第6話 文化の違い(1)

 その後、応接室に侍女ヘレナが戻ってきた頃合いを見計らい、彼は王女ソフィアにこう申し出た。


「ご相談がございます。この国の文字の読み書きを覚えたいのです。そのため必要な教育を受けさせていただけるでしょうか」


 言葉が最初まったく通じなかったのが通じるようになった――魔術について尋ねたときにその不可思議をヘレナに打ち明けていた。その時、自分に特殊な魔術がかけられたことを彼は知った。

 それから彼は視界に入る限り読める文字を探したが、そもそも市中にある中で何が文字であるか、識別できなかったのだ。


「女王陛下から図書館への出入りを許されましたが、俺にはこの国の文字が読めないみたいです。書物を読むのに必要な読み書きを身に付けたいと思います」


 彼の真剣な眼差しに王女と侍女は互いに目を合わせて頷いた。


「わかりました。筆記用具の手配も含め必要なものはすべて用意させます。ヘレナ、いいですか」

「かしこまりました。騎士様の読み書き習得のお手伝いをさせていただきます」

「ありがとう、助かるよ。お嬢さん」


 ヘレナは早速必要な教材の手配を行った。すぐに邸宅まで届けられるという。

 この世界について彼がまだ知らないことをわかりやすくかみ砕いて教えてくれる――ヘレナはシャルルにとってそのような存在になりつつあった。


「では、そろそろわたくしは城に帰ります。また明日、様子を見に来ますから」

「かしこまりました、王女様」


 王女ソフィアは侍女ヘレナを残して王城に帰っていった。それからしばらく経って筆記用具と文字を学ぶ教本が届けられた。子供向けのごく簡単な内容だという。


「基礎を疎かにするとかえって理解が滞ってしまいますから、まずは文字の習得から始めましょう」


 そして、ヘレナは見たことないペンと薄い紙を机の上に置き、彼にペンを持つよう促した。いざペンを握った彼だが、あるべきものが足りないことに気づいた。


「あれ……インクはどこにある」

「インクとは何でしょうか」

「物を書くために使うものだ。紙に色を付けて文字を記すために使う」

「ああ、墨のことですね……墨はとても貴重なので、正式な公文書や外交文書にしか用いられないのです」

「えっと……この国の人たちは普通どうやって文字を書き記しているんだ」

「墨を使わずに鉛筆えんぴつを使います」

「……エンピツ、とは?」

「騎士様が手にしているそれでございます」


 彼は自分の手にあるペンを見つめた。ペン先にあるはずのインクを吸い上げる溝が一切ないことに気づいた。


「これでどうやって書くんだ」

「そのまま紙に押し付けて動かしてみてください」


 彼女に言われるがままエンピツとやらの先端を紙にこすりつける。


「なんだこれ……墨を付けてないのに色がついてる!?」

「はい、この鉛筆の先端には黒い芯が入っており、この紙に芯が付着することで色がつきます。ですから墨をつける必要がございません」


 画期的な発明品を目にして彼はわくわくした。教本に並んだ文字の一覧表にならって夢中で紙に文字を書き写していく。ひさしぶりに童心に帰った気分だった。


「あれ、どんどん書きづらくなってきたな」

「はい、鉛筆は書き続けると芯が削れて短くなります」

「どうすりゃいいんだこれ」

「そうなったときは鉛筆の先端をナイフで削って芯を出せばよいのです」


 ヘレナが手本にナイフを使って周りの木を削り、丸まった先端をとがらせた。それを受け取った彼は元のように書きやすくなったことを実感し、感動した。


「これはすごい……ありがとう! これならずっと書いていられそうだ」

「これを繰り返していくと鉛筆がどんどん短くなってゆきます。芯が無くなったら、別の鉛筆を使います」

「消耗品か……なるほどな、教えてもらった通りにやってみるよ!」


 それから教本に書いてある内容を模倣して何度も紙をなぞる練習が続いた。

 ヘレナは使用人たちに指示を出すために席を外すこともあったが、用事がないときはシャルルの傍らで指導を続けた。

 ペンと異なり墨を付け直す必要がなく、先端が短くなったらナイフで周りを削って先端を尖らせばよい。慣れてしまえばこのエンピツとやらのほうが使いやすい。ついつい没頭してしまい、時間が経つのを忘れてしまった。鉛筆をずっと握っていた指先が痛んできたほどだ。


