第10話 口づけ

 使用人たちが帰り、銀髪の侍女ヘレナがひとり残った。納戸から汚れのない綺麗な湯浴み着を取り出し、身に着けていた服と下着を脱いで折りたたんだ。

 一糸まとわぬ姿になったヘレナはフリルのついた無地の湯着を着用する。胸がやや大きめの彼女の体形にも合っており、窮屈な感じもしない。

 先に入浴に向かった栗色の髪の騎士はまだ戻っていない。給仕を務めて彼の疲れが見て取れた。慣れぬ習俗に囲まれ慣れぬ言語を一心不乱に学んでいるのだから無理もない。後片付けの間もずっと気にかかっていた。


(明日は王女様が図書館を案内したいと仰せになっているから、なるべく疲れを取り除いて差し上げよう)


 純白の衣一枚に身を包んだヘレナは浴場の入り口で扉越しに彼に声をかける。


「騎士様、お湯加減はいかがですか」


 返事がない。もう一度繰り返しても同じだ。


「騎士様、失礼いたします」


 扉を開けて中を見渡す。

 湯気が漂うだけで人影はない――濡れた浴槽のふちが目に入る。

 紫色の瞳を見開き、浴場に踏み込んだ。


「騎士様ッ!」


 無我夢中で浴槽の中に飛び込んだ。

 浅く広い浴槽の底に沈んだ栗色の髪の騎士の身体を水面に持ち上げた。

 意識はなく、呼吸も止まっている。


「水を飲んでいるんだわ。早く吐き出させないと」


 ヘレナは仰向けに身体を浮かせた彼の下あごを持ち上げるようにして気道を確保すると、そのまま彼の唇を覆うようにみずからの唇を重ねた。彼の鼻をつまんで空気が漏れないようにして、みずからの呼気を送り込む。彼の分厚い胸が膨らんで、呼気が肺に届いていることを確かめつつ、何度も繰り返した。


(わが身に宿る水の魔力オドよ――この者の肺にある水をわが口内にある呼気と置き換えたまえっ)


 心でそのように詠唱しながら繰り返し息を吹き込むのを繰り返すうちに彼の身体が苦しそうに動いて水を吐き出してきた。


「ゴホ……ゲホッ、ゲホッ……ッ!」


 顔を横向きにして水を吐かせることができた。まだ呼吸は戻っていない。ヘレナは彼の身体を浴槽から引き上げた後も、口から呼気を送り込んでは肋骨の上から心臓を圧迫する蘇生術を交互に続けた。それを何回か繰り返すうち彼はみずから呼吸をするまでに回復した。


「よかった……これでどうにか……」


 呼吸は戻ったが体温が高い。のぼせている可能性があるかもしれない。

 ヘレナは彼から離れると風呂桶に水道から引いた冷水を貯めて、身体を洗うために用意した布を浸らせた。それを持って彼の元に戻った彼女は床に横たわった彼の首の下に、みずからの太ももを差し込んで枕とした。冷水で冷やした布を彼の頭に乗せて身体を冷ます。


「騎士様、大丈夫ですか。騎士様ッ!」


 いまだ意識が戻らない彼にヘレナは何度も呼び掛けた。


 ***


 懐かしい面影が浮かぶ。

 ふっくらとした頬に赤みが差した若い娘だ。

 栗色の髪を生やした美しい顔立ちの女性が悲愴な顔をしている。


(誰かに似ている……これはおふくろか)


 ――ダイジョウブ。


 そんな呼びかけが耳に届く。絶対に助ける。そう言ってくれるように。


(どうしてそんな泣きそうな顔をしているんだ)


 俺は死なねぇさ。

 どんなに身体が傷ついてもしぶとく生き残ってきたんだぜ。


 そう軽口を叩こうとしても言葉が出ない。

 これは夢でも見ているのか。生き別れになった母親の夢を。


(たまにはこんな夢を見るのも悪くねぇか……)


 頬に笑みを浮かべたまま目をつぶった。また声が聞こえてくる。


 ――大丈夫ですか。


 そんな呼びかけが聞こえた。白い何かがぼんやりと視界に映っている。


 ――騎士様っ!


