第8話 文化の違い(3)

「……夢か」


 滝のように流れた汗が寝具に染みを作っている。

 股間にぬめる何かを感じた。白濁した粘り気のある体液だった。

 肩をがっくりと落とし、ため息をつく。


(ひどい夢だった、最悪だ……クソッ!)


 彼は鳥籠とりかごのような小さなおりの中で囚われの身となっていた。鳥籠の眼下には寝床があり、許嫁を奪った男が彼女を組み敷いて、彼が見下ろす目の前で犯すのだ。しかも気持ちよさそうによがっている様をずっと見せつけられていた。

 檻をこじ開けようと力を振り絞っても開かず、一切の手出しができなかった。

 嫌がっていた許嫁が次第に快楽に溺れ、よがり狂っていく姿に吐き気を催す嫌悪を感じているにもかかわらず、自分自身のどうにもならない分身はひどく昂っていた。そんな思い出したくもない悪夢の残滓ざんしが肌着に染みついている。

 最悪の目覚めにぐったりと階段を降りると銀髪の侍女がいた。


「おはようございます、騎士様」

「……」

「いかがなさいましたか」

「あ……おはよう……お嬢さん」


 あまり元気がない彼に心配そうな顔をして見上げてくる。


「昨夜はあまり眠れませんでしたか」

「いや……悪夢を見てね。ひどく汗をかいちまった」

「たしかに、少し臭いますね。寝汗のせいでしょうか……着替えを用意しておきますので清めておいでになってください。王女様が来られたら、私が応対しますから」

「うん、少し失礼するよ」


 ヘレナに促されて脱衣所に向かい浴室に入った。昨日ヘレナが使っていた木の桶を自分で手にとり、浴槽からお湯をすくった。


(んッ、昨日より少しぬるいか)


 昨日はもっと熱かったように感じるが今日の浴槽はほぼ適温だ。彼はそのまま桶を手に頭からお湯をかぶるのを繰り返して寝汗と夢精のあとを綺麗に洗い流した。


(試しに入ってみるか)


 傷にも効能があると聞いて効き目を試そうと足だけ浴槽に浸かる。刺客に刺された傷跡がわずかにしみたものの、浸かっているうちに慣れてきた。冷えた身体が温まり気持ちよくなってくる。


(昨日よりぬるいせいか、ゆっくり入っていられるな)


 ついつい時間を忘れそうになるが、王女様が来るかもしれないと思い出して脱衣所に戻る。そこには真新しい布と着替えが置いてあった。


(これで身体を拭けばいいんだな)


 昨日ヘレナが丁寧に拭いてくれたのに比べれば大雑把だが、身体の水滴を拭いた。気持ちさっぱりとしている。朝の目覚めの習慣に取り入れるとよいかもしれない。

 改めて服を着て応接室に戻ると、そこには陶器のカップでリンゴ酒を愛飲しているお姫様がいた。悪夢で見た幼馴染のみだらな姿が重なって、軽かった気持ちが重たくなった。


「ごきげんよう、シャルル」

「おはようございます、ソフィア様]

「昨夜は眠れましたか?」

「はい。ひどく寝汗をかいてしまったので風呂を浴びてまいりました」

「この邸宅の温泉が早速気に入ったのですか。選んだ甲斐がありましたわ」


 彼の心中を知らないお姫様はニコニコしている。機嫌が良いらしい。お姫様によく似た面影の幼馴染が現れた悪夢を思い出していた彼は複雑な気分であった。


「お待たせして申し訳ございませんでした」

「いいえ、リンゴ酒をいただいてくつろいでいたところです。そろそろでしょうか、イリニが採寸を命じた職人を連れてくると思いますわ」


 それから間もなく、王女付きの使用人と仕立て屋、その助手と合わせて数人ほどが邸宅を訪ねてきた。金髪の使用人が彼に向かって深々とお辞儀をした。


「おはようございます、騎士様。イリニ・リディアと申します。先日は危ないところを助けてくださり、ありがとうございました」


 金髪の使用人イリニは山賊の人質になりそうだったところをシャルルが助けたその人であった。自分をさらおうとした山賊を彼が斬り殺したところを間近で見て失神してしまったため、彼もあえて距離を保っていた。


