第12話 叡智の殿堂

 図書館の窓辺で二人は腰を下ろした。ソフィアが最初に手渡したのは神話の本だ。子供向けなので読みやすいだろうとお姫様は語った。


「俺の国では神話は歴史と不可分でよそ者に読ませようと考えもしませんでした」

「そのような国が他にあることは知っています。ですがこの国の話ではありません。叡智はわれら人類の普遍的価値――それがこの国の国是なのですから」


 よそ者の自分にためらいもなく神話を読ませようとするお姫様に戸惑いを覚えつつシャルルは本を開いた。挿絵とともに大きめの文字で書かれているし単語はこれまで学んできた範囲で読むことができた。

 初めて読むにもかかわらず、そこに現れる固有名詞には既視感というかどこか見覚えがあった。それゆえ神話の登場人物のありようが想像しやすかったといえる。彼の理解した内容は次のようなものだ。




 ――昔、月を治めていた女神セレーネは、その美貌を太陽神ヘリオスに見初められ、三度にわたる求婚を受けた。

 愛する民を残して国を離れることを不憫に思った月の女神は求婚を断り続けた。

 太陽神は太陽と月の間に大地テッラを作り、そこを新しい住処とすることを提案する。ついに三度目にして心動かされた女神は、求婚を受け入れた。

 そして、彼女を慕うしもべたちとともに大地に降り立ち、そこを新たなる月の王国レグナ・ルーナとして定めたのである――。




(神話がただの読み物でなく王国の正統性の拠り所となっているのか。なるほどな。神話の本を最初に渡した理由はそれか)


 そう理解したと同時に別の疑問が湧く。


(月の女神が降り立った新天地がルナティアなら、太陽神はどこ行ったんだ)


 神話の登場人物は二人。一人が月の女神セレーネ、もう一人が太陽神ヘリオスだ。そして「大地は月と太陽の間に作られた」とある。ルナティア王族が月の女神の子孫であるならば、太陽神の子孫もまた存在しなければこの神話が成り立たない。


「この神話に俺に読ませたのは、この王国の成り立ちに関わるものだからですか」

「その通りですわ。内容もそれほど難しくないですから」

「もう一つお聞きします。月の女神としもべたちが月から大地に降り立った地がこの国になったと神話に描かれています。では、太陽神はどこに行ったのでしょうか」

「太陽神もしもべを引き連れて大地に降りたのではないか――シャルルはいいところに気が付きましたね」


 嬉しそうな笑みを浮かべるお姫様は彼の問いに答えた。


「太陽神もバルティカという国を作りました。この大陸の大部分を版図に収めた巨大な帝国です。学術的に『古代バルティカ帝国』と呼ばれますが、俗に『古代帝国』と呼びます」

「そういえば、この国の言葉を理解できるよう俺に使った魔術とやらもずっと古代に編み出されたと耳にしましたが」

「その通りですわ。このルナティアが継承している高度な魔術や文献、数多くの遺跡などほとんどが古代帝国時代に作られたものでした」

 

 シャルルの中に古代帝国という超大国がおぼろげながら浮かんできた。

 街道、水道、堅固なコンクリート建築――それらはヨーロッパ文明に多大な影響をもたらした古代ローマを想起させるほど高度な水準だ。神話やそこに描かれる神々は古代ローマ、それ以前の古代ギリシアの神話で描かれたものに近い何かを感じた。

 古代帝国とはシャルルの感覚でいうローマ帝国に近く、その数多くの文明の残滓ざんしを現代に受け継いでいるルナティアとは古代ローマ、古代ギリシア以来の文明の火種を絶やさずに守り抜いてきた東ローマ帝国のようなものかもしれない。


