第13話 薔薇と橙と精油の効能

「あの高地が立ちふさがっていて、王都と高地の向こう側の土地の行き来は簡単ではありません。高地の向こう側にあるテッサリアは穀倉地帯として重要ですが豪族の手にあります。今は豪族たちから税を上乗せした高い小麦を買っています」

「王国は豪族を討伐しないんですか」

「それができるならやっているでしょうね」

「王国に軍隊は存在しないんですか」

「いいえ、軍隊自体は存在します。少数精鋭ですがとても優秀な軍隊です。絶対的な数が足りないのが最大の問題ですわね。兵力も兵糧も足りないでしょうし。わたくし軍事のことは明るくないので、今度アグネアに聞いてみるとよいかもしれません」

「俺みたいなよそ者に教えてくれるでしょうか」

「わたくしが講義を受けたいと言って、そこにシャルルが同席すればよいのです」


 日も傾いてきた夕方ごろ、シャルルはお姫様とともに午餐ごさんをとった。

 正餐に比べるとより質素で主食のライ麦パンのほかはザリガニエクルヴィスとリーキを煮込んだと思われるスープが食卓に並べられた。


「ライ麦パンなのにそれほど固くねぇな」

「はい、蒸気の窯で蒸してやわらかくしております。蒸気が簡単に得られるこの街で一般的な調理法です」


 ライ麦パンは白パンに比べるとどうしても固くなりがちだ。この国では固いライ麦パンを食す者が少なくないそうだが、王都では火山由来の地熱と蒸気を生かして固いパンを食べやすくする食習慣のおかげでまだ食べやすい方なのかもしれない。


「このスープは独特な甘みがありますわね。王都の庭園の池で育てた川エビを使ったのでしょうか」

「はい、さようでございます。王女様」

「庭園の池でこれを育てているのか。だから臭みがないんだな」

「はい。王女様が王都の食糧事情を改善しようとお考えになって、湿地帯に生息する川エビを採取して試験的に養殖を行っているのです。自然界では大きくなる前に他の動物に食べられてしまいますし、調理する前に泥を抜かねばなりませんので、天敵のいない澄んだ庭園の池で育ててはどうかと」

「貴族たちの中にはそんなものを食べるなんて、と受け付けない者もいるのですが、わたくしが訪れた他国ではこのような食材も上手に使っているところがありました。ですから調理法や養殖法などを志ある者たちに学ばせ、研究させていますの」

「川エビの皮をむいて、皮は乾煎りしたものをローリエとともに煮出しに使い、身はしたスープでリーキとともに煮込んでいます。そうするとこのように野菜と川エビの甘みが出るんです」


