第三幕:世界の果ての何処か

第11話 目覚め

 あさを告げる小鳥の歌。草の葉に光るあしたの露。

 雨戸の隙間を伝い暗闇を切り裂いた明かり。広めの寝床の上に向かい合う二人の男女の姿が浮かび上がる。そのうち一人のごつごつとした背中がもぞもぞと動き出した。


「んっ……朝か……」


 ひさしぶりに多幸感に包まれた爽快な目覚め。

 昨夜は悪夢を見ることなくぐっすりと眠れた。

 夜更けまでここで汗をかいたが、ここ連日かいていた寝汗が今日はない。

 まだ眠っている彼女が側にいてくれたおかげだろう。微笑みがこぼれた。


「ありがとう、エレーヌ」


 起こさないようにそっと頬に口づけた……のだが――。


「おはようございます。シャルル様」

「わりぃ……起こしちまったな……」

「いえ、昨夜はよく眠れたので……大丈夫ですよ」


 目覚めた彼女が手を伸ばして、彼の手を握りしめてきた。それを握り返す。


「そうでした……お加減はいかがですか」

「心配ねぇよ。おかげで最高の目覚めさ」

「よかった。私もいつもより気持ちよい朝のように感じます」

「そいつはよかった……もう痛くねぇか」

「何か股に挟まっている変な感じですが、痛くはありません」


 寝床の寝具には彼女の初めての証が鉄の臭いとともに残っている。


「私は朝餉あさげの準備を始めますので先に身を清めてまいります。シャルル様はもう少しお休みになってくださいませ」

「うん、そうする」


 ふたりきりの甘い時間が終わった。彼女が寝室を去ってひとり残される。


「はぁ……」


 たったひとりになって物事を冷静に顧みるいとまが生まれた。薄暗い部屋の中で十字を切って祈りを捧げた。誰ひとり聞く者がいない罪を告白する。


(――しゅよ、私は不貞を働きました。婚約した女がありながら、他の女と姦通かんつうを行いました)


 相思相愛だった許嫁を憎い男に寝取られる夢を見ずに済んでほっとしたと同時に、一途に愛してきた許嫁とは別の女と情を通じてしまった後ろめたさが渦巻いていた。

 彼以外の男と結婚させられる羽目になった幼馴染は今頃どうしているだろう。彼が死んだと知らされたか、あるいはまだ生きていると固く信じているか。


(ごめん……カトリーヌ……ごめんよ……)


 告解こっかいを済ませた彼は毛布の中にうずくまり、今はどうしているかわからない幼馴染を想った。


 もう一度軽く寝て目覚めたシャルルはひとっ風呂を浴びた。

 昨日は一人で風呂に入って溺れたので身体を洗うだけにとどめた。身体にこびりついた体液を綺麗に洗い流し、さっぱりした頃合いに浴室を出る。

 真新しい肌着と綺麗に折りたたまれた衣服がさりげなく用意されている。犬のようにクンクンと鼻を寄せるといい匂いがした。それに着替えた彼は食堂に向かった。


「おはようございます、シャルル様」

「おはよう、エレーヌ」


 食堂で朝餉あさげの準備をしているヘレナと目が合った。緑色のエプロンドレスに身を包んだ彼女は、少しはにかんだ笑みを見せたほかは昨日までと変わらない身のこなしでテキパキと準備を済ませていく。


「ちょうど良いところにおいでになりましたね。パンとスープをお持ちいたします。どうぞおかけください」


 厨房から温かいスープとオーブンで焼いたパンを持って帰ってきた彼女が彼の前に配膳する。野菜の匂いがする美味しそうなスープに食欲が湧いてきた。


「どうぞお召し上がりください」

「エレーヌはいつ食べるの」

「私はシャルル様のあとでいただきます」


 使用人の服を着ているときは今までと変わらない振る舞いで、まったく隙が無い。身体を許したとしても自分の職務をげようという気はこれっぽっちもないようだ。


「美味しいパンだ。スープも美味しい」

「お口に合ったようで何よりです」

「戦場じゃこういう食事はなかったから、こんな食事が日常になって新鮮に思う」

「シャルル様はそれほど長いこと戦場にいらっしゃったのですね」

「うん、親父おやじが出兵したときはずっと一緒だったしな」

「おや……じ、とは?」


 首をかしげたヘレナにシャルルはハッと気づいた。


「女親のことをおふくろというように男親、要するに父のことをおやじというんだ。男がいない国では男を指す言葉もないんだな」

「なくはないのですが、古語であったり死語になっているものが多くございます」

「そっか……まぁそのなんだ、俺の親父も騎士だったんだ。自分の領地、領民、国、そして教会を守るために国を脅かす異教徒たちとずっと戦ってきた」

「そうでしたか。お父上様の跡を継がれたのですね……私もです」

「君のお母様も使用人だったのかい」

「私の母は女王陛下にお仕えする侍従でございました。今は侍従長を務めています。ですので私も物心ついた頃にはもう王族の方々にお仕えする使用人となるべく教育を受けていました」


