第3話 洗礼と騎士叙任式(2)
ルナティア国教会は建国の祖とされる月の女神セレーネを主神とする教派であり、女神の子孫とみなされる歴代女王を名目上の最高位である首長に戴く教団である。王国の祭祀とも結びついており事実上の国教というべきものであった。
国教会の総本山である主教座聖堂が王城から少し離れた丘の上に
女王に次ぐ序列で事実上の最高位となるルーナ総主教が主教座とするこの
国教会では礼拝堂のすべての窓と扉を締め切って真っ暗闇を作り出したなかで典礼を行う。すると特殊な顔料で絵画を描いたドーム型の天井があたかもきらめく星空を映したかのように光りだすのだ。礼拝堂の正面には彼が教会で見た十字架のように王室の祖先とされる女神セレーネの聖像が掲げられていた。このようにして月の女神が地上に降り立った聖なる夜を再現するのである。
聖像の前に祭壇があり、その前に今日の典礼をつかさどる神官が立っている。彼女の手には小さな壺があり、祭壇にあるより大きな壺から掬い取った聖水で満たされていた。その前にひざまずいているのが『カロルス・アントニウス』ことシャルル・アントワーヌである。
質素な麻の服をまとい清められた聖水を頭にかぶった彼は神官が述べる祈祷文にじっと耳を傾けていた。時折それに合わせて祈りの言葉を唱える必要があるからだ。
「カロルス・アントニウスよ、汝に月の女神様のご加護がありますように」
「――わが身は女神とともに」
彼が短い祈りを唱えると、聖歌隊が厳かな祈りを歌った。礼拝堂の丸天井に単旋律の聖歌が跳ね返って響き渡る中、神官が手にしていた杖を掲げるとその先端に光が集まっていった。その光はあたかも月光のように淡く蒼いものであった。その杖の先端を彼の頭上に掲げた神官が祈祷文を述べた後、こう言葉をかけた。
「カロルス・アントニウスよ、汝は月の女神様の
「――わが身は女神とともに」
その祈りを唱えて洗礼式が終わった。すべての窓と扉が一斉に開け放たれて、暗闇に慣れた目が眩んだ。
(この瞬間から俺は国教会の信徒になったというわけか)
これまでの信仰を捨てて、新しい信仰を胸に生きることになる。それを妨げる異教徒がその前に立ちはだかったとき、彼は新しい神の
シャルルの新しい相棒となった長剣は鞘に納められ、女神セレーネを奉ずる祭壇の前に捧げられていた。午前の洗礼式に続く午後の騎士叙任式でソフィア王女の手から受け取ることになっている。
「おめでとうございます、シャルル様」
祭壇を見つめていた彼の真後ろから声をかけた者が誰か、見るまでもなくわかる。
「女神の祝福を得たよりも嬉しい祝福をありがとう、エレーヌ」
振り返った彼がそのように応えると、銀髪の淑女はにこやかな笑みを浮かべた。
「まあ、すっかり仲良くなったようですわね、お二人とも」
「……っ! 王女様……」
見つめあうシャルルとヘレナの脇からソフィアが割り込んで声をかけてきた。
「わたくしからも祝福いたしますわ。シャルル」
「お言葉痛み入ります、ソフィア様」
「あら、わたくしの祝福は女神様のそれよりも軽いのですか?」
「そのようなことは申しておりません。本日、このような晴れの日を迎えられたのはソフィア様のご尽力によるものです。謹んで御礼申し上げます」
恭しくひざまずいた彼を見て、ソフィア王女は満足そうに微笑んでいた。
***
午後は博物館へと場所を改めて、騎士叙任式が執り行われる運びとなっていた。王国の騎士ではないという理由のため、王城での華やかな式典の挙行は見送られたが、このひと月ほどで彼が縁した人々が式典に参加すべく、博物館に足を運んだ。
「おめでとうございます、師範」
「おめでとう、騎士殿。これで名実ともに騎士を名乗れるな」
「ありがとうございます、お嬢様、アグネア殿」
シャルルに声をかけてきたのは軍服を着たオクタウィア・クラウディア、アグネアことラエティティア・クラウディアの二人であった。その後ろにはクラウディア氏族の最有力者でもある第二軍務卿ユスティティア・クラウディアの姿もあった。
「軍務卿のおかげで
第二王女ソフィアがお辞儀をしてユスティティアを迎えた。それに軍務卿もお辞儀をして応えた。
「カロルス・アントニウス殿の話は娘と妹から聞き及んでございました。妹が世話をしている他家の子女たちも娘と同じように彼から剣技を学んでいると聞き及びます。良い刺激になっているようで、近頃は娘も一層修練に身が入っております」
「ご令嬢の剣術師範としてシャルルを雇っていただいてありがとうございます」
「時が来れば正規軍にも彼を加えたく存じますが、なにぶん今は政治的に難しい情勢でございます。このような決定となりましたが、どうかご容赦くださいませ」