 違う、おふくろじゃない。この声は――。


「騎士様っ!」


 切羽詰まった顔をした銀髪の侍女、ヘレナ・トラキアの悲愴な声だ。

 呼び掛けに目を見開く。眼前には揺らめく紫色の瞳が二つ。

 なぜそんな手が届きそうなところにいる。頬に触れそうなくらい近くに。

 手を伸ばした先でほんのり赤らめた白き頬に触った。頬を撫でる彼の手を愛おしく包み込む様はまるで夢で見た母親に巡り合ったのかと思われてならない。


「どうした、お嬢さん……泣いてるのか……」

「あぁ、よかった……意識が戻って、本当に……よかった……」


 安堵に緊張が緩んだ頬に白いしずくがこぼれ落ちていく。人魚がこぼすと伝わる、真珠のような涙――そんな美しいものを目の当たりにしたような気分だ。


「お嬢さん……俺は、いったい……」

「湯につかったまま溺れていらっしゃいました。危ないところでした」

「そうだった。意識が急に……飛んじまってた……」


 風呂で溺れて死にかけたところを彼女に助けてもらったと気付いた。一つ間違えばここで死んでいたのだ。実に面目ない。


「お嬢さんには二度助けてもらったが、まさか三度目があるなんてな」

「本当です。大変肝をつぶしたんですから」


 少し目を吊り上げて怒ったような表情が垣間見えた。


「本当にすまねぇ……これじゃ騎士の面目が丸つぶれだ」

「それはもういいので……じっとしていてくださいまし」


 起き上がろうとした彼を制して彼女が言う。

 彼女は手元に置いた桶に布切れを浸して、彼の額に当ててくれた。


「もう少し、このままでいてください。体温を下げなくてはなりませんから」


 ひんやりとした感触に気持ちが落ち着いてきて、ようやく状況が呑み込めてきた。シャルルは今、ヘレナに膝枕をしてもらっているのだ。


「うん、わかった……わかったけど、なんで……膝枕……を?」

「のぼせたときは頭を上に足を下にして、頭を冷やすのがよいそうです。体温が高く感じたので、頭を冷やしながら様子を伺っていました」

「そ、そうか……」


 少し怒っていた口調が穏やかになったがどこかそわそわしているようにも感じる。その理由を尋ねると彼女は目を逸らした。


「溺れていらっしゃったので、あわてて引っ張り出して……そ、蘇生術を」

「あっ……」


 蘇生術を、と口にした瞬間にヘレナが頬を染めたのがわかった。年頃の男女が唇でキスをした――そんな彼女と目が合って、彼は居たたまれない気持ちになる。


「ほんっとすまねぇ……迷惑かけちまって」

「迷惑だなんて私、思っていませんから。むしろ、私の方が申し訳ない気持ちです。事故とはいえ、騎士様と……その、口づけを……」


 かっと頬を真っ赤にしている彼女は、とても可憐に思われた。冷静で教養もあり、実に頼りがいのある銀髪の侍女――そんな彼女の新たな一面を目にしてときめいた。真っ赤になった頬を撫でまわして彼は言葉をかけた。


「かりにも口づけをした女性に『騎士様』って他人行儀に呼ばれるのは寂しいな……シャルルって呼んでもらえねぇか」

「……かしこまりました、シャルル様。私のこともヘレナとお呼びください」

「そうか、ありがとう……エレナ……ん、口にしづらいな」


 ヘレナがきょとんとした顔で見下ろしている。


「どうも君の名前には俺が発音しにくい子音があるらしい。『エレーヌ』と呼んでもかまわないだろうか」

「あっ……シャルル様の母語に合わせた呼び名なのですね。かまいませんよ」

「ありがとう、エレーヌ」


 微笑んだ彼女の頬を撫でてやると嬉しさと恥ずかしさが混ざった顔が垣間見える。それはきっと王女にも見せたことのない表情かもしれない。


(それにしても……本当にいいカラダしてるな)


 ドレスを脱いだヘレナをひとりの女性として認識するようになっていたシャルルはこの女性の恵まれた体格を初めて意識した。

 湯浴み着に隠された、しかし形の良さがわかる乳房は大きさと弾力を兼ね備え、彼の頭を抱えている足腰はしなやかでやわらかい。お尻も大きめで子を産みやすそうな体つきをしている。

 それらをひと口でいうと――とても魅力的な女性に映った。


「それにしても興味深いものですね」

「何がだい」

「男性の身体的特徴でございます」

「……どういう意味だ」


 彼女の視線が捉える一点に意識が集中し、彼も思わず赤面した。


「そっかぁ……俺、素っ裸だった……ホント面目ねぇや」


 生まれたままの姿を見られて気恥ずかしさを覚えなくもないが、今さら隠しても手遅れだ。だから開き直ることにする。


「エレーヌはコイツが気になるのか」

「え……ええ、私たち女性の身体にはないものですから」

「そっか。男が女のおっぱいに憧れるようなもんか」

「そうなのでしょうか……ただ、生殖に用いる魔術器具に似ていると思いまして」

「ひょっとしてこの国じゃ子ども作るのも魔術使うのか?」

「はい。性器と性器を結び付けてマナを交換する目的で使用いたします」


 女同士で交わるのか。許しがたい異端の所業だな――と思ったのもつかの間。


(おい、ちょっと待て……この国ではむしろ俺の方が異端なんじゃねぇかッ!?)


