第5話 女王の思惑(2)
「お母様」
「ベアトリクスですか、入りなさい」
日が暮れて午餐を終えてあとは眠るだけとなった女王の寝所に、王太子が現れた。
「どうしたのですか、夜遅くに」
それが大事な用件だということだろう。寝る前の娯楽として楽しみに読んでいた小説をわきに置いて、女王は娘に向き直った。
「実は先ほどソフィアから演習場の使用許可を求められました。資格者と新兵たちの訓練に使いたいとのことです」
「そうですか――ところで、それを私に問う意図は?」
演習場の使用許可など、軍権の最上位に位置する女王に問うほどの事案ではない。判を押す事務的な手続きレベルである。そのくらいであれば王太子が決裁すればよいところを、なぜ夜遅くに私を訪ねて問うのか――と女王は尋ねたのである。
「ソフィアはこれまで軍務にほとんど関わりを持ってきませんでした。許可すべきと思いますか?」
「よいではありませんか。あの子にはあの子の考えがあるのでしょう」
見解を求めた王太子に対して、女王はあっさりと容認する姿勢を見せた。ベアトリクスは呆気にとられたが、納得がいかない様子でこう言った。
「軍権はお母様にありますが、それを委譲されているのはこのわたくしです」
「ええ、その通りです。だからソフィアが一番最初にあなたに話したのでしょう?」
「……」
「要領を得ませんね……結局のところ何が言いたいのですか、ベアトリクス」
「軍権を持たない王女に演習場の使用を認めるのはいかがなものかと存じます」
それを暗に示すための問いかけであったが、女王はそれを知ってかしらずか、あっさりと認める意図を示したのである。王太子はより明確に「軍権を持たない王女の要求を受け入れるべきではないのでは」と迫る羽目になった。
「では問いますが、王太子――あなたがソフィアに代わって、あの機動甲冑の運用を考えるのですか?」
「それは……」
ベアトリクスは言葉に詰まった。魔術研究という分野に関してはできることをやる覚悟は持ち合わせていたものの、実際の運用という部分まで試行錯誤を広げるだけの余力が彼女にはなかったからである。
それを見越していたのか、表情を緩めた女王は諭すように言った。
「それができるなら、やってごらんなさい。もし、手余すようならば、あなたの妹に託せばよいではありませんか」
「……貴族たちが何と言うか」
「貴族たちは関係ないでしょう。今は
王太子の言葉を切って捨てた女王はあらかた理解した。きっと、貴族たちの誰かが王太子にそれとなく意見を呑ませたのであろう。
貴族たちが女王に直接言うのではなく、最初に王太子に言ったことは決して悪いことではない。王太子が貴族たちから一定の信用を得ているということだからだ。であるならば、この機会に女王自身の考えを王太子にも理解させておく必要がある。
「ベアトリクス、なぜ私がソフィアに外交や――今や軍務をやらせようとしているかわかりますか?」
「……わたくしが
「そのようなことを決して、私以外の前で言ってはなりませんよ。あなたの体面に関わります」
王太子ベアトリクスは幼くして魔術師としての才覚を発揮し、高度な魔術文明を継承するにふさわしい能力を持ち合わせていた。しかし、天は二物を与えず――身体が生まれつき丈夫ではなかったのだ。王太子がそのことを引け目に感じていることは、親である女王もわかっていた。
「あなたが不甲斐なかったらとうの昔に廃嫡しています。今もそうしていないのは、あなたこそルナティアの次の女王としてふさわしいと考えているからです」
「では、お母さまはソフィアに何をさせようと?」
「王国を二つに分割して統治する必要がある――私はそう考えているのですよ」
その王太子の問いに、女王はずっと秘めていた考えを初めて明らかにした。それを初めて聞かされたベアトリクスには思いもよらないことであった。
「王国を二つに分割するとは、どういうことですか?」
「実効支配できている領土と、できていない領土に分けるのです。現状の追認に他なりません」
ルキア火山を中心とする直轄領と、川を越えた先の高地の向こう側を分割統治する――それを聞いて、ベアトリクスは驚いた。統治といっても高地の向こう側は