「そろそろ正午ですね。一度ヘレナのもとに戻って正餐せいさんにいたしましょう」


 図書館で借りた本を両手で抱えて、シャルルは邸宅へ戻るお姫様を追った。正中の太陽の光が暖かく降り注いでいる。よく晴れた天気であった。


「ルナティアはとても平和な国ですよね」

「いきなりどうしたのですか、シャルル」

「俺がいた国と大違いだと思って。戦争の気配すらない穏やかところですから」

「平和な国――果たしてそうでしょうか」


 歩みを止めるソフィア。一歩後ろに続くシャルルもまた立ち止まった。お姫様は雲一つない天を仰いでつぶやいた。


「たしかに何百年以上この国――いいえ、この王都は戦禍から無縁でした」


 やはりとシャルルは思う。そうでなければあれだけの図書が無事に残っているとは考えにくいからだ。それだけにお姫様がこんなことを口にするとは思わなかった。


「しかし、この国はゆるやかに滅びへと向かっています。少なくともわたくしはそう考えています」


 振り返ったお姫様の碧眼が栗色の髪の騎士をじっと見つめた。思いもよらぬ言葉を聞いて絶句した彼に、お姫様はこんな問いを投げかけた。


「今朝シャルルが食べたもの、それは何でしたか」

「ライ麦パンと野菜のスープですが、それが何か」


 彼の答えにお姫様は一つ頷く。そんな答えが返ってくることなど初めからわかっていたかのように。風に金髪を靡かせたお姫様はこの市街を見下ろす大きな山体を指さして言った。


「火山の麓にある王都では小麦がとても貴重です。とても小麦だけのパンは作れないのでライ麦を混ぜています。地方に行けば燕麦エンバクを混ぜることもあるそうです」

「それは……ここでは穀物が育たないということでしょうか」


 大きな成層火山〝ルキア〟の山麓に存在する王都ルーナは、飲用にも適した自然の湧き水や温泉という恵みが得られる一方で小麦に向いた耕作地が無い。風が強く吹く土地柄で多くの種類の草木が根付かず育ちにくく、土壌も痩せているという。


「シャルルが食べたライ麦パンに入っている小麦は直轄領の土壌から得られません。王都の民のほとんどは小麦の少ないもっと黒くて酸っぱく硬いパンを食べています。そのライ麦でさえ自給に充分な量ではないのですが」

「つまり、食糧自給に問題を抱えていると」

「ええ、特に近年は飢饉が続いて一層苦しい状況ですわ」


 彼の故郷に比べて一回の食事の量が少ないと感じていたが、そのような社会情勢が背景にあったとは知らなかった。


「この王都には火山の恵みがあります。古代帝国から受け継いだ高度な文明の残滓ざんしもありますが、万事が解決するわけでありません。パンを作る小麦が得られないのですから。わたくしたちが口にする小麦の大部分は先日越えてきたあの高地よりも南側、テッサリアで栽培されたものです」

「テッサリアとは……関所から南側のことですか」

「ええ。シャルルの身柄を引き取った場所がテッサリア北西部にあたるアルデギア。それより南には大きな河と広い平野があって王国屈指の穀倉地帯になっています」


 シャルルは関所警護の厳重さを見て、関所の北と南で異なる勢力圏が存在していると予感していた。その関所の南側から穀物の多くを確保しているという。


「テッサリアは本来王国の食糧庫として無くてはならない土地ですが王政が弱まったこの百年であの尾根の向こう側まで統治が及ばなくなりました。各地の豪族が力を得た今では肥沃な土地をめぐって小競り合いが絶えません。そんな土地から高い小麦を買わないと王都のわたくしたちは立ち行かないのです」


 食うに事欠くことは軍隊運用に大きく支障をきたす。ゆえに兵站の確保、とりわけ安全な水と食糧の確保が何より肝要だ――そんな理解はシャルルにもあった。だが彼の国はもともと大陸有数の農業国だ。遠征先で兵糧の確保に難儀することは数あれど、国家として慢性的に食糧自給に窮することはほとんどなかった。


「穀物がたくさん得られた豊かな土地は天候不順と戦乱で荒れてゆきました。少なくなった収穫を補うため豪族たちは穀物に高い税率をかけています。重税にあえぐ農民の直訴が王都でも増えました。ゆるやかに、でも確実にこの国は滅びへ向かっている――わたくしがそう考える理由です」


 たった十七歳の乙女が国のゆく末をこれほどまで危惧していることに彼は驚いた。

 彼が十七歳の頃はどうだったか――盾持ちから騎士になったばかりで親父に仇なす敵や異教徒たちを戦場で蹴散らすことが全てだった。


「このままでは国が亡ぶかもしれない。ですが座視するつもりもありません。王都には魔術を結集して人工的に作った試験農園や温室、庭園などがあります。そこで様々な植物を育てています」