 王国の貴族の中には様々な家門があり、その中の一つに彼女の出身であるトラキア伯爵家があるという。古くからの有職故実ゆうそくこじつに通じた家門であるトラキア家は、王室の藩屏はんぺいとして数多くの官僚や近習きんじゅうたる使用人を輩出してきただけでなく、他家からも養子を引き取って多くの上級使用人を育成する役割を担っているそうだ。


「今から十年前、十三の頃でした。ソフィア王女様の御側付おそばづきになるよう女王陛下より仰せつかりました。王女様は七つでいらっしゃいました。この国ではお世継ぎ以外の王女は王都を離れて育てられるしきたりがございます。陛下は六つ年上の私を選んでこうおっしゃいました――どうかソフィア王女のよき友となってほしい、と」

「そうか……」

「それからずっと離れることなくソフィア王女様にお仕えしてまいりました。王太子ベアトリクス王女殿下のお身体が優れなくなってから、ソフィア王女様は王太子の公務の一部を代行するために王都へ戻られました。今となっては王室――否、王国を支える大事な方でいらっしゃいます。そのお方をお守りする立場を私は拝領しています」


 穏やかな言葉のなかに秘めた誇りと決意の堅固たるや実に頼もしい――傍から見るシャルルでさえそう感じるのだ。お姫様はいっそう頼りにしているに違いない。


「ゆくゆくは他国の王室と婚礼をあげて国を離れることがあるかもしれません。私はその日がくるまで……あるいはその先もお仕えするつもりです」

「仕え始めて十年か……俺も近衛騎士団の盾持ちから数えて十年経った。主を喪って落ちぶれちまったけどな」

「……」

「ありがとう、エレーヌ。おかげで心が満たされたよ」


 食事を済ませた彼が使用人に礼を言うと、彼女は食卓の上で片づけを始めた。水の流れるような無駄のない作業だ。それをじっと見つめている彼の視線に気づいていないように彼女は振る舞っている。

 昨夜の彼女はあの衣装の下に隠されていたもう一人の彼女だったのかもしれない。


 ***


 朝餉を終えてから一時間もしない間に小さな邸宅をお姫様が訪ねてきた。


「おはようございます、王女様」

「ごきげんよう、ヘレナ。何か変わりありませんか」

「はい、おかげさまで何の問題もございません」

「そう、よかった。シャルルはいますか」

「はい、ご在宅です。何かお飲み物をお召しになりますか」

「ありがとう、リンゴ酒をいただけるかしら」

「かしこまりました、ご用意してまいります」


 厨房に向かった銀髪の侍女と入れ替わりにこの邸宅の主となった栗色の髪の騎士が応接室に現れた。ヘレナが選んでくれた服装はよそ行きにも使える物だった。


「ごきげんよう、シャルル。最近は精力的に本を読んで疲れがたまっていたようですけれど、今日は顔色が良いみたいですわね。よく眠れましたか」

「はい、エレーヌ――失礼、侍女殿がお香を焚いてくれたおかげで、昨夜はぐっすり眠れました」

「それは良かったですわ。今日は図書館に行きたかったのであまり疲れを持ち越してほしくなかったのです」

「王女様、シャルル様、リンゴ酒をご用意いたしました」


 いつもの落ち着いた物腰でヘレナが陶器のカップを二つ用意する。そこに黄金色に泡立つ酒が瓶から注がれた。その様を何気なく眺めていたシャルルをじっとお姫様が観察している。彼がその視線に気づいた瞬間、彼女は口を開いた。


「あなたたち、名前で呼び合うくらい仲良くなったのですね」


 ジト目をしたお姫様が思ったことを素直に口にする。


(――鋭いな)


 ヘレナは表向き平然としている。シャルルが取り乱すわけにはいかないので、彼も平然とやり過ごした。


「何をおっしゃいます。お姫様が俺におっしゃったのと同じじゃありませんか。騎士様と呼ばれるのは堅苦しい。なので『シャルル』と呼んでもらうように頼んで、俺も『エレーヌ』と呼ぶように改めました」

