第20話 二艘の川舟

 アルス・マグナでのやり取りからおよそ一時間ほどで日没を迎えた。

 王城の車寄せにはソフィアの侍女イリニが手配した馬車が用意され、それに乗った彼は王太子と王女の姉妹からお見送りを賜った。出身も不明な無名の騎士でしかない彼が受けた歓待としてはあり得ない出来事である。

 馬車は外国からの客人を迎える住居のある一帯を通り、その一角で彼と布で包んだ長物を下ろすと走り去っていった。


「おかえりなさいませ、シャルル様」


 馬車を降りた彼を迎えたのは銀髪の後ろ髪を結った美しい淑女である。


「ただいま、エレーヌ。出迎えに来てくれてありがとう。今日は疲れたよ」

「確かにお顔に疲労の色が見えます。少しお休みになりますか」

「そうだな……心がほぐれるようなお香を焚いてもらいたい」

「かしこまりました。まずは中にお入りください」


 銀髪の侍女ヘレナが先導して彼を邸宅に導く。彼女のほかに何人かの使用人が邸宅のなかで忙しく動いている。そのうちの一人をヘレナが呼び止めた。


「クロエ、洗濯したシーツを取り込んでください。騎士様がいつでもお休みになれるように寝具の準備をお願いします」

「はい、かしこまりました」


 配下の使用人たちにテキパキと指示を出すヘレナは頼もしい。中庭に面した応接室で彼がくつろいでいたところにヘレナがお香を焚いて持ってきた。


「気持ちが安らぐいい匂いがする。ありがとう」

「どういたしまして。今日は博物館まで歩いてお出かけになりましたけど、お帰りは王城の馬車でございましたね。王城で何かあったのですか」

「君が察しの良い侍女で助かるよ」


 シャルルは博物館での出来事をヘレナに打ち明けようと口を開いた。


「選定の剣というものを君は目にしたことがあるか」

「はい、博物館にある抜けない剣のことですよね。見たことがございます」

「その抜けない剣を抜いちまった。俺がそう言えば君はどう答える」

「……え、見慣れない包みがあると思いましたが……まさか」


 シャルルが包みの中から長物を取り出す。きらびやかな装飾が施された剣が現れ、その輝きにヘレナは目を丸くした。シャルルは刀身を保護する皮布から半分ほど刀身を引き抜いた。


「これが選定の剣だそうだ。きれいな刀身をしてるだろう」

「まぁ、これを抜いてしまわれたのですか」

「でなけりゃこんなところに剣を持ってくるわけがねぇさ」


 シャルルが手渡した剣を大切に受け取ってヘレナが刃を観察した。


「このような刃は初めて目にします……これは特別な加工がなされているようです。私にもわかりません」


 刃物の扱いに手慣れた使用人であるヘレナでも作りがわからないという。今度は聖剣を皮布ごと立てかけて全体を眺める。かなり大きめの大剣であった。


「アグネア様に先日いただいた剣よりもかなり長いでしょうか」

「ああ、こいつは両手剣ほどの大きさがある。こんなに装飾がある剣なんて実用には堪えないだろうがね」


 からからと笑うシャルルの傍らでヘレナは戸惑いをほんの少し垣間見せていた。


 その日の晩餐はいつものように白身魚を蒸したものとライ麦パンであった。だが、不思議と食欲がわかなかった。


「食がお進みにならないようですが、いかがなさいましたか」

「いろいろ気疲れしたのかな、あんまり食欲がわかねぇんだ」


 博物館で剣を抜いてから王城に登城してアルス・マグナまで見て回ったのだ。その間なにも口にしていない。本来はおなかが空いて仕方ないはずなのに食が進まない。それを見逃すヘレナではなかった。


「申し訳ございません、もっと早く私が気付くべきでした」

「気遣ってもらってありがたいけど、気にしないでくれ。ちゃんと食べるから」


 一所懸命に作ってくれた食事を口にしないのは彼女に悪い気がしたので少し時間をかけて食べ切った。


(砂を噛んで食べているようだった。なんだろう……俺の味覚がおかしいのか)


 妙な違和感が残っている。疲れのせいかもしれないと思いつつ、彼は応接室の長椅子に横になって、少し体を休めることにした。

 おなかが満たされたせいか、急に眠気が襲ってきた。











 気づいた時、彼はまた違う場所にいた。

 しんと静まった白い闇の中、突如として紫電が疾る。

 刹那、彼の脳裏に直接割り込んでくる得体の知れない気配を感じた。


 ――誰彼……、汝……誰……


 底冷えする『こえ』。

 閉じた瞳を開くことを直感的に拒む。

 戦場で培ってきた彼の野性的な本能が告げた。見るな、と。


 ――誰彼……


 されど、自らの魂がまるで芥子粒けしつぶほどに思えるほどの強権的な問い。

 応えぬのであれば消し飛ばされると直感し、問いかける存在の強大さを察する。

 震えるままに目を見開けば、巨大な鋼の人馬獣が彼の眼前に屹立していた。


 ――新たな……力有る……星……真理……


 闇の中、彼の眼前にそびえる巨像は、目に見えるよりも遥かに巨大な物に思えた。

 いや……この巨像も巨大だがそれ以上に違う何か、計り知れない別の存在の気配も彼は感じていた。

 『これ』は……なんだ? なにが、ここにいるんだ?