「果たしてそんなことができるだろうか、と思うでしょう。私も不可能だと思っていました――あの
シャルル・アントワーヌと名乗った男性の騎士に対するソフィアの熱の入りようは最初姉としてどうかと思っていた。しかし、彼が手にしていた短剣にベアトリクスは少なからず興味を抱いた。
それだけにとどまらず、アルス・マグナによる数百年単位の研究でも動かすことができなかった古代の甲冑を、あの騎士はいとも簡単に動かしてみせた。それがどれほどすごいことか――名誉総裁である女王に代わって、アルス・マグナの総裁を務めている王太子にも衝撃を与えた事実だった。
ソフィアの熱は冷めるどころか、母である女王まで動かそうとしている。あの騎士が現れたことは、何か大きな出来事が起こる前触れなのかもわからない。
「私ですら、あの高地の向こう側を統治することができなかったのです。それがあなたにできますか?」
「いいえ、できるとは思えません」
女王を補佐して、国情を知りすぎていた王太子は首を振った。
「それでは、ルーナをベアトリクスが現状どおり統治し、あの高地の向こう側をソフィアに統治させたい――私がそう言ったら、あなたはソフィアに何をさせますか?」
私兵を抱えた豪族たちが支配する領域。百年近い間、王室による実効支配が及んでいない土地――そこをソフィアが治めていくには、必然的に軍備を整えなければならない。軍事力が弱体化しているこの国にとって、それが困難な歩みであることは王太子であるベアトリクスにもよくわかる。
「ソフィアは女王である
――あなたはソフィアに何をさせますか?
女王が投げかけたその問いかけに、ベアトリクスは迷いを捨てて、腹をくくった。
***
翌朝、王女ソフィアが求めていた演習場使用の裁可がおりた。王太子ベアトリクスの名において決裁された許可証がソフィアのもとに届けられた。
「王女様、ベアトリクス殿下より今しがたお手紙を頂戴しました」
「まあ……もしかして!?」
手紙と一緒に封のされた羊皮紙が届けられていた。手紙の封を切って読んだところ演習場の予定を押さえた旨と許可証を発行した旨が書かれていた。
「向こう一か月まるまる使わせていただけるのですね。これはお姉さまに感謝しなくてはなりませんわ。すぐに返事を書きます。紙と鉛筆をここへ」
ソフィアは姉への感謝の手紙をしたためると、許可証を届けに来た使者にそのまま返書を預けた。
――親愛なるお姉さまへ
演習場の使用許可証、確かに受け取りました。ありがたく頂戴いたします。
本当は直接ご挨拶に伺うべきところ、お手紙での御礼となりましたこと、お詫び申し上げます。
お姉さまよりいただいた貴重な時間を、わたくしは少しでも無駄にしたくはないのです。
新兵たちや
そして、お姉さまのご裁可が正しかったことを、わたくしはいつか世に示したいと存じます。
あなたの妹、ソフィアより――
「もうお城を飛び出していった、というのですか?」
返書を受け取ったベアトリクスは唖然とした。そして、妹の行動の速さに呆れた。身体が丈夫ではない自覚のある彼女には到底考え及ばないことだ。
人には向き不向きがある。
祭礼と高度な魔術文明を継承し、伝統を守っていく。それは王太子として一番学んできた自身がやっていく――その
しかし、機能不全に陥った統治体制を一新する。新しい人材を登用して、国力を増強し、国難を突破する――それだけの事業にはベアトリクスに代わるもう一本の柱が必要だった。
若くて聡明ながら、目の前の現実にとらわれずに信じた理想を追い求めるもう一人の王女であるソフィアが、その柱に育ちつつある。
(お母さまがおっしゃったことを実行に移す暁に、ゆくゆくはソフィアに軍旗を渡すことを考えなくてはなりませんね)
王族に伝わる固有魔術とそれを発動させるための軍旗をソフィアに渡す――つまり一時的であっても軍権をソフィアに委譲する瞬間がいずれ来ることをベアトリクスは感じ取っていた。
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