「あら、そうだったのですね。なぜ『ヘレナ』と呼ばないのですか」

「シャルル様には私の名前が発音しづらいそうです。古代帝国の高位魔術を以ってもこれはどうともしがたいのでしょう」

「なるほど。確かにシャルルの発音はどこかなまって聞こえるところがあるというか、特徴があってその点も興味深いですわね……ところでシャルルの傷の具合はいかがですか」

「おかげさまで少しずつ癒えてきたように思います。王都の温泉が俺の身体に合っているようです」

「それはよかったですわ。湯治を目的においでになる方もいるくらいですから、何か良い効能があればと思っていたのです。ふふふっ」


 ヘレナが絶妙な合いの手を入れてくれたおかげで、一夜をともにした彼らふたりの間に何があったか、そこからお姫様の関心を上手に逸らすことができたようだ。

 ご機嫌なお姫様に相槌を打ちつつ、この世界でたったひとりになってしまった自分が見つけた大切な拠り所エレーヌを守っていこう――シャルルはそう考えていた。


 その後、ヘレナに留守を託してシャルルはソフィアとともに王立図書館を訪れた。石材だけではなくコンクリートを組み合わせた構造はさながら古代ローマの遺構を思わせるような堅牢な作りとなっている。それが現実に運用されているこの国の技術的水準に彼は圧倒されていた。


「どうかしましたか、シャルル」

「こんな大きな図書館を生まれて初めて目にしたので驚いてしまいました」


 プトレマイオス朝エジプト時代から古代ローマ時代までのアレクサンドリアに大図書館が存在したという話を聞いたことがある。それに匹敵する規模かもしれない。

 館内が比較的明るく、書籍が自由に手に取ることができることに違和感を覚えた。図書館というものはもっと暗くて陰湿な閉鎖空間だと思っていた。書籍が盗難に遭わないようにすべて鎖に繋いであるのが彼の世界の常識であったからだ。


「ここは古代帝国から継承した貴重な文献が数多く収蔵されています。館内では火気厳禁なので、開架かいかでは明かり窓から外の明かりを取り込む構造になっています。それでも足りないときは――」


 お姫様はランタンを手にして詠唱して、温かみのある光源を作り出した。


「こうして自身の魔力オドを使って明かりを取るのですよ」

「ソフィア様もそれが使えるのですね。俺もランタンランテーンをお借りして書を読もうとしましたが、なぜか俺が手にすると明かりが消えてしまうんです」


 そのように彼が打ち明けると、お姫様は首をかしげてこう言った。


「このランタンランテルナは手にした者の魔力オドを明かりに変換するもの。術式は器具に刻まれていますから特別な技量を必要としないはず……そのはずですが、シャルルにはこれが使えない……何らかの理由で魔力オドをうまく制御できないのでしょうか」

魔力オドを制御するという感覚が俺にはよくわからないんです」

「この国というよりこの大陸の者なら息を吸うように身についている感覚ですけど、それを聞く限りシャルルはこの大陸の外からこの国に来たのでしょうね」


 そうでなくては、この大陸で絶滅したといわれる人類の男性がここに存在する説明がつきませんものね――。

 そう言いつつ、お姫様はすでに何冊かの本を抱えていた。


「シャルル、これを持っていただけますか」

「あ、はい」


 本棚から抜き取った本を受け取って本当に持っていってよいのだろうかと戸惑いを隠しつつ、お姫様が別の本を探しやすいようにする。


「さて、必要な本は一通りそろったかしら……シャルル、これを借りましょう」

「借りる……とは」

「図書館から持ち出しできるように申請するのです。そうすればいつでも読めるではありませんか」

「図書館から本を持ち出すなんて正気ですか。そんなこと考えたことがありませんでした。盗まれでもしたらどうするのです」


 どこか話が噛み合わない。あまりにも文化が違いすぎて、頭が痛くなってくる。


「この王立図書館は写本を確保する代わりに、原本を閉架へいかで厳重に管理しています。原本はよほどの理由と保証金がなければ持ち出しできませんわ。これらはすべて写本ですから、手続きさえ取れば持ち出して読めるのです」


 ソフィアが選んだ本は神話、歴史、地理といった一般的教養の入門書にあたるもので割と広く知られた文献の写本であるらしい。


「王女様がお借りになるのでしたらまったく問題ございません。王女様は本を大切に読まれる方ですから」


 申請を受け付けた司書たちに聞いたところ、ソフィア王女は図書館の常連といってよいほど訪れてはよく本を借りるのだそうだ。鎖でつながれた書籍を暗い本棚の目の前で読むのが普通だったシャルルとは生きている世界が違っていた。


「こちらは旅の方ですか。人類種の男性とは……これはたいへん珍しいものを拝見いたしました」

「そうでしょう。シャルルにこの国のこと、この世界のことをたくさん教えてあげるのです。ふふふっ!」


 その代わり、シャルルの国や世界のこともたくさん教えてもらいますわよ――。

 にこやかに微笑んだソフィアに振り回される彼は、ただ愛想笑いで切り抜けるしか反応できなかった。

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