第7話 文化の違い(2)

「騎士様、失礼いたします」


 日が暮れて明かり取りから光が得られなくなった真っ暗な窓辺。そこで無言で佇んでいるシャルルに声をかけた使用人がいた。長い黒髪を持った十代後半ほどの少女の姿が手にしたランタンに照らされている。


「侍女様からこれをお持ちするようにと」

「そっか、助かったよ」


 暖かみのある光を放ったランタンを使用人から受け取った。しかしその瞬間、ランタンの光がフッと消えてしまったのである。


「どうしたんでしょう、私が触ったときは普通に点いたのですが……」


 ランタンを受け取った使用人が何かをつぶやくと再びランタンに明かりが点いた。このランタンは手にした者の魔力オドを明かりに用いるものであるという。

 

「少々お待ちください。代わりに蝋燭ろうそくを持ってまいりますから」

「蝋燭を!? 貴重品じゃねぇか」

「いえ、かまいませんよ」


 彼の生まれた国で蝋燭は貴重品だった。どこの生まれかもしれない流れ者をこんな待遇で迎えてもらったことに身が震える。

 そして、やはりこの世界ではこの身に宿った魔力オドをいかに使いこなすかが重要な意味を持つようだ――彼はそのように思い知らされていた。


(俺も魔力オドの使い方とやらを早く覚えなくちゃな。それにはまず言葉からだ)


 それから彼は黙々と鉛筆を片手に紙をなぞり、貪欲に文字を身に付けようとした。このような日常がしばらく続くことになる。


 ***


 厨房の後片付けを終えた使用人たちは、ヘレナを残して帰ることになった。あまり大きくない邸宅なので、ヘレナ一人で切り盛りできるそうだ。


「騎士様、お待たせいたしました。お世話しますのでご入浴なさってください」

「あまり気が進まないんだけどなぁ」


 彼には入浴という行為が身近なものではなかった。貴族の一部にそのような贅沢ぜいたくな習慣があることは知っていたし、古代ローマ時代には公衆浴場テルマエと呼ばれる公共施設での入浴が当たり前のように行われていた知識も持ち合わせていた。

 ただ、戦場に身を置いてきた彼の境遇では汚れた身体を水ですすぐのが日常茶飯事で、お湯に浸かる経験など皆無に等しかった。


「身体にたくさん傷がございました。今も痛むのではないですか」

「……」


 シャルルは否定できなかった。今も時折古傷がうずくことがある。この国に来る前に負った傷も完全には癒えていない。


「そのような傷にこの温泉が効くはずです。温泉に効能を求めて異国から訪れる方もいらっしゃいます。この邸宅はそのような方々の保養にも用いられていますから」


 この邸宅が彼に貸し与えられた理由がわかった。今日一日の数々のもてなしに感じ入った彼は根負けした。


「お嬢さんがそこまで勧めてくださるのなら……わかったよ」


 そして、彼はヘレナに誘われて浴室へと向かった。浴室の手前には籠を据え付けた脱衣所と呼ばれる小さな部屋があった。そこで服を脱ぐのだという。


「私も着替えてまいります。すぐに戻りますので」


 深い緑色をした丈の長いドレスでは浴室に入るのに困るのだろう。彼女が着替えて戻ってくるのを待ちながら彼は服を脱いでいった。いたるところに傷を負った肉体が露わになり、下腹部を覆っていた布を取り去ったときに気配が戻ってきた。


「お待たせいたしました」


 声に振り向いて、彼は言葉を失った。

 コルセットで細く保たれていたお腹周りと対照的に形よく膨らんだ張りのある胸、そしてしなやかな両足と安定感のある腰つき。

 思っていた以上に豊満で、それでいて均整の取れた美しい肉体を下着のような薄衣だけで覆い隠した姿がとても扇情的であった。


「お嬢さん、その恰好は」

「湯浴み着に着替えてまいりました。ドレスは絹でできておりますが、こちらは麻でできておりますので水にも丈夫でございます」


 しかしヘレナはこの湯浴み着の姿を彼に見られてもそれほど抵抗感がないらしい。それどころか、背を向ける彼の身体を興味深く観察している。


「それにしても騎士様の背中は精悍でいらっしゃいますね。筋肉が鎧のように全身についていらっしゃいますが、それだけに古傷が痛々しく思われてしまいます」

「人生の半分を戦場で過ごしたようなもんだから、こうなっちまった」

「ではお身体が冷えないうちに、どうぞ中へお入りください」


 ヘレナに案内された浴室には湯気が立ち上っていた。床と地続きになった浴槽から木の桶で湯気の立つ湯をすくって彼のもとに持ってきた。背もたれのない小さな椅子に案内されて彼が腰を下ろすと、彼女も膝をついてしゃがむ。