 ――力……汝、王……剣、吾……求……示す……


 放たれる巨人の言葉は古く、重い。まるで言語が質量を持っているように思えた。

 かろうじて聞き取れる単語は彼にとってはどこかで覚えのある音。

 そうして認識した言葉に命ぜられるがまま、いつの間にか腰に挿していた形見の短剣をゆっくりと拔く。


 ――力、持つ……汝……名……天魔……悪……善……超克……


 阿頼耶あらやよりで、那由他なゆたの果てまで届くような言霊。

 世界の極点、天の彼方すら越えた先を示す単語の羅列の内の一つに組み込まれるのか。

 怯え震える魂を奮い立たせ、彼は応える。


 ――いいだろう。我が名は、カロルスシャルルアントニウスアントワーヌ


 直後。白い闇が収束を始める。

 視界は奪われ、目に映る景色が巨大な手に握り潰されるかのように歪み、あらゆる認識が瞬間瞬間で失われていく。

 その僅かな一跨ぎの刹那の中で彼は確かに見た。

 『なにか』がそこにいたのだ。

 あれだけ巨大に見えた人馬獣すらちっぽけに思わせる『なにか』が――。











 ――シャルル様、起きてください。シャルル様ッ!


「……はっ」


 彼を見下ろしているのは澄んだ青紫色ヴァイオレットの瞳。銀髪の淑女が彼の意識を引っ張り上げたのであった。


「すごい汗をかいていらっしゃいますよ。大丈夫ですか?」


 彼女の顔が眼前に迫ってくる。

 いきなり大胆な――と思ったら、彼女は額を重ねて目を閉じた。


「熱はございませんね。こんなところでお休みになってはお体に障りますからどうぞ寝室でお休みになってください」

「すまねぇ、君が食事を終えるのを待つつもりだったが眠っちまったようだ」

「えっ……ご入浴なさるおつもりですか」

「ほとんど身体を動かしてねぇのに疲れが溜まってるみたいでさ……またおぼれてはかなわないからな。そばで見守っていてほしいんだけど」

「はい、かまいませんよ。今、飲み水をお持ちいたしますね」


 お肌の触れ合いの遠回しな誘いにほんの少し頬を紅くした彼女が頷いた。

 それから水を摂って浴室に入り身体を最低限清めた後、半身浴でこわばった身体を温めた。傍らには湯浴み着を着たヘレナがずっと手を握って付き添っていてくれた。


「エレーヌの機嫌がよいみたいだ。何かいいことがあったのか」

「え、いつも通りですが」

「朝はどこか君の顔が晴れなかった気がする」

「お見通しでしたか、ふふふっ……私もまだまだですね」


 シャルルの武官登用が認められなかったと聞いて胸を痛めていたと明かされた。


「今日は天気が良く洗濯した服もシーツも気持ちよく乾いたので、いつの間にか私の気持ちも晴れたのでしょうか」

「それはよかった。笑顔の方が君には似合ってる」


 機嫌のよい使用人の手を軽く握ると、彼女も握り返してくれた。


「今日、王城で何があったのかお聞きしてもよろしいでしょうか」


 彼は頷くと今日一日の出来事のあらましを語った。

 それを最後まで聞いた彼女はこう言った。


「これでシャルル様のお立場がより確かなものとなるでしょうね」

「そうかい」

「今日まではソフィア王女様にご縁のある食客のお立場でございました。今日からはアルス・マグナの研究に携わる当事者となられました。陛下と両殿下から直接必要と認められたお立場です」