「もう具合はいいのかい」

「はい。すぐに直接お礼が言えず、申し訳ございませんでした」

「しょうがない。恐い思いをしたんだからさ、あんまり無理すんなよ」

「はい。もう大丈夫です。今日は姫様のご命令で服の採寸に参りました」


 使用人イリニが邸宅の中に入るとお姫様が声を掛けてきた。


「ご苦労様ですわ、イリニ。早速始めてもらえるかしら」

「かしこまりました……騎士様、それでは上着を脱いでくださいますか」


 イリニが職人たちに指図してシャルルの身体の大きさを測っていく。上着のほか肌着に至るまで彼の体形に合ったものをこしらえるため肌着姿になることもあった。

 それを見守りつつ、お姫様が首をかしげてこう言った。


「わたくしのドレスを試しに持ってこさせましたが、似合いそうでしょうか」

「あの……俺の体形は武骨すぎて、ソフィア様の美しいドレスにはきっと似つかわしくないかと」


 スカートを着せられそうになるのを必死に固辞しつつ、彼は午前中のあいだ、己の羞恥心との格闘を生き延びなければならなかった。


 ***


 シャルルの採寸が終わった後もそのまま邸宅で正餐を取ることになったソフィアを歓待した彼は王城へと帰っていく王女一行を石畳の道に立って見送った。大きく息を吐き出した彼に、傍らに立った銀髪の侍女が声を掛けた。


「ご苦労様でした、騎士様」

「うーん……とても疲れた」

「少しお休みになりますか」

「うん、そうする」


 石畳の道から石垣の上に築かれた邸宅に戻った栗色の髪の騎士は客のいなくなった応接室で背もたれのある長椅子に深く腰を下ろした。背中を丸めるように頭を抱えたままじっとしていると、銀髪の侍女がお盆を手に彼の傍にやってきた。


「ハーブティーをご用意しました。どうぞお召しになってください」

「ハーブ……ティーってなんだ」

「乾燥させた薬草を煮出した飲み物でございます。お気持ちが落ち着くかと」

「……ありがとう、いただくよ」


 銀髪の侍女が陶器の瓶を傾けて注ぎ口から器に飲み物を注いてゆく。

 立ち上る湯気と一緒に漂ってくる心地よい匂いに興味が湧いてきた。


「いい香りがするね」

「少し熱いので火傷しないように冷ましながらお飲みください」


 ほんのり甘みと芳香のする飲み物を口にしていると子供の頃を思い出す。生き別れになった母親がこうして何か飲ませてくれたことがあった。もう戻ることない過去の記憶をたどっているうちにいつのまにか呼吸が落ち着いていた。


「はぁ……懐かしい気持ちだ。おふくろを思い出す」


 銀髪の侍女が傍らで静かに聞いている。彼は続けた。


「ガキの頃、俺が風邪を引いた時におふくろがよく薬草を煮て飲ませてくれたっけ。おかげで元気な身体に育ったのかもしれねぇ」

「お母上様もハーブを使われていたのですね」

「昔のことであんまり覚えちゃいねぇが、ふと思い出した」

「そうでしたか。少し安心いたしました」

「……」

「朝から晴れなかった騎士様のお顔が和らいでいらっしゃいますから」


 そう口にした彼女がゆっくり柔和な笑みを浮かべた。彼もつられて口角が上がる。彼女としばらく談笑しながら、淹れてもらったハーブティーをじっくり時間をかけて飲んでいるうちに、緊張がほぐれて眠気が襲ってきた。


「落ち着いたら眠くなっちまった……少し昼寝したい」

「かしこまりました。どうぞお休みになってください」

「一時間くらいしたら起こしてもらえるかな」

「かしこまりました。毛布を持ってまいりますね」


 銀髪の侍女が毛布を持ってきて掛けてくれた。日当たりのよい応接室の長椅子の上でひと寝入りした後、すっきりとした目覚めで午後の日課に取り組んだ。

 今日は文字を書き写す訓練に加えて、簡単な単語の綴りを覚える訓練を始めた。子供向けの内容であるが、この国の言語の読み書き能力に限れば子供以下の彼には十分すぎるものだった。