「これからお身体を洗わせていただきます。もしも痛い所やかゆいところがあったらおっしゃってくださいませ」

「うん、わかった」


 ヘレナが湯を桶からすくった手の上に固形物を乗せてこすり合わせる。すると手が徐々に泡立っていった。


「お嬢さん、何をしているんだ」

「汚れを落とすために石鹸を使います」


 石鹸を挟んで泡立てた両手が彼の背中をさすっていくのがわかる。


「うっ……」

「痛みますか?」

「……いや、平気さ。大したことねぇ」


 予想外のみについ声を上げてしまったが、刀傷を受けたり矢に射抜かれる痛みに比べれば些細なもの。来るとわかる痛みなら何も恐ろしいことはない。

 何より、この美しい容姿をした女性の前で苦痛にゆがんだ顔を見せるのは彼の自尊心が許さなかった。


「それでは洗い流しますね」

「うん、頼むよ……あっつっ!」

「申し訳ございませんッ。熱かったですか?」

「いや、水浴びのつもりだったから驚いちまった」

「では……水を加えて少しぬるくいたしましょう」


 ヘレナはまた桶で湯をすくいに行ったが、今度は湯の中に別の桶ですくった冷水を加えて戻ってきた。それをほんの少しだけ身体にかけて温度を見る。


「このくらいの熱さでしたらいかがでしょうか?」

「ああ、これくらいがよいな」


 シャルルが驚かないほどの温度を見極めた彼女は石鹸で泡立った背中をぬるま湯で綺麗にしていった。


「前はいかがいたしましょうか」

「自分でやるから、その石鹸とやらを貸してほしい」

「かしこまりました。それでは私は引き続き頭を洗わせていただきます」


 ヘレナから石鹸を受け取って見様見真似で泡立ててみた。それを自分で両腕、胸と腹、そして下腹部に塗りたくってからこすってみた。泡が黒ずんでいく様に驚いている彼を尻目に、ヘレナのほうは一度彼の後頭部にぬるま湯をそっとかぶせると、泡立てた両手でごしごしと洗い始めた。


(おおっ、これは……頭皮がほぐされていく……)


 絶妙な力加減で後頭部がマッサージされていった。単に汚れを落とすだけでなく、凝り固まった部分を十本の指を使ってほぐしてくれている。


(あぁ……なんだこれ、少し痛いと思ったがだんだん気持ちよく……)


 先ほどお湯が沁みたよりも、あまりの心地よさに手放してしまいそうな意識を握りしめている方がずっと彼にとっては困難な挑戦であった。


「オッ、お嬢さん」

「申し訳ございません、痛かったでしょうか」

「いや、逆だッ。気持ちよくて意識が飛びそうなくらいさ」

「あら……そうでございましたか」


 声色にどこか優しい感情が宿っているように思われた。遠い昔に生き別れになった母親の愛情に似た何かを思い出すのはどうしてだろう。


「頭の汚れを流してしまいますので、目をつぶっていただけますか」


 言われるがまま目をつぶった彼の頭にぬるま湯が何度かかけられた。残った水気を丁寧に布のような何かでふき取っていくのが皮膚を通して伝わってきた。


「こちらは終わりました。騎士様のほうはいかがですか」

「あ、ああ……ぬるま湯をもらえるだろうか」


 ヘレナがいくつかの桶にぬるま湯を入れて持ってきてくれた。それを自分で身体にかけて石鹸を綺麗に洗い流して、彼も身体を洗い終えた。


「あれ……なんだろう。顔がつるつるして妙にさっぱりしているような」

「お顔の産毛でしょうか。頭を洗わせていただいたときに処理させていただきました」

「なっ……ッ!?」


 数日剃っていなかった産毛――否、髭が綺麗に無くなっていたのだ。


「そ、そっか……女しかいない国では髭も産毛の扱いなんだな」

「ひげ? とは何でしょうか」

「顎や口周りに生える体毛のことをそう言うんだが……まぁいいや」


 元々周りの男たちと比較して髭が生えにくい体質だったのが女みたいで引け目に感じていたが、女と同じように綺麗に処理されてしまうと劣等感を通り過ごして面映おもはゆい気持ちになった。


