしれない」

「そうか……ご忠告ありがたく受け取らせていただくよ」


 差し出した金貨を引っ込めると彼女は怖い顔を消して、笑みを浮かべた。


「受けた恩義を大切にする貴殿の気持ちはよくわかった。貴殿に助けてもらった礼に木剣を拵えたようなものだからお返しはいらない。だからそれは大事に取っておくがいいさ。いつか役に立つこともあるだろう」


 それからソフィアを交えて、アグネアは講義を始めた。この国が直面した政治的、軍事的課題をこの国の地理と結び付けたものである。昨日ソフィアから耳にしていたこの国の課題がよく理解できた。

 そして、彼が当てにしていた希望が打ち砕かれた。


(この国は、いや――この大陸は俺が知る世界のどこにもつながっていねぇのか)


 この国が世界のどこにあるのか。それがわかれば故郷への帰り道がわかるかもしれない。

 天に瞬く星座が今はわからなくても、荒海を征く航路が今はわからなくても、荒野を貫いてゆく道が今はわからなくても――。

 それら全部がわかれば、どんなに遠くても故郷に帰れるはず――そう信じていた。


 そんな希望が打ち砕かれてしまった。アグネアから大陸の地図を見せてもらったがそのどこにも彼の知っている地名はなかった。

 ここは異国じゃない――それどころか、異世界と表現すべきところだった。


(まさか……俺は大海の果てにある滝から滑り落ちてしまったんだろうか)


 世界の果てに大きな滝がある。そこから落ちてしまった者は二度と戻ってはこない。ガキの時に聞いて感じた空恐ろしさを今もって思い出した。


(どうりで教会も、聖典も、主の御名を呼び求める者すらもいないわけだ)


 ずっと不可思議に思っていたことがすべてつながった。当たり前のように彼の周りにあった物がすべて失われたのはなぜか、納得がいった。


(果たしてこの世界でも主への祈りは届くんだろうか)


 自分が死んだような実感は全くない。喉も乾くし腹も減る。まだ生きていると強く思う。しかし少なくとも、もはやここは彼が生まれ育った世界ではない。


(ここで生きてゆかなきゃいけねぇなら、俺は何をすればいいんだ)


 この異世界で生きていく意味――それを見出したい。

 ここを去ってどこかに行く。そうでなければここで生きる術を見出すしかない。

 彼の己心で静かな戦いが始まった。異教徒から聖地を取り返す戦いに比べて華々しくもなければ、ともに試練を乗り越える同胞すらいない、果ての見えない孤独な戦いが――。


 アグネアの講義が終わりを迎えたとき、彼の思索も一つの結論を見出していた。


「……以上で私の講義を終わりたいと思います。最後に何か質問があれば」

「一つある」


 シャルルが挙手し、二人の眼差しが集まった。


「武官として王国に仕官を希望する方途が俺にあるか」


 その問いに腕を組んでうなったアグネアの顔をソフィアがじっと見守っている。


「わからない。前例があるのかどうか……魔術師であれば他国からアルス・マグナに学びに来た者が仕官した前例があったはずだが」

「武官としては前例が無いかもしれない、ということですか」

「はい、殿下。豪族の中には王国への臣従を誓って特別に官位を賜った前例があったと記憶しています。ですが、騎士殿の場合はまったくこの国に縁がありません」

「要するに身元を保証するものがないということですね」

「はい、そうでございます」

「よろしい。ではわたくしがなりましょう」

「えっ!? 殿下が騎士殿の身元を保証されるとおっしゃるのですか」

「ええ、シャルルの身上のことすべて女王陛下から託されていますから」


 ソフィアの明快な回答にさすがのアグネアも面食らったようである。赤い髪を手でかき上げ、わずかに険しい表情を浮かべる。唇をぎゅっと結んで苦悶する様に、相当無茶を言ってしまったのでは――とシャルルも思うところがあった。


「殿下が身元保証……しかし、陛下が……ううむ、そうですか……」


 アグネアがパンと手を叩いた。その目は意外にも据わっていた。


「悩んでもしょうがないッ! 私が軍務府に掛け合ってみましょう」

「……いいのか、アグネア殿」

「ああ、当たって砕けろってやつだ」

「無理を言ってすみませんね、アグネア」

「ではお二方、これから軍務府に参りましょう」


 王国に仕官を希望したシャルルとその後ろ盾になる意思を示したソフィアを伴ってアグネアは王城からほど近い宮殿を訪ねた。王国正規軍と軍を管掌する軍務府の庁舎として使われている古い宮殿だという。


 アグネアに連れられて庁舎に入ってから、シャルルはまとわりつく視線をいくつか感じた。男性が物珍しい存在である以上、むをないのかもしれない。

 庁舎の一室に通された三人のもとに武官が二人やってきた。いずれもシャルルとの面識はないが、ソフィア王女やアグネアとの面識があるようだ。

 お姫様を控室に残し、別の部屋に場を移して彼の面接が始まった。


「名前をお聞きしてもよろしいですか?」

「シャルル・アントワーヌだ。アルテュール・ド・ブルゴーニュのもとで近衛騎士を務めていた」

「アル……ブルゴ……まぁよいでしょう」


 一瞬顔をしかめたシャルルはすぐに取り繕った。アルテュール・ド・ブルゴーニュといえば西ヨーロッパの覇者にして教会の擁護者であり、異教徒との戦いに名乗りを上げた英雄だった。その名をまったく知らない――そんな反応に苛立ちが募った。


「前に仕えていた国ではどのようなお立場でしたか」

「王を守る盾、王の振るう剣となる近衛騎士団を率いた。数万の敵を撃退したこともあったな」


 彼が開けっ広げに口にすると、面接官はひどく驚き、そしてわらった。


「その年齢で? はっはっは、冗談にもほどがある」

「冗談なんかじゃねぇ。数千の軍勢を率いて異教徒と戦ったんだ。本当だ」

「バカ言っちゃいけない。証拠はどこにあるんだ?」


 笑いを消して真顔で迫る面接官にシャルルは言葉が詰まった。

 異教徒の軍団を蹴散らしてヨーロッパ諸国の軍を無傷で引き揚げさせた彼の勇名は上は王侯貴族から下は庶民まで広く伝わっていた。証拠など思いもよらなかった。


「どこの田舎者が王女殿下の伝手つてを頼って仕官を申し入れてきたかと思えば、とんだ虚言癖の持ち主だったとは……」


 もう一人の面接官がこう漏らした。

 それを耳にしたシャルルは拳を握りしめた。腕がぶるぶると震える。


「……その話は初めて耳にしたな、私も」


 彼の隣に座っていたアグネアがそう口にした。続けざまに彼女はこう言った。


「すぐに士官待遇は難しいな。だが、抜刀隊の一員に加えれば心強いだろう。殿下をお守りした武勇を発揮してくれることは疑いない。私が保証する。士官に登用するかどうかはその後の働き次第でよいのではないか」


 証拠がどこにあるのかと詰め寄った面接官に自らが保証すると断言したアグネアの意図にシャルルは思い至った。握りしめた拳を解き、袖をまくってこう言った。


「俺が軍団を率いた証拠を示せと言われたら確かに示せねぇ。だがどんだけ修羅場をくぐってきたか示せと言われたら簡単だ。この身体に聞いてくれればすぐわかる」


 左腕の何カ所かに古傷がある。それを見た面接官たちの顔色がしかと変わった。

 見開いた目を互いに見合わせている面接官たちの反応を見て、シャルルは確かな手ごたえをつかんでいた。


(こうなりゃ十年前みたいにもう一度……また一兵卒から成り上がってやるぜ!)

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