 お姫様の知的好奇心は料理の分野にも及んでいる。食に関する工夫はいろいろあるようだ――とシャルルは驚くばかりだった。


 質素ながらも美味な食事を堪能して、王女ソフィアと過ごした一日が終わった。

 信頼する使用人に彼を託して王城へと帰るお姫様を一緒に見送ったヘレナは、彼を気遣ってくれた。


「一日お疲れ様でした。今日は入浴されますか」

「もう少し経ってからにする。先に食事を済ませておいで」

「お気遣いいただき、ありがとうございます」


 お姫様と彼のために今日も尽くしてくれた使用人がやわらかい笑みをこぼす。そんな顔をされると、こちらにも思惑があるのだが――とは口にしづらいものだ。


「あとでいいからさ、背中を流してもらいたいんだけど」

「かしこまりました。また溺れられては困りますから……ふふふっ」


 浴場でのぼせて溺れるとは情けないが、そのおかげで彼女とより親密になれたのは怪我の功名だったのではないか。好意的な返事を得たことを彼は快く思った。

 食後の彼が応接室の長椅子でごろ寝している間にすべての使用人の食事と後片付けが終わり、ヘレナを残して使用人たちが帰っていった。

 やがて間もなく湯浴み着を手にしたヘレナがお楽しみの時間を告げにやってきた。銀髪の侍女の表情が昨日までと変わっていることに気づく。


「お待たせいたしました。って、すみません……私が急かしているようで」

「いや、そろそろお腹も落ち着いたし、入浴しようと思っていたところさ」


 他の使用人たちがみんな帰って、昼間の仮面が外れかかっているのかもしれない。そんな彼女と二人して浴室に向かった。

 脱衣所を譲られたシャルルは先に衣服を脱いで、石造りの浴槽へと腰掛けて待っていた。ほどよい温度の湯が足を温めてくれるのが気持ちいい。

 後から湯着へと着替えたヘレナがやってくる。やはり豊満で魅力的な体つきだ。


「先にお身体を洗いますか」

「ああ、頼むよ」


 石鹸と布切れを用意した彼女が背中を洗ってくれた。傷を負った箇所を優しくなでてくれるのが少しくすぐったい。


みませんか」

「うん、大丈夫だ」


 身体を洗ってもらい、浴槽に足を浸してからゆっくり肩までつかる。身体の芯まで温まるような心地よさだ。それをじっと脇で見守っている彼女に声をかけた。


「エレーヌは入らないのかい」

「いえ、私は使用人ですから……わきに控えております」

「俺が君と一緒に入りたいと言ってもか」

「え……」


 銀髪を結い上げた侍女は白い頬をほんのり赤らめて、慎ましやかに頷いた。


「はい……シャルル様がお望みになるのでしたら」


 ゆっくりとヘレナが浴槽に足を入れてきた。綺麗に伸びた脚に魅了される。後ろ髪を結い上げて露わになった丸くて美しい弧を描く肩が、武骨な肩の隣に並んだ。


「ソフィア様はとても博識だね。今日はいろんなことを教えてもらった」

「あの本はみんな王女様が選ばれたのでしょうか。図書館の司書たちがびっくりするくらい、いろんな本をご存知ですから」

「神話の本は自分で読めたんだが、歴史の本はけっこう難しいことが書いてあった。代わりにソフィア様が読んでくれた」


 お姫様には口にできない気持ちを吐き出せる安心感――ヘレナにはそれがあった。裸の付き合いという場のせいもあって、口にせずに来た気持ちを吐露していった。


「初めてこの国に来た時、言葉も文字もわからなかった。生活の様式も違えば食事の作法も違う。何もかも知らなかった。この家に出入りする使用人たちでさえ、陰では俺を田舎者やどこぞの野蛮人じゃねぇかってさげすんでるのを知ってる。無理もねぇさ」


 ヘレナは黙って聞いている。それに甘えて、シャルルは続けた。


「でもこの国の言葉で会話ができるようになった。文字の読み書きがわかってきた。食事のしきたりも覚えてきた。それもこれも全部エレーヌのおかげさ。君には本当に助けてもらってる」

「いえ、すべて王女様から仰せつかったことでございます。あの寒い朝にシャルル様を救う決意をなさってから、王女様はあなた様を気遣っておいでなのです」

「なんでかな……なんでそこまでしてもらえるのか、俺にはわかんねぇんだ」


 濡れて垂れ下がった栗色の前髪を振り払うようにシャルルは天を仰いだ。


「この国に来る少し前の出来事を話しておくよ」


 それから彼に婚約者がいたこと、その婚約者を別の貴族の男に奪い取られた挙句、刺客に殺されると思ってから記憶がなく――ふっと目覚めたらあの荒野にいた。そう打ち明けた。傍らのヘレナはずっと聞いていてくれた。


「俺の言うことが本当か信じられねぇだろ。無理もねぇ……どうしてこうなったか、俺だってよくわかんねぇんだから」

「ええ……ですが、決して嘘はおっしゃっていない。それはわかります」

「どうしてさ」

「嘘をつくような方はもっと信じやすい嘘をおつきになるでしょうから」

「たしかにな」

「それにシャルル様が文字を覚えようとなさる熱意は疑いようがございませんから。逆に無理をしすぎて身体を壊さないか心配になるほどです」

「身体は疲れてねぇんだけどな、精神的に疲れてるっつーか……そうだな……」


 真剣な眼差しがじっと彼を見つめている。


「焦ってるのかな……俺」

「焦り……ですか」

「立派な騎士になりたくて、そんな憧れがあって生きてきたんだ。近衛騎士になったとき、ようやく俺も偉大な騎士への第一歩に立った、そんな夢と希望に胸を躍らせていたんだ……まぁ、何回も死にかけたけどな」


