第5話 魔術

 女王との謁見の後、騎士シャルルは控室で待たされていた。赤髪の武官アグネアはすでに帰り、艶のある銀の後ろ髪を結った侍女ヘレナと二人きりだった。


「昨日からずっと気になっていたんだけど」

「何でございましょう」

「お嬢さんがあの薪割りの斧にかけた『おまじない』さ、あれは?」

「おまじない……ひょっとして魔術まじゅつのことでしょうか」

「ま、じゅ……つ、って……なんだ」

「……えっ!?」


 聞き慣れない言葉に首をかしげる栗色の髪の騎士に、銀髪の侍女も戸惑っている。


「魔術をご存じないのですか」

「聖人が起こす奇蹟、よこしまな魔女が使う呪術みたいな話は聞いた覚えがあるけどな、実際に見たことはない」

「実際にお見せしましょう。それが早そうです」


 そう口にした侍女は席を立って、隣の部屋に消えていった。ほどなく空っぽの杯をお盆に乗せて戻ってくる。


「こちらをご覧ください」

「ただの器だろ、これがどうした」

「今からこの器の中に水を入れてみせます」


 水を入れたかめなどその部屋にはない。彼女は杯を手に何かをぶつぶつと呟いた。


「わが身に宿る水のオドよ、この杯の中に水を集めたまえ――」


 すると陶器の杯の中に霜が降りたように光る何かが集まっていく。それはたちまち無数の水滴となって杯の中心に集まっていった。


「これが水の魔術です」

「……何が起きたんだ」

「空気中にある水蒸気を凝縮ぎょうしゅくさせただけですけれど」

「もっと簡単に言ってくれないか」

「空気中の水分をこの器の内側に結露けつろさせたと言えばわかりますか」


 目をパチクリさせた彼は杯にたまった水を凝視した。


「結露か……なるほどな、その譬えならわかりやすい」

「この逆をやったのが、騎士様が『おまじない』と呼んだものです。具体的には斧の刃に貼り付けた水を空気中に昇華しょうかさせました」

「待てよ……あの銀色だった刃がおっそろしく切れたのは表面に水……いや、違う。あれは氷を貼り付けていた、のか……」

「その通りです。私の魔力オドで一時的に刃に空気中の水の分子を貼り付けて表面の凹凸を埋めました。刃物の切れ味を上げるには砥石を使って錆を落とすのが良いのですがそんな時間はありませんでしたから」