「うーん、さすがに手が疲れてきたな」


 鉛筆を机に置いて、痺れた右手首をよく振った。軽い頭痛にこめかみを押さえる。


「恐ろしい集中力でしたね。もう何時間も経ってしまいました」

「根気よく付き合ってくれてありがとう。今日はこのくらいにしておこうかな」

「そうですね。ただ机に向かってばかりでは煮詰まってしまいますから、少し外に出てまいりましょうか」


 ヘレナの提案でシャルルは邸宅の外に出て散策することにした。ヘレナは邸宅の掃除を配下の使用人たちに任せ、シャルルを伴って城下町を案内してくれた。

 日は西に傾いている。

 東へ伸びる影を追うように街を歩いているうちに、ほのかに硫黄の匂いが漂う場所が所々あることに気づいた。夕方が近いせいだろうか、籠に食材を詰め込んだ街の民たちが湯気の湧く場所に集まっているのがわかる。


「あれは何をしているんだろう」

がまに食材を持ち込んで調理しているのです」


 その瞬間、彼の嗅覚に染み付いた硫黄の匂いと蒸し窯とが結び付いた。


「もしかして、ここには温泉が湧くのか?」

「はい、あのルキア火山の麓にあるこの王都では新鮮な湧き水と温泉が得られます。あのように蒸気が噴出する場所も数多くあり、蒸し窯として広く利用されています。家によっては蒸し窯が台所についているところもございます」

「そりゃすごいな」

「騎士様が本日からお住まいになる邸宅にもついております。温泉もございますので湯治にも役立つはずです」


 とても好条件の住まいを貸与してもらったことを彼はありがたく思った。

 城下町のはずれに向かってしばらく歩いた後に眺めの良い丘にたどり着いた。王城のある丘ほどではないが小高い丘になっている。

 南を見れば大きな河川がゆっくりと左から右へ向かって流れていた。

 転じて北を見れば大きな円錐形の山塊が眼前に迫っており、その頂は真っ白い氷河に覆われているのがわかった。


「ここでしばらく休みましょうか」


 手入れがされている芝生の上には先客たちが何人か腰を下ろしていた。彼が芝生に寝転がると、ヘレナもまた深い緑色の丈の長いスカートを上品につかんでゆっくりとその場に座った。


「ここは山と河と風が出会う場所、つまりマナを感じやすい所といえます。深呼吸をしてみるとよろしいかもしれません」


 思い切り体を伸ばした彼は言われるがまま息を深く吸い込んで、静かに吐き出す。ずっと机に向かっていたせいか疲労感を覚えていたが、山から吹きおろす涼しく乾いた風に身をゆだねて疲れを忘れようとした。


(俺はこんなところで何をしているんだろうか)


 尊敬していた偉大な親父に従って異教徒との戦いに臨んで十年余り。立派な騎士になりたくて、一途に頑張ってきた誇りがあった。

 だが、親父を亡くして故郷に生きて還って感じた空気は違っていた。異教徒と戦うため一致団結していたヨーロッパ諸国の思惑はバラバラになっていた。

 王位を継いだ長子である兄は長年の宿敵フランスとの同盟を結ぶため、いくつかの妥協に応じた。それが征服王アルテュールが勝ち取ったプロヴァンス地方をフランス王に譲ることだった。征服王アルテュールが新しい王宮を築いたプロヴァンスはシャルルの故郷であり、幼馴染のカトリーヌの実家である貴族が代々所領を持っていた場所でもあった。

 外交でプロヴァンスを取り返したフランス王はシャルルから許嫁を奪って息子の妃――王太子妃にすると決めたのだろう。それには婚約者だったシャルルが邪魔だったのだ。


(俺はこんなところで何をしているんだろうか)


 騎士の誇りを打ち砕かれ、愛した許嫁を奪われて、見知らぬ土地に流されてしまった。その屈辱は忘れることができない。吐き出す出口がなく、彼の胸の中でグルグルと回っている。たとえ疲れが消えても、その苦しみが消えることはなかった。


 ***


 黄昏が王都を包み始めた頃にヘレナはシャルルを連れて邸宅へと戻った。邸宅では掃除を終えた使用人たちが晩餐の準備に取り掛かっている。

 シャルルは一人部屋にこもって文字を書く練習に没頭していた。この世界で生きていくために猛勉強を始めた彼は教本に書かれた文字と思しき記号をひたすら模写していた。

 再び故郷に還って、こんな境遇に自分を落とした者たちに復讐してやる――そんな黒々とした感情が彼を突き動かしていた。


「騎士様、お食事の準備が整いました」

「ありがとう、お嬢さん」


 案内された先に食堂があり、食卓の陶器の皿の上に少し黒い色をしたパンと香草で包んで蒸した魚、赤みをしたスープが陶器の皿に盛り付けられた。


「どうぞおかけくださいませ」


 椅子を勧められて腰かけ、彼は食卓を見渡した。


(食卓にソースが見当たらねぇな。ワインもねぇぞ)