 彼が歯を見せてわらうも、彼女の眼差しは変わらなかった。


「でも今は違う。何もせずに衣食住が与えられてる。ありがてぇんだけど、今の境遇がみっともねぇとも感じる。だから今できることを一所懸命やって足掻あがいてるんだがなかなか結果が出ねぇ。昼はそんなもどかしさに悩んでるし、夜は夜で幼馴染を奪い取られる悪夢にうなされてる」


 ありのまま心境を吐き出すように口にしたシャルルの傍らでヘレナは思案しているのか、指を折りながらぶつぶつとつぶやいていた。


「環境の激変、漠然とした不安、焦り……もっと言えば孤独……そうですね」


 しばらく逡巡した後に何か決心したような顔を見せる。


「どうした、エレーヌ」


 シャルルはヘレナの手に自分の手を重ねる。ビクンと波打った彼女の身体は逃げることなく自分の手を握り返してきた。


「今のシャルル様にうってつけかもしれないお香がございますので、あとで焚いてみましょうか」

「ありがたい、おまかせするよ」


 白い頬に軽く口づけると、一瞬戸惑いを見せた彼女は微笑んで頷いた。

 ほどなく風呂を出て、身体が温まって血の巡りがよくなったシャルルはヘレナからシルクのガウンを受け取って寝室でくつろいでいた。

 そこへ少し遅れて、湯浴み着からシルクのガウンに着替えたヘレナが訪れる。その手にはお香を焚くためのポットがあった。机の上にお香を置いたヘレナは寝床の上に腰掛けているシャルルの手招きに応じて隣に腰掛けた。


「すごくいい匂いがする。これは何の香りだい」

薔薇ロサ柑橘類シトラスの花の香りを組み合わせたものです。薔薇の花の香りは孤独感をやわらげ、柑橘類の花の香りはネロリという名前で呼ばれますが不安や緊張といった感情を落ち着ける作用がございます」

「この香りも君が菜園で育てている花で作っているのかい」

「できればそうしたいのですが、花の香りから精油を作るにはたくさんの花が必要で……私の菜園だけではとてもまかないきれないのです。ですから農務官の方々にもご協力を仰いで、試験農園で栽培を手伝ってもらっています」


 彼女は王女の側仕そばづかえだけでなく、王女の健康管理も担っている。そのため芳香療法アロマテラピーの技能も習得しており、それに必要な精油も何種類か確保している。それを彼のために使ってくれるという。


(なんて贅沢な……そんな貴重なものを使ってくれるのかよ)


 草木が根付きにくい土地に作られた人工の楽園で育てた花々。それをもとに作り出された香りがどれほど値打ちのあるモノか、想像するだけで気が遠くなりそうだった。


「今のシャルル様はまったく知らない環境に放り出されて、戸惑いと苛立ち、寂しさを感じているように思います。それをすぐに解決するのは難しそうですが……そんなシャルル様にぴったりの効能と考えて選んでみました」


 彼女がそのように言語化してくれたおかげで、彼は自分のもやもやした気持ちをよりはっきりと自覚できるような気持ちがした。それと同時に、自分はひとりではないという安心感が芽生えてくる。


