女児の目に光は必要ない
「おい、さっさと駆除しろ! やかましくてたまらん!」
ディゲルは両耳に手を当て、〈サティ〉を
防護服越しに耳を押さえる姿は、極めて間抜けだ。
「くー
ケタ違いに大きいと言っても、相手はハエだ。
害虫用の殺虫剤なら、ある程度は効果を発揮するに違いない。
特に窓のない地下室なら、ワンプッシュ系の実力をいかんなく発揮することが出来る。
「とっくに使い果たしちまったよ!」
ディゲルは声とつばを吹き散らし、スプレー缶をかまくらの外に放り投げる。
すぐに極細の斜線が降り注ぎ、落ちたばかりのスプレー缶を貫いた。
「使い果たした!? あれ、二〇〇日用だったよね!?」
「えぇい! 過ぎたことをグダグダ抜かすな! 女々しい奴め!」
ディゲルは顔を真っ赤にし、だだっ子のように腕を振り回す。
〈サティ〉には全く理解出来ない。
自分の何十倍も生きているくせに、なぜこうも
三歳児だって、もう少しは精神年齢が高い。
「まったく、日本人は本当に陰気だな! これだから、日本は好きになれん! もう日本の全部が大嫌いだよ!」
典型的なヘイトスピーチだが、ディゲルのスマホは高らかに歌っている。
日本の企業である
「……スマホ、鳴ってるよ」
〈サティ〉は何度も聞いたことがある。
機嫌をよくしたディゲルが、「チョッコレート♪」と口ずさんでいるところを。
ちなみにスマホの壁紙は銀のエンゼルで、ツイッターのアイコンはキョロちゃんだ。
もう言うまでもないが、ディゲルは日本を、日本のチョコをこよなく愛している。
嫌い嫌いと連呼するのは、素直になれないオ・ト・メの強がりだ。
実に微笑ましい話だが、今は道徳的に正しい振る舞いが求められる時代だ。
一昔前ならツンデレで許される言動も、ポリコレ勢に目を付けられかねない。
社会から抹殺される前に、排他的な言動は直したほうがいいだろう。
「このクソ忙しい時に、どこの大バカ野郎だ!」
ディゲルは一回床を叩き、首から
「取り込み中だ! 後にしろ!」
「何や、えらい剣幕やなあ」
スマホから漏れ聞こえてきたのは、若い男の声。
インチキな関西弁に、〈サティ〉は聞き覚えがある。
瞬時に全身を埋め尽くした鳥肌と言い、急激な吐き気と言い、間違いない。
「
ディゲルはスマホの画面に触れ、ハンズフリーに切り替える。
すると今までは細々と漏れていた声が、大音量で鳴り始めた。
「実はいいお知らせと悪いお知らせがあるんやけど、どっちから聞きたい?」
「いいお知らせ」
ノータイムで答えると、ディゲルと声がハモる。
これ以上、追い込まれるのが嫌なのは、ディゲルも同じようだ。
「お、スズリンやないか! 元気しとるか?」
四風はわざとらしく声を弾ませ、きゃっきゃと笑う。
電話の向こうでは、手くらい振っているかも知れない。
「それなりにね!」
〈サティ〉は語尾を噛み切り、急いで歯を食いしばる。
直後、今までで最大の震動がかまくらを襲い、派手に黒い破片が飛び散る。
口を開いたままだったら、完全に舌を噛んでいただろう。
実際、ディゲルは口角から血を流し、のたうち回っている。
「何や、それは残念やなあ。目に光のある女児なんて、何の魅力もあらへんで」
「熱く語ってるとこ悪いが、さっさと本題に入ってくれないか? こっちはもう、脳味噌がシェイクになりそうなんだ」
インターバルのない震動のせいで、ディゲルの頭は激しく上下している。
荒々しいヘッドバンキングには、ヘビメタバンドのボーカルも腰を抜かすだろう。
幸い〈PDF〉の仮面には、装着者の
防護服のディゲルはともかく、〈サティ〉が首を痛める心配はない。
「相変わらずせっかちやなあ、ディゲルはんは」
はんなりした言い方からは、そこはかとなくぶぶ
もっとも、四風は京都出身ではなく、東北出身だが。
「被害者と一緒に、肝試しした男が分かったで」
「何っ!? どこのどいつだ!?」
ディゲルは興奮し、スマホに顔を近付ける。
ロケットのような鼻息は、防護服のバイザーを真っ白に曇らせた。
「
「どこだ!? そいつは今、どこにいる!?」
ディゲルは両手でスマホを握り締め、
四風が目の前にいたら、確実に胸ぐらを掴んでいただろう。
研究所に足を踏み入れた二宮には、ハエの卵が産み付けられている可能性がある。
一刻も早く、身柄を確保しなければならない。
万が一、人混みでハエが孵化したら、街は大パニックに陥る。
複数人に卵を産み付けられることでもあれば、ネズミ算式に被害が拡大していくだろう。
「悪い知らせってのがそれや。二宮はん、昨日から行方をくらませとる」
「行方不明だと……!?」
「友達やバイト先にも当たってみたんやが、だ~れも行方を知らへん」
「既にハエを産み落としたか……!」
ディゲルは悔しさに顔を歪ませ、唇を噛み締める。
血管の浮いた手は、痛々しくスマホをきしませていた。
「更に悪いことに、二宮はんは最近、清掃員のバイトをしとったらしい」
「おい、悪い知らせは二つあるのか!? 聞いてないぞ!」
ディゲルは犬歯を
「そない都合よく、朗報と悲報の数が釣り合うわけないやん」
四風はせせら笑い、不機嫌そうに言い返す。
スマホの向こうでは、子供っぽく唇を尖らせているはずだ。
「……って言うか、掃除のバイトをしてたことが、そんなに問題なの?」
「掃除しに行ってた場所が問題なんや」
「……場所?」
「動物園や」
四風の言葉を聞いたディゲルは、目を口をぽっかり
その後、倒れ込むように前傾し、額をスマホの液晶に押し当てた。
どうやら、ちょっとしためまいに襲われたらしい。
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