第9話 七歳児の歩み
ルナティアという見知らぬ国での滞在が始まって十日ほどが過ぎ去っていった。
言語習得という地味だが根気を要する作業に脇目もふらず取り組んだ結果、栗色の髪の騎士シャルルは基礎的な文法や日常でありふれた単語を文字で読み書きする能力を身に付けた。この国の七歳児程度の識字能力という。
そんな彼に重要な手助けをしてくれた銀髪の侍女ヘレナが新しい本を持ってきた。とても分厚くてずっしりとした書籍を受け取って思わず青くなったシャルルに彼女は微笑んで言った。
「これは辞書でございます」
「辞書か……なるほどな!」
文字と基本的な単語の綴り、そしていくつかの文法をシャルルは学んだ。それらは彼がよく知る地中海沿岸の諸言語と類似した特徴を備えていると気付いた。それからは知らない単語が何を意味しているか類推する力がめきめきとつき始めていた。
そうヘレナに打ち明けた次の日にこの辞書をもらった。
「それは騎士様のものでございます。自由に書き込みを入れてかまいませんので」
「助かる。早速使わせてもらうよ」
辞書の使い方をヘレナから軽く教わってこれまでに学んだ単語を索引から探し出し注釈を書き込んでいく。この国の文字で書き表された単語の横に故郷の言葉の表記を書き足すことで彼だけの辞書になるのだ。
「これは……騎士様の国の文字でしょうか」
「ああ、
「ふらんせ……初めて耳にする言語ですね」
まったく耳にした覚えがないと彼女はいう。入浴をともにする「裸の付き合い」のせいか、この国で最も親しく会話する一人となっていたヘレナは教養の広い女性だと感じていた。理解する言語も数か国語に及んでいるらしい。その彼女ですらこれまで聞いたことがないという。
(やっぱりこのルナティアという国はフランス、いやヨーロッパから遠く離れているんだろうな)
その割には古代ローマ帝国を想起させるような整備された水道、舗装された道路、文字や書籍、紙や鉛筆といった高度な文明を持っている。それだけでなく優れた官僚機構を備えており、重要な取り決めは文書で管理されているという。少なくともこの王都に住まう者たちは文字の読み書きができ、王都の決められた場所に張り出される掲示の内容をそのほとんどが理解している様子だった。
(こんな立派な国があったら、あの物好きな親父が知らねぇはずねぇんだけどな)
ヨーロッパ中を巡った親父からエジプト、ギリシア、マケドニア、ローマ、カルタゴといった歴史上の大国の話は言うまでもなく、アレクサンドロス大王ですら行ったことがないペルシアの先の国について聞いたことがあった。
ペルシアよりはるか先の東方には絹の国と呼ばれる国があり、そのまた先の世界の端にはなんと黄金の国があるらしい。
しかし、このルナティアの話を聞いたことは一回もない。それほど遠い国なのか。
(どうやってそんな遠い遠い国に来たんだ、俺は……ホント考えれば考えるほどわっかんねぇな)
だいたいこれ以上考えても
(そういや身体動かさなくなっちまってるな……ずっと家に閉じこもってばかりじゃあいい加減身体がなまっちまう)
剣の鍛錬がしたい。それが彼の日常だったからだ。あまりにも日常が変わりすぎたせいで、ずっと欠かさずにやってきた剣の鍛錬を忘れていた。
「お嬢さん、ちょっといいか」
「はい、なんでございましょう」
洗濯物を取り込んで階段を降りてきた銀髪の侍女を呼び止めた。彼女は近くの使用人に声をかけて洗濯物を代わりにたたむように指示すると彼のもとにやってくる。
「
「木剣ですか。何にお使いになるのです」
「剣の鍛錬がしたい。ずっと勉強してると集中力が切れるから」
彼が近衛騎士として王を守る立場であったことは彼女もたびたび耳にしている。
「かしこまりました。剣のことはあまり詳しくないので、詳しいお方にお引き合わせしたいと思いますがいかがでしょうか」
「うん、かまわないよ。それで頼む」
「早くても明日以降になると思いますが、先方のご都合もありますので少しお時間をください。お疲れのようですからお茶を淹れてまいりますね」
そう答えると彼女は一礼して部屋を出ていった。すぐにハーブティーを瓶に入れて戻ってくるだろう。そう思った彼は勉強の手を止めて日の当たる庭に出た。
(はぁ、本当に疲れたな……)
読み書きを覚えることが当面の目標である。だが、それはこの国のことを知る過程に過ぎない。それさえも彼の遠大すぎる旅路の
(こんなところで腐ってくわけにはいかねぇ……)
この国が世界のどこにあるのか。それがわかれば故郷への帰り道がわかるかもしれない。
天に瞬く星座が今はわからなくても、荒海を征く航路が今はわからなくても、荒野を貫いてゆく道が今はわからなくても――。
それら全部がわかれば、どんなに遠くても故郷に帰れるはず――そう信じていた。
(いつか故郷に還ってやるッ)
拠り所とした信仰も、それを確認する教会も聖典すらない異国の天地。そんな見知らぬ国――ルナティアで生き延びるために彼が
(俺をこんな境遇に落とした連中に復讐してやるんだッ!)
