追憶
古根
1
人間が正常であるかどうかを人間自身が判断することはできない。なぜなら人間を作ったのは人間自身ではないからである。
そんな持論を僕の前で語った彼は、それからしばらくしないうちに彼の自宅で命を絶った。けれど、より正確に言えば、彼はこの世界の肉体を捨てて、より高い次の世界へ旅立ったのかもしれない。
生前に僕の担任の教師であり、VRチャットルームでのフレンドでもあった彼は、自身の人格や、記憶などを含め、脳内の生体情報を機械の上に吸い出して、コンピューター上に構築した彼の記憶――思い出の世界のなかで生きることを選んだ。彼の肉体は、生体情報を抽出するために脳の組織が破壊された状態で、鼻の穴から血液か脳漿か判然としない液体がだだ漏れる彼を発見した僕は、その後二日ほどまともに食事を摂ることができなかった。
救出のために彼の世界へのアクセスを試みた柏木という女性はのちに、僕に彼の世界での彼の心理状態について話してくれた。
「思い出に浸り込んで生きていくことは、悪なのか?」
自身の領域に踏み込まれ、半狂乱になった彼は、ただそんな旨の言葉を延々と叫び続けていたという。
彼が生前いっていたように、彼自身が正常であったかどうかなどはもう今の僕には判別のしようがなかったけれど、正常であることが外界からはともあれ、その人間自身にさえわからないという彼の持論は紛れもなく真実ではあったのかなと思う。一般的にいわれるような「正常である」状態のマージンに彼が問題なく収まっていたかどうかと問われれば、彼はきっと片足を踏み外した状態で正常である世界の人間としてふるまおうと努力していたのだろうし、正常でないものさしで正常であろうとすることは、はなから正常になどなり得ない状態だったのだろうと思うわけで、結局、僕にはもう正常でない彼がなにを考えていたのかよくわからなかった。
*
僕の食欲が一般的な男子高校生並みにまで回復して数日後、僕のもとへ一通のメールが届いた。送り主は柏木さんで、本文には短く、亡くなった彼に会いたいかどうか、問いかける旨の文句が一行だけつづられていた。そのとき僕は数秒間だけ逡巡して、それから肯定の意思と、彼女はそれほど清い仕事をしている人間ではなかったから、落ち合う日時と場所を問う文句を書いて柏木さんのアドレスにメールを返信した。
追憶 古根 @Hollyhock_H
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