「……それともう一つ、この香りには重要な効能がありまして」


 そう口にしたヘレナがそわそわとしていることに気づいた彼が手を握ってやると、彼女も覚悟を決めたようにつぶやいた。


「不安を解消し、人を愛し、信頼する気持ちを高めることができます……そう、言葉を選ばずにいえば……」


 それを口にするのが憚られたのか、そっと続きを耳打ちしてくれた。


「催淫作用がございます」

「……!?」


 要するに媚薬びやくを仕込まれたようなものだ。

 思いのほか大胆な手を打ってきた彼女の顔をじっと見つめていると、彼女も恥ずかしいのか顔をそむけてしまった。


「無理にとは申しません……もし、シャルル様の心と身体に私が寄り添えるのならばと考えたまでですから」

「エレーヌ」


 彼女の整った顔をくいとこちらに向かせて唇を奪った。


「ごめん、もう我慢できねぇや」


 もう一度唇を重ねると、舌を絡ませるようなキスを仕掛ける。彼の荒々しいキスに驚いた彼女は逃げるように身をよじる。彼女にこんなキスをしたことはなかったかもしれない。我に返った彼は唇を離してヘレナにわびた。


「乱暴にしちまった、すまねぇ」


 そもそも彼女は彼の女ではない。

 あくまで王女から彼を預かっているにすぎないのだ。


「シャルル様……」


 それにもかかわらず、彼女は自分から唇を寄せてキスを求めてくる。そのひたむきさに心打たれて彼は再び舌を口腔の中にねじ込んだ。息苦しさに悶える彼女は懸命に舌を絡ませて応えてくれた。


「ちょっと効きすぎてしまったようですね。さっきはちょっと驚いてしまいましたが無理もないと思います……私も我慢できなくなってしまうくらいですから」

「エレーヌは意外と大胆だね」

「シャルル様の心身をどう労わるか考え、これが最適と思ったのです」


 お香の匂いがそうさせるのか、ふたりはキスを繰り返して結合を深めつつ、寝床に沈んでいった。


「エレーヌ……エレーヌッ」

「シャルル様……シャルル様ぁ」


 昨夜初めてのまぐわいをしたばかりの二人は、今夜それ以上に激しく求めあった。

 お香が燃え尽きた頃には、ふたりは折り重なったまま力尽きていた。その様は川を遡上して産卵を果たし、川底に沈んでその一生を終えた鮭の雌雄のようであった。


 ***


「うーん、よく寝たな……」


 いつもよりも遅い時間に目覚めたシャルルは身体にのしかかる重みを感じていた。昨晩愛し合った女性があられもない姿をさらけ出したまま、寝息を立てている。もう少し眠らせてやりたいが、今日も王女様がおいでになる予定だからそういうわけにもいかない。


「エレーヌ、そろそろ起きないと」


 昨日の同じ時間、使用人が何事もなかったように働いていたはずだ。もしこんなところを王女様に見られでもしたら、大変なことになってしまう。


「シャルル……さま?」

「おはよう、エレーヌ」


 寝ぼけた目をくりくりと動かす彼女がかわいらしい。

 外の明るさに気づいたのだろうか、彼女はさっと青ざめた顔をした。


「今、何時ですか……ええっ!?」


 彼女と知り合って、一番滑稽な表情を見た思いがする。


「申し訳ございません、私としたことが……寝坊してしまいました」

「いいよ、俺の寝床にいる間は使用人じゃないんだし」

「……え?」

「俺の恋人。それじゃダメかな」

「こ、こ……困ります。こんなときにそんなこと言われるのッ」


 青ざめていた顔に赤みが戻った。そして、自分の姿にも思い至ったらしく、胸と下腹部を腕で隠して背を向けてしまった。


「お日さまが昇っている間、私は侍女……あなたは騎士なんですから」

「じゃあ、お日さまがいなくなった後ならいいのかな」

「……」

「沈黙は肯定とみなそうか。ということで、キスは日没までお預けだな」


 お預けといった一瞬、後ろ髪を引かれるような寂しそうな顔が垣間見えたのは使用人の自尊心のために見なかったことにしておこう。


朝餉あさげはいらないよ。君の恥ずかしい顔でおなかいっぱいだ。ごちそうさま」

「か、からかわないでください……お、怒りますよッ」

「ご不満は日没後に聞こうか。ほら、早く朝風呂に行っておいで」


 お日さまが昇っている間は侍女と騎士――という縛りを最大限に駆使されて文句のいえない侍女は、頬を膨らませた顔で寝室を後にしていった。

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