 晩餐までこれが続いてから夕食を取りつつ会食の作法を学んだ後、蝋燭ろうそくの明かりのもとで文字を書き写す訓練に励んだ。今の彼にはそれしかやることがなかった。食事の後片付けを終えた使用人たちが帰った後、銀髪の侍女が彼の部屋にやってくるまでそれが続く。


「お待たせしました。騎士様」

「じゃ、行こうか」


 一日の終わりに一緒に浴室へと向かう。脱衣所の中で彼が衣服を脱いでいる間に、彼女は湯浴み着に着替えて戻ってくる。わりと大きめの乳房と臀部、それと対照的に引き締まったお腹が艶やかな曲線を描いている。二股にわかれた両足は長くて太く、美しさと丈夫さを兼ね備えているようだった。

 身体を洗ってもらい、一緒に浴槽につかる。

 最初は足から。やはり昨日ほど熱くはない。じっと見守る彼女の眼差しを感じた。


「どうした、お嬢さん」

「熱くございませんか」

「いや、平気だ」


 そう言って腰まで湯に浸る彼に合わせて、彼女も入ってきた。


「朝も入浴したけど、昨日よりぬるく感じるのは気のせいかな」

「いえ、昨日の湯が熱く感じたと伺ったので少しぬるくしておきました」

「やっぱそうか、今がちょうどよいくらいだ」

「そうでしたか……よかったです」


 柔和な笑みを浮かべる彼女と目が合った。銀髪を頭の上で結い上げているせいか、丸みのあるうなじが露わになっていた。


「お嬢さんは健康的で美しい体つきをしているよな。うらやましいよ」

「……」


 真っ白な頬にみるみる赤みが差していく。

 顔をそらす彼女に合わせて、彼も前を向いた。


「傷だらけだろ、俺の身体。怖くねぇか」

「もう慣れましたので、何ともございません」

「そっか……使用人たちの中には俺の傷跡が恐ろしく感じるのもいるらしいが」

「傷を見るのを怖がって、いざという時に王女様の手当てができるでしょうか」

「……そりゃそうだ」


 美しい体つきとは裏腹に案外芯の強い女性だと思い知らされた。

 彼の一番身近な女性だった許嫁のカトリーヌとかなり異なる。カトリーヌは貴族の娘らしく、たおやかで気品があったが、最初は彼が負った傷を怖がっていた。

 だが、この銀髪の侍女ヘレナは淑やかさと賢さ、それに加えて怖気づかない勇気を持っているように感じる。そこに頼もしさと好感が湧いてきた。


「騎士様のお身体はどうしてそんなに傷ついておられるのです」

「人生の半分を戦場で生きてこうなっちまった。こうして生きているだけでも幸運なんだろうけどな」

「騎士様の国では……それほど長く戦いが続いていたのですか」

「ああ、血縁のある親戚同士で領地の奪い合いとかざらにある。東の異教徒の国では王が死ぬと、次の王座をめぐって兄弟どうしで王子が殺し合うんだそうだ」

「え……きょう、だい、で……?」

「ああ、それで生き残った王子が次の王になるらしい」


 横で話を聞いていた彼女は口ごもっていた。よほど驚いたように見える。


「あの……その傷痕も……」

「俺のは違う。その東の異教徒の国へ王様と一緒に行った遠征で負った傷さ。十一で初めて戦いに出てから十年経ったけど、何回死にかけたかわからない。気が付いたらこうなっていた」

「お強いのですね……あなた様は」

「強くなくちゃ主人あるじを守れねぇしな」

「……そうですね。そのお考えは私たち使用人にも通じます」


 彼女のはっきりとした口調に、彼は振り向いた。


「私たちはいついかなる時も主人にお仕えできるよう健やかでなければなりません。そのように教わって、健康な身体を作るよう励んでまいりました。私たち自身が健康であればこそ、お仕えする皆様方のご健康に常日頃から気を配れるのです。私たちもあなた様のように強くあらねば」


 首筋をまっすぐ伸ばし、顔を上げた彼女の横顔は凛として美しかった。

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