「オド? 分子? なんだ、初めて聞く言葉ばかりだが……」


 聞きなれない言葉に首をかしげるシャルルに、ヘレナはハッとした。


「騎士様はどこからこの国に流れ着いたかわからないとおっしゃいましたね。もしかしたら記憶が欠落しているのでしょうか」


 シャルルに記憶を失った自覚はない。しかし、この見知らぬ国へ流れてきた過程が微塵も存在しないほど記憶から抜け落ちている。それは否定しようがない。


「わからねぇ……だけど、そう受け取ってもらった方がよさそうだ」

「わかりました。今後そのようにご対応します。わからないことがございましたら、ご説明いたしますのでおっしゃってください」

「ありがとう。早速聞いてもいいかな、さっき言った水の『分子』ってなんだい」

「水のごく小さな粒ですが……ご存知ではありませんか」

「水の粒……雨粒とか」

「いいえ、もっと小さなものです。目に見えないほど小さなそれが集まって、雨粒を構成しています」


 全く意味がわからず顔をしかめる。それを察した彼女は切り口を変えた。


「雨粒を集めて小川となし、小川を集めて大河となし、大河を集めて大海となす――それは騎士様にもおわかりですよね」

「ああ、それなら理解できる」

「それでは逆に考えてみましょう。大海の根源を求めれば大河へ、大河の根源を求めれば小川へ、小川の根源を求めれば雨粒へ、それもおわかりですよね」


 シャルルが頷く。ヘレナは話を進める。


「雨粒の根源を求めれば雲へ、雲の根源を求めればもっと小さな水の粒へ、このように水の根源に向かって遡っていった最小の単位を水の『分子』と呼ぶのです」

「つまり、水の分子というモンをどんだけ集めるかで雲や雨粒になったり、あるいは小川や大河、大海ができる――そういう意味か」

「はい、そのような理解でよろしいと存じます。雨が降ると空気が湿り気を得るのでおわかりでしょうが水は空気中にも含まれます。それを魔力オドを使って刃に貼り付けたものが騎士様がお使いになった斧でございます」

「なるほど……水の分子とやらはだいたいわかってきたよ、ありがとう。もう一つ、オドというものは何か教えてくれないか」


 頷いたヘレナは平易な言葉を選んで説明を続けた。


「どんな人間でも、生き物でも、山河さんがでも、この世界を構成する存在であるならば身体に血が通うように魔力が通っています。それを『マナ』と呼びます」

「要するに空気みたいな何かか」

「私たちは息を吸うように『マナ』をこの身に取り込んで生命の活力としています。そして私たち自身に宿っている魔力を『オド』と呼びます」

「えっと……つまり、君らの生命に取り込んだ力を『オド』っていうんだな」

「はい、その理解で間違っていないかと存じます」


 彼が記憶を失った存在と割り切ってくれたせいか、彼女はわかりやすくかみ砕いて教えてくれた。


「まてよ、そのオドというのはみんな持っているのか」

「はい、人によって違いはありますが、何かしらのオドを持っているはずです」

「……俺も?」

「はい、騎士様にもあるはずです。おそらく今はそれを自覚できていないだけで」

「そっか……わっかんねぇことだらけだ、もっと学ばねぇと」

「失礼ながら、騎士様は文字が読めるお方でしたか」

「読める……はずだがこの国の文字が読めるかわかんねぇ。まっ、なんとかするさ」


 シャルルは征服王アルテュールが愛妾に産ませた妾腹しょうふくの子である。親の地位を引き継げず、ゆえに自分の実力だけで生きていくしかなかった。

 庶子である自分を傍に置いて養育してくれた父の期待に応えるため、剣技は言うに及ばず、大軍を率いる将となるべく数か国語での読み書きを彼は身に付けていた。

 もう一つ読み書きする言語が増えるだけだ。彼はそう思っていた。


「女王陛下は図書館の利用を認めるとおっしゃったな。その前にこの国で使う文字を覚えなきゃなンねぇが、どうすっかなぁ」

「それは後ほど王女様がおいでになったらお話しいたしましょう」


 銀髪の侍女ヘレナにいろいろ尋ねているうちに時間が過ぎていった。


「待たせましたわね、二人とも」


 侍女のヘレナがすっと立ち上がり、控室の入り口に向かってお辞儀をした。王女ソフィアともう一人高貴な雰囲気の女性が一緒にいたからであろうか。彼もまた立ち上がって、二人を迎えた。


「はじめまして、シャルル・アントワーヌ殿」

「こちらこそ……お初にお目にかかります。王太子殿下」


 片膝をついてひざまずいたシャルルにスカートをつまみ上げる跪礼で答礼を返す貴婦人は王太子ベアトリクス第一王女であった。


「大変珍しい刀剣をお持ちだと妹から聞き及びました。どのようなものか少し興味が湧いたので、もしよろしければお見せいただけたら嬉しいのですが」


 初対面の王太子ベアトリクスがそのように口にしたのでシャルルは驚いた。だが、彼自身も珍しい装飾を施された短剣だと思っていたので無理はないかもしれない。彼は腰に差した短剣を鞘ごと引き抜くと机の上に置いた。