「今後はアルス・マグナに呼ばれる機会が増えると思う」

「ええ。おそらくはそれにとどまらないかもしれません」

「どういうことだよ」

「そのような方を食客として留め置くわけにはゆかないでしょう。この王国の臣民、もしくは騎士として地位を与える――そんな日も遠くはないかもしれません」

「そっか……そうなればもっと君と一緒にいられるかもしれないな。エレーヌ」


 髪を撫でようとする彼の腕を、使用人がそっと掴んだ。思いもよらぬ反応に、彼は目を丸くする。


「シャルル様にお願いがございます」

「なんだい」

「その……毎夜あまり激しくされてしまうと、翌日の仕事に支障が出て困るのです」

「そっか……悪かった」


 白いうなじが真っ赤に染まっている。抱き寄せたくなる気持ちを押さえて居たたまれなくなった腕を下ろそうとした。


「……なので、控えめに甘えてもよろしいでしょうか」


 彼女の方から手を握りしめてくる。


「もう少し控えてほしい、と言ったわりには積極的になったね」

「それとこれとは違います。程度が過ぎると支障が出るので困る、というだけです」

「では、ちょうどいい塩梅あんばいを探ろうか」


 手をつないでイチャイチャしているうちに、結局今夜もいい気分になって――また寝床で愛し合ってしまった。


 ***


 翌日、いつもと変わらぬ時間に目を覚ましたシャルルは昨晩の残り香とともに朝の澄んだ空気を吸い込んだ。


「おはようございます。シャルル様」


 シャルルが起きた頃にはヘレナは既に目を覚ましていた。


「おはよう、エレーヌ。今日は早いね」

「いいえ、これが普通です」

「どうしてまだ寝床の中にいるのかな」

「お日様が昇るまでは使用人ではないからです」

「そうだった。お日様が昇るまでは俺の恋人だ」


 外はまだ薄暗い。空が漆黒から明るくなりつつはあるが、あと一時間くらいはあるだろう。


「シャルル様と同じ寝床の中に私がいられる時間は、そう長くない気がいたします」


 不意に彼女がつぶやいた。意図をつかみかねたシャルルは沈黙したまま、穏やかな笑みを浮かべる彼女の目を見つめる。


「人は変わっていくものです。今はたまたまシャルル様と私が近いところにいるだけかもしれません。別々の二艘の川舟に乗った二人がたまたま舟が隣り合って触り合えるところにいるだけかもしれない……そんな気がします」

「起き掛けにいきなり寂しいことを言うなよ」


 白い頬を撫でる手に、彼女が手を重ねてくる。


「シャルル様はきっと私がずっと独り占めできるような方ではないのです。私は王女様にお仕えする侍女のひとりに過ぎませんから」

「俺だって今はひとりの食客に過ぎないんだぜ」

「今はそうかもしれません。しかし、あの聖剣を抜いてしまった以上、シャルル様を周りが放っておかれるわけがないのです」

「そんなに大変なことをしたのか、俺は」

『資格者』ソードホルダーアルトリウスが最後に抜いたという聖剣をお抜きになったのです。やんごとなき血筋をお持ちの方と思われるに相違ございません。もしかしたらこれを機に王国の騎士として登用されるやもしれないのです」


 根を持たない流浪者である彼がこの国で地位を得ることそれ自体は好ましいことであった。しかし、ヘレナの口調は喜ばしいものには思われなかった。


「シャルル様が王国の騎士として武功を重ねれば、この王国に無くてはならない御方として地位を固めることができるでしょう。そして、あなたの地位に見合った家柄の方をめとられるでしょう。いずれシャルル様が私の手の届かない御方になってしまうような気がしてなりません。でも――」


 つぶやいた彼女が手を握りしめてきた。


「それは今ではありません。だから、今だけでもシャルル様のお側にいたいのです」


 つないだ手を握りしめる。どんな言葉も無力に思われてそうすることでしか彼女に寄り添うことができないようだった。


「ありがとうな、エレーヌ」

「なんです、急に」

「いや、なんというか……君の愛の深さを知った気分がしたんだよ」


 もう少し、君の人肌であったまりたいんだ――とシャルルはヘレナを抱きしめた。


 それからしばらくして日の出を迎えた。ヘレナは使用人として仕事を始めた。シャルルは先ほどのヘレナの言葉が胸につかえたままだった。


 ――人は変わっていくものです。


 そう、変わらないものは何一つない。ついこの間まで、彼は偉大な父とともに戦場を駆け巡った近衛騎士で彼らを統率する立場にあった。彼の伴侶となるはずだった幼馴染もいた。それらを全部手離して、身体ひとつで見知らぬ世界にある見知らぬ国に流れ着いた彼にはあきらめにも似た悟りがある。


 ――変わらないものなんて何一つねぇんだ。


 だが、変えるわけにはいかないものがある。

 自分が自分を見失わずほかの何者でもない自分であり続けるために――。

 ありのままの自分を理解し、受け入れてくれる存在が必要だ。

 少なくとも、今の自分には。


 ――俺には彼女エレーヌが必要だ。


 この先自分がどうなっていくのか、先のことはわからない。

 この世界をあまりに知らなすぎる自分にこの世界で生きていくだけの自信を与えてくれる存在エレーヌをずっと傍らに置くために――。


「やってやろうじゃねぇか。俺にできる限りのことを」


 迷いを振りきったシャルルは邸宅の中庭に出た。アグネアからもらった新しい長剣あいぼうをその手に握りしめ、朝の澄んだ空気の中で汗を流したのである。

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