 ヘレナが彼に尋ねた。


「何かお飲みになりますか」

「ワインはあるだろうか」


 その瞬間、使用人たちの顔が凍り付いた。ヘレナだけは表情を変えなかった。


「あいにくワインはないのですが、リンゴ酒サガルドならございます」

「では、それをいただきたい」

「かしこまりました、用意させます」


 ヘレナが命じて、使用人が陶器のカップとボトルを持ってきた。彼の手元に置かれた陶器にヘレナがリンゴ酒シードルを注いでいく。

 食卓の上を見たところ大皿がなく、小さい皿しかない。取り分けるための大きなナイフがなく、手元に小さなナイフがある。おそらくスープを飲むためのスプーンと、その隣に農具のピッチフォークを小さくした何かがあるが使い方がわからない。

 とりあえず、スズキと思われる白身魚を小さなナイフで切り分けてから、手づかみで取ろうとすると、すかさずヘレナが声を掛けた。


「お待ちください! フォークをお使いになってください」

「フォークってこれのことか?」


 その反応にヘレナが唖然とした。


「記憶を失って食事の作法もお忘れになってしまわれたのですね……わかりました、ご指導させていただきます」


 その後慣れない食器の使い方をヘレナから一つひとつ教わりながら、彼は初めての晩餐をなんとか乗り切った。

 浅黒い色のパンはライ麦パンで、小麦のパンに比べれば少し固い感じがしたものの彼が思っていたほど固いものではなかった。不思議に思って訊ねたところ、王都では蒸し窯を使ってパンを十分柔らかくして食べる文化があるのだという。

 魚の香草蒸しは川を下った先の海で獲れた白身魚を何種類もの香草で包んでじっくりと蒸した料理。香草の風味が温泉の蒸気とともに干物に染み込んで美味しさを引き出している。ただ、濃厚なソースをぶっかけて食べるのが普通だった彼には今ひとつ薄味に感じられた。

 一番目を引いたのがフェンネルとトレビスらしい野菜を煮込んだスープであった。彼が思っていたよりも苦みがあるけれども、手がかかっている逸品である。


「ありがとう。おいしい食事だったよ」


 近衛騎士団の兵士たちと食卓で肉を楽しく奪い合った日々が懐かしく思える彼には正直少し物足りない。だが飢えを逃れただけでもありがたいのだ。よくわからないが海が近いこの国では魚を多く食べるのかもしれない。


「先ほどもお話ししたと存じますが、この邸宅には温泉がございます」

「そうか、あとで飲んでみるかな」


 何気なく彼が放ったその一言を耳にして、ヘレナは不思議そうな顔をした。


「え、お飲みになるのですか」

「飲泉ができるのだろう」

「いえ、そういう意味ではなく……入浴できると申し上げたつもりでした」

「入浴……?」

「はい、温泉に浸かるという意味ですが」


 意味が呑み込めていない様子の彼を見て、ヘレナは深くため息をついた。


「わかりました。あとでご案内いたします。先に片づけを済ませてしまいますので、お部屋のほうでしばらくお待ちくださいませ」


 ヘレナたち使用人が食事を取る準備を始めた。部屋に戻ろうと彼が階段に差し掛かったときだ。


「ねぇ、見たでしょ。あれ……どこの田舎から来たのかしら」

「どこから来たかわからないんですって……私思うんだけどぉ、本当はずっと東から来た未開人なんじゃないかしら」

「ほっぺに傷がついてるのに何とも思っていないみたいだし」

「えぇ、嘘ォ……やだ怖ぁい」

「田舎者のくせに高価なワインをくれだなんてこいつ何様のつもりって思った」

「あの面倒を見なきゃいけない侍女様は大変よね……あたしにはとても無理ぃ」


 食事を終えた彼が自室に帰ろうとしたとき、たまたま使用人たちが小声で陰口を叩くのを耳にした。赤髪の武官アグネアに初めて対峙して蔑まれた憤りを思い出した。太い腕がプルプルと振るえるほど拳を握った。


(……やめよう。女に手を上げる真似をしたら、それこそ野蛮人の仲間入りだ)


 こみ上げた怒りの首根っこを掴んで握り潰した彼は元の部屋へと帰っていった。

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