「それで……その湯の中に身体を浸すのか?」

「最初は足の先だけ中に入れて待つのがよろしいでしょう」


 入浴の習慣がない彼に、ヘレナは膝までを浴槽に浸してやり方を見せた。恐る恐るそれを真似して彼も膝下までを湯に浸す。


「熱いな……」

「身体が慣れるまでしばらくそのようになさってみてください」


 しばらくそのままの姿勢でいると、ヘレナは浴槽に腰まで浸して両足を伸ばした。綺麗な脚に目を奪われそうになるが、彼女は平然としている。


「この温泉は源泉からのかけ流しでございます。お湯が新鮮ですが、やや熱くなってしまいますね。明日からは水を加えて冷ますようにいたします」

「もしかして、この水も温泉も汲んできた物ではないのか?」

「はい、湧いてきたものをそのまま配管を通して屋内に引き入れているのです」


 彼は驚嘆した。この王都には水道が整備されているのだ。それだけでなく、温泉も水道と同じように邸宅に導いているという。

 石畳の道路といい、水道といい、この都市の生活水準は極めて高い。文献や遺跡で知った古代ローマの都市の有り様が今ここにあった。


「そういえばさっき蝋燭を貸してもらったんだけど……よかったのかな」

「蝋燭ですか。それが何か」

「いや、俺の国ではわりと貴重品だったから」

「そうでしたか。王都では簡単に手に入るので、どうぞお気になさらず」


 王都を訪ねる魔術師や学者が多いこともあって、蝋燭は数多く作られているらしい。オリーブや月桂樹といった植物が栽培され、それを原料に蝋燭が作られていると彼女は語った。


「足が湯の熱さに慣れてきたみたいだな」


 彼は勇気を出して、ヘレナの横に同じように腰を下ろしていった。古傷が少しうずくが、先ほど身体を洗ってもらった時にぬるま湯で身体が慣れているせいか、思ったほどの苦痛ではない。


「気持ち悪くございませんか」

「うん、平気だ」

「入浴で急に体温が上がるとのぼせる場合がございます」

「のぼせる?」

「顔が火照ったり、頭がクラクラしたり、気分が悪くなったりします。最悪、意識を失って溺れることもあります。そのような兆候を少しでも感じたらおっしゃってください。あるいは手を握っていただければ」

「わかった」


 王女とはまた違ったふくよかな顔をしている。太っているというのではないが女性らしい肉感があるのだ。全体としてほどよく均整のとれた体つきであった。


「騎士様」

「ん? なんだ」

「騎士様の身体は本当にたくましいですね」

「そうか……お嬢さんの身体は実に美しい」


 思ったがまま感想を返すと、さすがにヘレナは面映ゆくなったようであった。


「お、おたわむれを……」

「ふざけちゃいない。思ったことをありのまま口にしただけさ」


 彼女の白く美しい素肌が赤くなっていくのは湯に浸かって体温が上がったせいか、あるいは恥じらいのせいか――彼には見分けがつかなかった。

 こうして初めての入浴を終えた彼の身体をヘレナが丁寧に拭いてくれた。脱衣所に戻ると脱いだ服の隣に真新しい服が置かれていることに気づく。


「騎士様の身体に合う肌着を探してまいりました。今宵はこれを身に付けておやすみになってください」

「何から何までありがとうな、お嬢さん」

「王女様が明日騎士様の採寸をしたいとおっしゃっていました。それで服をこしらえれば、今までお使いいただいた服より体格に合いやすくなるかと存じます」


 さっそく肌着を身に付けてみた。亜麻リネンの布を使ったもので通気性があるらしく入浴で火照った身体には丁度良い加減であった。


「お疲れと存じますので、今日は早くお休みになられたほうがよろしいでしょう」

「そっか……じゃそうさせてもらうよ」


 シャルルは湯浴み着のヘレナと別れ、先端に小さな火を灯した蝋燭を手に一人で寝室に向かった。寝室の寝床には白い布がかぶせてある。その上に腰を下ろすとほんの少し布がたわんだ。床に比べるとやや柔らかい感じがする。


(なんだこれ……気持ちいい)


 寝具の質も決して悪くはない。蝋燭の火を吹き消して、寝具の上に仰向けになるとたちまち眠気が襲ってきた。


(ひさしぶりにいい夢が見れそうだな……)


 彼は眠りの中へと落ちていく。

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