「こちらです」

「拝見してもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞ」


 ベアトリクスが丁寧に短剣を手に取って、いろんな角度から柄をじっと見つめる。そしてゆっくりと鞘から引き抜いて、注意深く短剣の刃を眺めた。


「とても精巧に作られておりますね。宝石をふんだんに使った見事な作りです。このようなものは数多く見かけません。大変貴重なものと存じます」


 鞘に短剣を納めたベアトリクスは両手で捧げ持って元の机の上に戻した。


「お尋ねしたいのですが、こちらの短剣はどこで手に入れたのでしょうか」

「父から生前に譲られました。どこで手に入れたものかは知りません。大切な剣だと口にしていました」

「父、とおっしゃいましたか」

「はい、それが何か?」

「あ、いえ……お気になさらず。ご生前ということは……親御様は、もう……」

「はい、今となっては父の形見でございます」

「そうでしたか……剣それ自体も大変価値の高い逸品ですし、大切になさるがよろしいでしょう」


 王太子ベアトリクスは軽く会釈した。


「今日はどうもありがとうございました。珍しい短剣を見せていただいたお礼に、今度わが国のアルス・マグナをご案内いたしましょう。妹がお二人と話があるそうなので、わたくしはここで失礼いたしますね」


 ソフィアと目を合わせたベアトリクスは控室から去っていった。王太子を見送った王女に侍女のヘレナが声を掛けた。


「お疲れ様でございました、王女様。ずっとお話しになっていたようでございますが何かお召しになりますか?」

「そうね……甘いリンゴ酒が恋しいわ」

「かしこまりました。すぐにご用意いたします」


 女王や王太子との会談を終えた王女ソフィアが控室に現れた頃、さすらいの騎士と侍女は親しげに会話する間柄となっていた。侍女のヘレナが控室を出て行ったあと、そんな場の空気を見て取った王女はシャルルに向かって微笑んだ。


「シャルルはヘレナとすっかり打ち解けたみたいですね」

「この国のことを全く知らない俺に侍女殿がいろいろ教えてくださるので、つい聞き入ってしまいました」


 背もたれのある長椅子に腰かけたソフィアが机に乗せられた短剣を興味深く眺めていることにシャルルは気づいた。


「どうなさいましたか、姫様」

「ソフィア、ですわ。シャルル」

「ソフィア様もこの剣が気になるのですか」

「ええ。シャルルの腰に差した短剣が不思議な造形だとお姉様にお話ししたのです。お姉様に見ていただいたら、シャルルの出自がわかる手がかりになるかもしれないと思ったので」


 間もなくヘレナが戻ってきた。銀製の瓶が一つと器が三つほど乗せられた銀の盆を手にしている。


「王女様、騎士様、リンゴ酒をお持ちいたしました。どうぞお召し上がりください」


 侍女のヘレナからシードルを振舞ってもらい、しばらくの間、王女たちとの歓談を楽しんでからシャルルは王城を後にした。


 ***


 その後、シャルルは王女ソフィアと侍女ヘレナに王城からそれほど遠くない城下町の一角、丘陵の中腹くらいに連れられてきた。

 馬車二台がすれ違えるほどの広さが確保された石畳の通りに面した一帯には、日当たりのよい南側に庭を構えた二階建ての邸宅がいくつも建っている。大貴族の邸宅に比べればこじんまりとしたものであるが、清潔感と高級感の漂う作りであった。


「こちらでございます。王女様、騎士様」

「ここが今日からシャルルの住まいとなるのですよ、いかがですか」

「これは……ありがたく存じます」


 シャルルにはこのうちの一軒が貸し与えられることが決まった。国外からの客人を迎える邸宅であり、小さい間取りながら格式はそれなりにあるようだ。

 さすらう日々を考えれば最悪雨風がしのげれば――その程度に考えていた。しかし貸し与えられる住居はずっと恵まれたものだった。遠征に次ぐ遠征のなか戦地の天幕で過ごす機会が多かった彼には文句ない好待遇といえる。