「ソフィア様と一緒に菜園でハーブを育てているとエレーヌに聞きました。それをハーブティーにしてもらって、俺もありがたくいただいています」

「まぁ……そうだったのですね」


 日に照らされてお姫様の表情が明るくなった。


「わたくしが個人的に知っている農務官も試験農園で植物栽培の研究を進めています。彼女たちと一緒にどうすれば現状を変えられるか、それを考えているんです。どうすればハーブ以外の穀物も育ててゆけるか、この国の未来を変えることができるかって……答えは未だに見つかりませんけど、いつか見つけてやります」


 ソフィアが植物を育てている王族で、王侯貴族の中では珍しい存在だとヘレナが口にしていた。ソフィアなりにこの国の行く末を憂いているからなのだ――シャルルはそう思い知らされた。


「おかえりなさいませ、王女様、シャルル様」


 邸宅に戻った二人を食事の準備を済ませたヘレナがにこやかに待っていた。


「これはまたたくさん本をお借りになりましたね」

「シャルル、本を応接室に置いてきて。先に食事にいたしましょう」

「エレーヌ、すまねぇがそこの戸を開けてもらえるかな」


 いくつも本を抱えて両手のふさがったシャルルに代わって、ヘレナが応接室の扉を開けてくれた。応接室の机の上に本を積んで食堂に向かった。

 手伝いに来た使用人たちが食卓に座ったソフィア王女とシャルルの給仕を務めた。彼女たちに一つひとつ的確な指示を下すヘレナはさながら家令のようだ。侍女だけでなく、いずれ家令として使用人を統率する立場になっていくのかもしれない。

 王女と彼の前に様々な料理が配膳されていた。新鮮な羊肉を香草で煮込んだもの、天然の温泉で茹でて殻が黒くなった卵、野菜のピクルスやスープだ。お姫様をお迎えするとあってやや豪華ではあるが、彼が許嫁と口にした貴族の正餐に比べるとやはり質素に感じる。

 王女が食事に手をつけるのをシャルルが待っていると、彼女はこう呼び掛けた。


「シャルル、これがこの国の貴族が取る食事です。もしかしたら、あなたの国よりも少なく感じるかもしれませんが、味は保証いたしますわ」

「いいえ、戦場で食べてきた食事よりずっと豪華です。ありがたくいただきます」


 実際に口に運んでみると質素な見た目以上にずっと美味しく感じた。蜂蜜に漬けた添え物があったり、限られた食材からできる限り美味を引き出している。お姫様と彼のためにヘレナたちがこの料理を仕込んだことを噛みしめつつ味わった。あまりにも美味しそうなその食べっぷりをじっと見つめていたヘレナが一言。


