災厄の誕生

「今の内に眠らせておいたほうがいいかも知れんな」


「ですが、そんなことをしたら、ゾウたちが無防備になってしまいます」


「ああ、もしもの時に逃げられなくなるだろうな。だが、人命には代えられん」


 西田にしだを説き伏せ、中野なかのは別の隊員に声を掛ける。

 白衣を着ていると言うことは、科学班の人間だろう。


「中野隊長、何か?」


 白衣の隊員は小走りで反転し、後方の中野に近付く。

 中野はいかめしく眉を寄せ、白衣の隊員に何かを告げた。


 西田とのやり取りを踏まえるなら、動物用の麻酔を用意させようとしたのは間違いない。


 ただ、実際に何と言ったのかは分からない。

 一番近くにいた西田にも、中野の声は聞こえなかったはずだ。


 中野が口を開くと同時に、ゾウが鳴いたから。


 苦しげな咆哮が轟き、人々の声を、スピーカーの音を掻き消す。

 茜色の空が震えると、園内のハトが一斉に飛び立った。


 人々は合図を受けたように黙り込み、ゾウに視線をうつす。

 途端にゾウは歩みを止め、うつろな視線を空に向けた。


 一回、二回とゾウの喉が震え、シワだらけの巨体が痙攣けいれんを始める。

 同時に口角から赤い泡が噴き出し、檻の外にまで飛び散った。


 瞳は限界まで開き、血の涙を垂れ流している。

 時折漏れる苦悶の声は、哺乳類と言うより爬虫類に近い。


 いや、爬虫類と言うより、金属がこすれ合っているかのようだ。


 明らかに異常事態だが、行列の人々は身動き一つしない。

 あれほど鳴り響いていたシャッター音も、きれいに途絶えてしまった。


 スマホの上に浮いた手は、どれも固まっている。


 硬直しているのは、〈3Zサンズ〉の隊員たちも一緒だ。

 遠くから眺めたら、大量の蝋人形にしか見えないだろう。


 一般人とは異なり、〈3Zサンズ〉の隊員たちはハエの存在を知っている。

 ゾウの身に何が起きているのかは、薄々予想出来ているはずだ。


 ただ、予想出来るからと言って、圧倒されないとは限らない。


 原因を知っているからこそ、絶望的な現実に言葉を失ってしまうこともある。


 棒立ちの人々を尻目に、ゾウは高々と鼻を突き上げる。

 瞬間、首の付け根からピンクの液体が染み出し、シワに沿ってしたたり落ちた。


 十中八九、酵素こうそによって溶かされた肉だろう。


 濡れた雑巾。


 そう、濡れた雑巾を、壁に叩き付けたようだった。


 ずるずると音を立て、ゾウの頭が首を滑り落ちていく。

 生首が地面に落ちると、低く土埃が舞い上がった。


 司令塔を失った胴体は、横っ腹を押されたように倒れ込む。

 すぐに重苦しい震動が発生し、ゴミ箱やベンチが何回も弾む。


「きゃあ!?」


「うわ!?」


 行列から複数の悲鳴が上がり、女性や子供が座り込む。


 ペンギンのプールは獰猛に波打ち、雨のように飛沫しぶきを散らした。

 普段は穏やかな水面が、まるで大時化おおしけの海だ。


 当然、生首も震えている。


 震えているが、揺れるリズムは他のものと違う。


 人間やベンチは縦に揺れているが、生首だけは横に揺れている。


 恐らく、生首をぐらつかせているのは、外部の震動ではない。

 生首に潜む「何者か」が、内側から揺り動かしているのだ。


 推測が正しいことを裏付けるように、生首の付け根が盛り上がっていく。

 ぐじゅぐじゅと水っぽい音が鳴ると、切断面から崩れた肉がこぼれ落ちた。


 次々とミンチが押し出されていく様子は、ひき肉用の精肉機そのものだ。

 当分、ハンバーグは食べられそうにない。


「な、何なんだよ、アレ……!?」


「ゾ、ゾウさんの首が……!?」


 異様な光景を見た人々は、一斉に目を見開く。


 夕陽から差す光は真っ赤だが、みんなの顔は死人のように青白い。

 何人かは卒倒し、家族や恋人に抱きかかえられている。


「お、落ち着いて下さい! 止まらずに歩いて!」


3Zサンズ〉は必死に呼び掛けながら、行列の周りを跳び回っている。


 しかし隊員たちの声がれても、人々の足は動かない。


 来園者を誘導すべき警官や係員さえ、見事に固まっている。


 どうやら真実を伝えなかったことが、裏目に出てしまったらしい。

 突然、ゾウの頭が落ちたら、職務を忘れても仕方ない。


 人々が右往左往している間も、ゾウの生首はミンチを作り続ける。

 やがて一際ひときわ大量の肉が溢れると、切断面からハエの頭が突き出た。


 ハエは右に左に身体をよじり、邪魔な肉を掻き分ける。

 そして生首の外に這い出すと、畳んでいたはねを広げた。


 T字型の頭や長い尾は、今までの個体と変わらない。

 極端に細い胴体や、触手のようなあしも、前に見たハエと一緒だ。


 ただし一つだけ、今までとは決定的に違うところがある。


 そう、サイズだ。


 スーパーヘビー級のゆりかごで育まれた頭は、マンホールのフタより大きい。

 限界まで離れた複眼と言ったら、丸々育ったスイカのようだ。


 尾の先端にある突起にしろ、もうトゲと言っていい代物ではない。


 物々しく無骨な雰囲気は、さしずめ薙刀なぎなた

 卵を産み付けられなくても、刺されただけで致命傷だ。


「あ、あれ、何……?」


「ほ、本物の生き物……?」


 人々は声を震わせ、図鑑でもテレビでも見たことのない生物を凝視する。


 本当の緊急事態に陥った時、咄嗟とっさに動ける人は少ない。


 大半の人は口を半開きにし、ひたすら待つだけだ。

 一時的にダウンした思考が甦り、危機を告げる瞬間を。


 ベベ……ブブブ……!


 早速、卵を産む相手を吟味しているのだろうか。


 ハエはしきりに首を動かし、園内を見回す。

 その最中、思い立ったように尾を振り上げ、地面に叩き付けた。


 ズドン! と爆撃のような音が鳴り、砕けたコンクリが乱れ飛ぶ。

 粉塵は空にまで達し、ハエの周囲を灰色に濁らせた。

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