まもなく王太子ベアトリクスがアルス・マグナの研究者たちの代表とともに博物館を訪ねた。その手には丁寧に封をされた羊皮紙が握られていた。
「おめでとうございます、騎士殿っ」
「……!?」
聞き覚えのある甲高い声に振り向いて、彼は絶句した。伸ばしっぱなしの傷んだ髪を切ってきちんと身嗜みを整えた少女がそこに立っていたからである。
「……君は、カリス・ラグランシアで合っていたかな」
「なんですか、そのいかにも『
「ぼさぼさの髪をしているものだと思っていたから、驚いてしまったのさ」
「あれは……私の願掛けが叶ったので、髪を切って女神様に捧げたのです」
「あんなボロボロになった髪を女神様が喜んで受け取るのか?」
「わかっていませんね……願掛けなので過程が大事なのですっ! ああなるまで髪を切らずに伸ばし、それでも祈りが叶うまで切らないとの誓いを初志貫徹してやり通すからこそ女神様は讃嘆なさるのですっ!」
一種の禁欲的な苦行をやり切ったということなのだろう――シャルルはそのように理解して美しく切りそろえられた髪を撫でてやった。
「髪は女の命だからな。ゆめゆめ粗末にするんじゃないぞ」
「なっ、勝手に撫でないでくださいっ! ムキャーッ!!」
わっと毛を逆立てた猫のように彼をにらみつける少女を適当にあしらったシャルルは王太子ベアトリクスに向かってお辞儀をして迎えた。
「ご機嫌麗しゅうございます、王太子殿下」
「シャルル・アントワーヌ殿、いいえ……カロルス・アントニウス殿、この度はわたくしたち姉妹からの提案を受けてくださり、ありがとうございました」
「こちらこそ、両殿下やその他の皆様のご尽力に感謝申し上げます」
役者が勢ぞろいしたところで、ソフィアの使用人たちがシャルルの長剣を屋根の開いた神殿に運び込み、騎士叙任式の挙行と相成った。この場所を選んだのは儀式の一方の当事者であるソフィアであった。
奢侈でない儀式とはいえ青空が見える場所を選んだ王女に対して、第一軍務卿メガイラをはじめとした王侯貴族たちの中には「蝋燭の費用もかからない
王城や国教会の礼拝堂よりも、機動甲冑を千年ぶりに動かした場所である神殿のほうが象徴的な意味合いを持っており、アルトリウス以来の
「女王陛下の名代として、わたくしベアトリクス・ディアナ・アルトリアがここに宣言いたします」
騎士叙任に先立ち、王太子ベアトリクスが王国としての決定事項を述べることになっていた。彼女は丁寧に封のされた羊皮紙を開いて、以下の通り読み上げた。
「帝国と王国の先例に
ルナティア王国においては厳密な文書管理が行われており、公的な決定事項はすべて公文書に記録される。この結果、彼にカロルス・アントニウスという公的な名前が与えられると同時に『資格者』という新たな地位が確立されたことを意味していた。
「汝はこの地で
「謹んで拝領申し上げます」
ベアトリクスが読み上げた羊皮紙をシャルルは恭しく受け取った。それを傍らで一歩下がって待っていたヘレナが預かって大切にしまった。それを待って、もう一人のソフィアの侍女である金髪の女性、イリニ・リディアが透き通った声でこう言った。
「続いて、騎士叙任式を執り行います――カロルス・アントニウス殿」
「はっ!」
公式な名乗りで呼ばれた彼はソフィア王女の前にひざまずき、深く首を垂れた。
白を基調とした正装のドレスで臨んだ王女ソフィアは、洗礼式で祭壇に祀られていた長剣を使用人たちから受け取った。鞘から剣を引き抜いて両手で柄を握りしめると、抜き身の剣の平で彼の左右の肩を交互にそっと叩き、こう宣言した。
「わたくし――第二王女ソフィア・ディアナ・アルトリアは、汝――カロルス・アントニウスをわが騎士と認めます」
凛とした声が
(もう後戻りはできない。前に進むだけだ――あらゆる妨げもすべて叩き斬る!)
信じるもののために剣を取る。それこそわが生涯にふさわしい。
たとえ仕える主が替わっても、信じる神さえ替わったとしても、この有り様だけは終生変わることはないであろう――その誇りこそ彼の
「ソフィア王女殿下の剣として、わが身命を捧げてお仕えすることを誓います」
胸の奥に秘めた決意を吐露し、その場で立ち上がった彼は、鞘から剣を抜き放って天に高く掲げるとこう叫んだ。
「――わが身は女神とともに!」
その叫びは遮るもののない大空へと消えていく。しかし真っ白い噴煙を噴き上げる火山がごとく、その
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