拠り所を他に求める必要のない
それは恐るべき集中力を
辞書を手にしてから鉛筆の消費量が増えた。部屋の片隅に鉛筆の削りかすとともに削り取った黒い芯がたまっていった。それを掃除させられる使用人たちが栗色の髪を生やした異邦人をまるで狂人のようだと陰で
(つまらねぇ連中の陰口なんか気にしねぇ、今に見てろよッ!)
そう割り切って黙々とシャルルは書写に励んでいた。
辞書の上に黒い鉛筆の書き込みが日ごとに加わっていく。それに合わせて児童書がらくらく読めるほど語彙も増えていった。
***
滞在開始から二週間が経った。最初に与えられた教材をほぼ理解したシャルルのもとに真新しい教材が届いた。新しい教材を読解しようと格闘していたところ、頭痛を覚えた。
「ちっくしょう……根詰めすぎたな。休憩にするかぁ」
邸宅の中で日の当たる時間が一番長い応接室。
そこに何冊も教材を持ち込んだ彼は手にした本を閉じて背を伸ばす。庭に置かれた日時計のようなオブジェから伸びる影は午後三時くらいを指していた。
「騎士様、どうぞお茶をお飲みになってください」
「ありがとう、お嬢さん」
彼のもとに銀髪の侍女がハーブティーを入れて持ってきてくれた。その香りを
「お嬢さんが淹れてくれるハーブティーはいつも
「全部私の菜園で育てているものです」
「菜園か、へぇ……」
「王都には農務官が管理する菜園がございまして、その一角に王女様と私が栽培しているハーブやその他の植物を置かせていただいています」
「へぇ、姫様もハーブを育てているのかい」
「はい。食に関する研究の一環で育てておいでです。王侯貴族の中では珍しいと言われますが」
「……そうなのか」
「王都で家庭菜園を持つ者、あるいは庭に桑の木を植えて養蚕に励む者は決して少なくありません。ですが、所領を他に持っている貴族は王都で作物を作る必要がございませんので」
この王都では牛や豚といった家畜をほとんど目にしなかった。道端で糞尿を垂れ流す様子を見かけないが、それらに代わる生業がこの王都にはあるようだ。
「俺が王都に来て一番驚いたのは何だと思う、お嬢さん」
「え……さぁ、なんでしょうか」
「今まで俺が見てきたどんな都市よりも、この王都が高度に整備された道路と水道を持っていることさ。俺が目にしてきた街はみんな道を家畜が普通に
「そうでしたか。その違いはこの王都の成り立ちによるのかもしれません」
「……お代わりをいただけるかな」
銀髪の侍女にハーブティーのおかわりを入れてもらいつつ続きを聞いた。
「この一帯は川沿いに湿地が広がっています。その一角を人為的に土地改良したのが王都だったそうです。湿原を改良して水はけをよくするために上下水道が整備され、道路は地盤が沈み込まないよう踏み固めた上に石で舗装されたと聞きます」
「どうしてそこまでしてここに都を作ったんだろうな」
「マナが集まる場所を探したからではないでしょうか」
どんな人間でも、生き物でも、
前に彼女がそう言ったのを思い出しつつ、彼女の言葉を聞いていた。
「王都の南に流れるアルフェウス河は女王陛下が治める土地を東西に貫く第一の河。そして王都の北に
「そのうちこの国の地理や歴史も学ばなきゃいけねぇな」
「そういえば、王女様がそのうち図書館に騎士様を案内したいとおっしゃいました。王女様も楽しみになさっているようです」
「身が引き締まるな。もっと頑張らねぇと! 美味いお茶をありがとう」
気合を入れなおしたシャルルは引き続き新しい本を読み進めていった。日が暮れた頃合いに
しかし、頭痛は癒えるどころかいっそう顕著になっていった。頭がもう文字を受け付けないほど疲れている。
(どうしたんだ……疲れが抜けないくらい疲れすぎたのか? 今日は早く休んだ方がよさそうだ)
そのまま横になってもよかったが身体はもはや習慣化した入浴を求めている。