「まだ使用人たちが隅々まで掃除をしていますが、応接室はすでに綺麗にしてございます。騎士様はどうぞ王女様と応接室でおくつろぎになってください。お茶を淹れてまいります」


 さっそくその応接室にお迎えした客人第一号は、彼をみずからここへ案内した王女ソフィアである。


「よい間取りですわね。南に面して日差しが暖かくて……お昼寝しに来ようかしら」

「姫様がわざわざお昼寝しにおいでになるのですか……」

「ふふふ、冗談ですわ。ところで、シャルル」

「はい、姫様」


 そう返すと、金髪碧眼の美しい姫はあからさまに不機嫌な顔をする。


「その、姫様という呼び方はどうにかならないのですか?」

「いけませんか」

「あなたとは親しくお付き合いしたいのです。ソフィアで結構」

「では、ソフィア様」

「……さま?」

「さすがに呼び捨てはいけません。皆の手前、畏れ多すぎます」

「……しかたないですわね。それでよしとしましょう」


 名前で呼んでほしい金髪碧眼の王女と、自分の身を守るためあくまでも上下関係を保ちたい栗色の髪の騎士の間で彼女の呼び名が確定した瞬間であった。


「これからシャルルはここで暮らしますが、身の回りのことでまだわからないことも多いでしょう。ですから、わたくしから提案がありますの」

「はい、何でしょうか」

「しばらくの間、ヘレナにシャルルの身の回りの世話を託したいと思います」

「ありがたきご配慮に感謝します。しかし、よろしいのですか」


 ソフィアが首をかしげる。


「侍女殿はソフィア様と一番気心が知れていると伺いました。そのような方に、私のような流れ者の世話をさせるなど」

「ヘレナだからこそ……信頼してあなたを預けられるのです」


 こう言い切ったソフィアの目は、真剣そのものだ。


「シャルルはこの国では――いいえ、この世界では特別な存在なんです」

「とくべつ? 何がです」

「薄々気づいているのではないですか。この国で自分と同じ男性を見かけないと」

「……ッ!?」


 ハッと息を呑んだ。キリキリと締め付けられた胸が騒いでいる。


「この国では八〇〇年前、男性という人種は死に絶えてしまいました。一人残らずです」

(ウソ、だろ……)


 何らかの理由で女だけで暮らす部族ではないか――そんな予想はしていた。それを軽々と超える現実を突きつけられて、さすがの彼も言葉にならない。お姫様の御前だが両手で顔を覆った。


「おいおい、まじかよ……あり得ねぇだろ……」


 疑いもしなかった常識を叩き潰されたのだ。独り言をつぶやかずにはいられなかった。


(でも、確かに男を誰一人見かけねぇ。俺を騙そうとしているようにも見えねぇ……騙すとしてもこの国の男たちを全部隠すなんて無理がある)


 物思いに沈み、深く息を吐き出した彼にお姫様がこう言った。


「要するに男性が絶滅してしまった世界で生きているほぼ唯一の男性個体なのです。あなたは」


 男性個体、という言い回しが彼には滑稽に思われてならなかった。


(特別な存在ってそういうことかよ……なるほどな)


 ある意味この世に二つとない珍獣か何かと同じ扱いをされているのだ。そう思い至ったシャルルが不可思議な顔をしていると、ソフィアは目元を緩ませてこう続けた。


「こう言ってもきっとあなたにはわからないかもしれませんね。それほど貴重な存在をわたくしは手放したくないのです。何かあっては困ります」

「だからこそ一番信頼できる侍女殿に俺の身柄を預けたいとおっしゃるのですね」

「ええ。これがわたくしの願いで、あなたへの提案です」


 お姫様が彼を保護したい熱意そのものに嘘偽りはない。それだけは理解できた。


「わかりました、ソフィア様。ご配慮ありがとうございます」


 この国に来てから一番縁してきたヘレナが傍らにいると彼も心強かった。そう考えたシャルルは王女の提案を受け入れた。

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