「シャルル様はよほどお腹が空いていたのですか」


 他にも何かお作りいたしましょうかと言いかけた彼女をシャルルは慌てて制する。


「いや、それには及ばない。とても美味しい料理をありがとう」


 ソフィア王女の手前、丁寧な言葉でヘレナをはじめ使用人たちに礼を言った。


 正餐の後、王女が好んで嗜むリンゴ酒をわけてもらいシャルルも一緒に飲んだ。

 お腹と心が満たされた王女様は日光が射し込んで小春日和のような暖かさに包まれた応接間で椅子に腰掛けたままお昼寝をしていた。


「王女様も朝から図書館でお疲れになったのでしょうね」


 正餐の後片付けを終えて王城へ帰るお手伝いの使用人たちを見送ったヘレナが膝掛けを持ってきた。王女の膝元へかけた後、シャルルにも差し出してくれる。


「シャルル様も少しお休みになりますか」

「そうする。書物を読み込んで頭が疲れたしな」

「疲れを緩和するお香でも焚いてみましょうか」

「ああ、頼む」


 ラベンダーの香りだろうか、ヘレナが焚くお香によって客人を迎えた応接間がたちまち休息の部屋へと一変した。ぽかぽかとした陽気の中でシャルルはまどろんだ。


 ――シャルル、起きなさい。


 最初、許嫁が会いに来てくれたのだと思っていた。心地よい夢の中で見る幼馴染にもっと甘えていたくて、まだ起きるものかと粘っていたところだ。


「シャルル、起きなさい……シャルル」


 眠いんだから起こさないでくれよ、と毛布をかぶる。その上から肩をゆすられた。


「いい加減にしなさいッ。シャルル!」

「あっ……ソフィア様」


 そこにいたのは幼馴染ではなく、一時間半ほどのお昼寝から先に目覚めたソフィア王女である。


「申し訳ございません。目が疲れたので休んでおりました」

「いいえ、わたくしもお腹がいっぱいになったところに甘いリンゴ酒を呑んで、眠くなってしまいましたから」


 軽い昼寝に加えてお香のおかげで緊張もほぐれている。うんと伸びをしたお姫様は応接間の真ん中にある机の上に積み重ねた本の中から一冊を取り出した。


「歴史の本を読みましょう。わたくしが読んで差し上げますから」


 その内容はきっと王女様の頭の中に入っている。パラパラと本をめくっては素早くページを見つけてあらすじを語るソフィアに、シャルルはただ驚くばかりだった。




 ――神話の時代に建国された古代ルナティアは、月の女神の血を引く女王によって代々継承された。一方、太陽神の血を引く男性の帝王はルナティアよりずっと広大な土地を征服し、そこを領土とする古代帝国を建国した。

 古代ルナティアは高度な文明を持っていた古代帝国と縁戚関係を結んで共存共栄を図った。王都ルーナに残る遺構はその一端である。

 千年沈まない太陽の帝国と謳われた繁栄、それは千年前に転機を迎えた。


 帝国の南北には未開の土地が広がっていた。そこには邪な蛮族たちがはびこって、帝国をたびたび脅かした。ある時、いくつもの勢力にわかれていた蛮族たちは一人の帝王のもとに征服王朝を打ち立てた。

 巨大な体躯を持った蛮族たちは国土を侵食し、蹂躙していった。山河は敗れ去った兵隊の血に染まり、なぶり殺された臣民たちの遺体で埋め尽くされた。恐怖に震え上がった者たちは蛮族の帝王を『魔王』と呼んで恐れおののいた。

 だが、侵略される帝国も黙って看過していたわけでない。体躯で劣る彼らは巨大な甲冑を作り、魔術で制御する仕組みを作り上げた。その甲冑を纏って戦う騎士たちは『資格者』ソードホルダーと呼ばれ、古代帝国最強の精鋭であった。


 十二人の『資格者』ソードホルダーの筆頭が資格者アルトリウスである。

 古代帝国の皇帝であった彼は『エールセルジー』と名付けられた人馬獣の姿をした巨大な甲冑を自在に操り、押し寄せる蛮族を幾度も返り討ちにした英雄だった。アルトリウスを筆頭とした十二人の資格者たちは蛮族の侵攻を度々食い止めてきた。

 遅々として進まない侵攻に業を煮やした魔王は十万の軍勢による親征を開始した。この戦争で資格者たちは一人、また一人とたおれていった。皇帝アルトリウスもまた、魔王と刺し違える壮絶な最期を遂げた。

 男系によって継承されてきた古代帝国は皇統断絶という破局的終末を迎えた。

 屋台骨を失った帝国は自然消滅的に解体され、高度な文明はすたれ、ルナティアの一部に残るものを除いて過去の遺跡と化してゆくのである――。




「ソフィア様。なぜルナティアは滅びることなく残っているのでしょうか」


 お姫様みずから教鞭をとった歴史の講義が一区切りして、シャルルはそんな質問を投げかけた。彼女の答えは明快であった。


「この王都の地理的な条件によると思います」


 お姫様は王国の版図を示した地図を見せてくれた。大陸を北西から南東に向かって分断する山脈がある。その西側に流れ下った大小いくつもの河が合わさった先に山岳と王城、そのまた先には海が描かれている。


「王都ルーナはルキア火山のふもとにありますが、この火山から西側にはこの大陸で最も広い湿原が広がっています。湿原を貫くように東の山脈から西の大海に向かってアルフェウス河が流れ、その南岸には東西に高地が延びて、ともに天然の要害として王都を守っています」


 たしかに彼がお姫様一行とともに越えてきた峠道や切通を思い起こすと、いわゆる隘路あいろ――狭くて険しい道となっており、大軍を動かすには困難な道のりに見えた。

 かりに険しい道を越えても王都の手前には水量が豊富で川幅の広い大河が流れる。ここを越えるのは容易ではなく、守りが堅牢な王都を攻め落とすには時間を要する。穀倉地帯から離れており兵站を維持し続けることも簡単ではない。それら地理的条件を考えると攻め落とすには割に合わない都市に思われた。

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