いつもは銀髪の侍女の食事と後片付けが終わるのを待って彼女に背中や頭を洗ってもらうのだが、今日は彼女に一声かけてから一人で浴室に向かった。
「あぁ……いい湯加減だ……」
最初は湯に浸かると痛んでいた傷口も、今は慣れてきたのか痛まなくなっていた。動かさずに凝り固まっていた身体がほぐされるように感じた。
広々とした湯船に全身をゆっくりと伸ばして身体の芯から温まるような心地よさに身をゆだね、一人ぼっちの時間を手に入れた彼は思索を始めた。
(俺はどこからどうやってこのルナティアへ来たんだ)
どうやって来たのかわからない、ということはどうやったら戻れるのかわからないということだ。それでは困る。だからこの国が世界のどこにあるのか調べ、帰り道を知りたい――彼が必死に文字の読み書きに励んでいるのはそのためだ。
(最初は死んでヴァルハラとやらにやってきたのかと思ったがそうでもなさそうだ。スカンディナヴィアのおとぎ話で耳にしたヴァルハラとは似ても似つかないしな)
見知らぬ地で凍え死んでいたかもしれなかった。
そこで救ってくれたのが幼馴染とよく似た面影を持った金髪碧眼のお姫様だった。九死に一生を得てから約二週間の間、彼の常識をことごとく覆す出来事が続いたが、それらを整理する心身のゆとりがようやく生まれつつある。
住居を貸与され、毎日の食事を与えられ、先日は採寸をもとに体格に合った新しい衣服と肌着を拝領した。衣服は
かといってこの国が豊かな国であるかというと必ずしもそうではない。かつて自分が生きていた故郷のほうが食糧は豊かであったように思う。
『図書館や博物館などへの出入りを認めます。そこで己がどこを目指すのか見出すがよいでしょう』
女王が投げかけた言葉をふいに思い出す。
(女王はどうして俺を王都に滞在させたんだ。おかげで衣食住は不自由ないが、彼女らから見てそれほどの待遇で迎える価値が俺にあるとは思えねぇんだが)
女しか生きていない国で男という存在が極めて珍しいのは理解できなくもない。だが少なくとも八百年間にわたって男を必要とせずに子孫を残してきた点が、ギリシア神話に描かれた女性だけの部族『アマゾーン』との最大の違いと言える。アマゾーンは子をなすために男と交わることを必要としたが、この国の女たちは別段そうではないのだ。
もう一つあり得る可能性は「人間動物園」だ。権力の象徴として王が所有する動物園では珍しい動物を飼うことがある。それこそ地中海の反対側に生息するライオンなどの生き物をだ。異邦から現れた男という生き物を見世物にする、それは十分にあり得る――と思って首をかしげた。
(いや、待てよ……仮にそうとしてなんで文字や言葉を教えて教養を身につけさせようとすんだよ。生かすだけなら飯と水さえ与えときゃいいのに、どう考えてもあり得ねぇだろ)
たかが見世物の猿にそこまでの時間と手間をかける意味が思い浮かばない。どうしてこの異邦人の世話をしなければならないのか。それなりに貴重な紙をへったくそな字の練習に使うのがもったいなくないか――そんな愚痴をこぼす使用人がいるのを知っている。決して愉快ではないが、彼女たちがそう考えるのは自然だ。どうしてこんなに恵まれた待遇を受けているのか彼にはわからないし、かえって不自然にすら感じる。
(ますますわっかんねぇ……女王も、姫様も、どうして俺にこんな待遇を続けるんだ)
とはいえ、学び考える時間が与えられたのは故郷に還ると誓った身には願ったり叶ったりである。とりあえず今はその厚意に甘えるほかない。
(今日はゆっくり眠ろう。きっと、明日はまた……疲れる出来事が待っているはず)
居心地の良さに意識が
視界が白む。まずいと思った瞬間、彼は意識を手放していた。
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