 頭が痛くなってくる。

 頭を抱えるしぐさをすると不意にヘレナが抱きしめてきた。


「大丈夫ですか、シャルル様」

「あ、ああ……俺の知ってる常識と違いすぎて、ちょっと頭痛がしただけさ」

「そうでしたか……よかった」


 やわらかい膨らみと甘い囁き――ついにドクンと逸物へ血が流れ込んだ。

 ヘレナの身体がビクンと波打った。彼の身体に起こった変化に気付いたらしい。


「シャルル様のこれは……生殖器、でしょうか。すごく固くなっていますが」

「ああ、そうさ。どうしてこうなったかわかるか」

「いえ……わかりかねます」

「一言でいうとエレーヌのせいだ」

「ええっ!? 私が何をしたというんです」

「エレーヌが魅力的だって気づいちまったんだ。オスの本能ってヤツさ。メスはらませたいってたかぶっちまう」


 真顔で言うと彼女の白い素肌は茹蛸のように真っ赤になってしまった。


「こ、困りますっ……いくら何でも、嫁に行き遅れた使用人にそんなお世辞を言わずともよろしいでしょうに」

「お世辞じゃない。コイツは自分の意思でどうにもならねぇ厄介なモンなんだ」

「要するに嘘がつけない……ということでしょうか」

「まぁ、そういうこった」


 包み隠さず言い放つと、ヘレナは興味津々といった表情になった。物好きな王女の侍女だけあって、それに見合う知的好奇心を持ち合わせているらしい。


「つまり、シャルル様は今……私に魅了されている、ということなんですか」


 軽くうなずく。すると戸惑い気味に嬉しそうな笑みをこぼしてくれた。


「私も……シャルル様に魔術をかけられた気持ちです」

「どんな魔術だい」


 そう問いかけると、彼女は頬を赤くして答えた。


「魅惑の……魔術です。心を……奪われてしまうような」


 彼女の手を握りしめると彼女も握り返してくれる。とても安らかな気持ちだった。

 このまま心地よい気分に浸っていたい。手を握ったまま、彼はヘレナにある提案を打ち明けた。


「エレーヌ、さっきの出来事なんだけどソフィア様には内緒にしておきたい」

「え、ですが」

「俺がおぼれて死にかけたと聞けば、もしかしたらソフィア様は君を責めるかもしれない。それはあまりに不憫だ。俺としても騎士の面目に関わる」


 王女が信頼する侍女だとわかっているからこそ今日のような出来事は知らせずにおいたほうがよい、という考えを伝えるとヘレナも理解を示した。


「……かしこまりました。秘密にしておきます」

「ありがとう。今から起きる出来事も……二人だけの秘密にしておこう」

「……!?」


 そう言って、彼はヘレナの唇に軽く口づけをした。ビクンと彼女のやわらかい身体にさざ波が立ったのがわかった。


「嫌だったか」

「え……何が」

「エレーヌにさんざんキスされたのに、俺からは一回もなかったんだぜ」

「で、ですから……それは、不可抗力ではございませんかッ」

「うん、でもこれからは違う。俺の意思が入ってる」


 もう一度軽く口づけをする。赤面する彼女だが、逃げようとしなかった。


「……嫌じゃ……ないですね」

「ホントか」

「ええ。よくわからないんですけど……胸が、こう……ドキドキします」

「そっか……念のため聞いておくけど、続きはどうする」

「続きって……」

「魅力的な牝に心を鷲づかみにされた牡が何もしねぇわけねぇだろ」


 その言葉に紫色のつぶらな瞳が揺れる。かすかな不安もなくはないが、それ以上に彼女の頬を赤くさせ、胸を高鳴らせる何かがある。彼の目にはそう映った。


「シャルル様がお望みなら……いかようにでも」


 淑やかな返事にもう一度キスをする。甘えるようなしぐさで彼女も応えてくれる。小鳥がついばむようなキスを繰り返すたび色めき移り変わる表情に酔いしれていく。


「困りました……こういう時、どういう顔をすればよいんでしょうか」

「笑えばいいさ」


 それからシャルルが立てるようになるまで彼女は付き添ってくれた。

 二人は彼のために寝具を整えた寝床へと向かい、初めての夜を過ごした。

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