3話 12歳・3

 死神はしばらく復活しなかった。

 部屋に辿り着いたときの態勢のまま、床に転がって完全にのびている。

 仰向けに転がり、顔を腕で隠して、肩で息をしていた。誰か呼ぼうかと聞いたが、いつものことだから大丈夫だと小さな声が返ってくる。

 大人にそう言われれば、そんなものかと納得するしかない。

 大丈夫というならもう放って帰っても良かっただろう。

 しかし、こんな状態の人を、ここにいて何もできないとはいえ置いて帰るのは気が引けた。帰るに帰れなくなり、障子で閉めきられた薄暗い和室の隅に座り込む。

 エアコンで部屋の中は随分涼しくなった。あとはこの薄暗さをどうにかしたい。しかし障子を明け放していいのか、普通に電気をつけていいのか判断がつかない。迷っている間に目が慣れてきて、本棚の背表紙が判別できるようになってきた。

 することもないので、背表紙を目で追った。

 本は嫌いではない。実際ちょっと、大きな本棚の中身は気になっていた。あの時は本棚は見ていたがその中まで見る余裕はなかったから。

 よくわからない学術書、純文学のようなものから児童書、ベストセラーの文庫まで特に整理することもなく無造作に並べられている。各種、節操もなく取り揃えました、みたいな雰囲気だ。薄い文庫本なら読んでみたいとちょっと思う。コミックがあったら速攻手に取っていたかもしれない。

 そんな静かで不毛な時間も、実質10分かそこらくらいだったろうか。

 部屋が冷え、当人も楽になったらしく唐突にもぞもぞと動き出し、起き上がるとぼくを申し訳なさそうに見た。

 なんだか、捨てられた子犬のような顔だった。

 「何か飲みますか」

 尋ねてみた。

 渡したペットボトルはいつの間にか空になっている。

 許可が出れば台所を探索しようと思った。前に麦茶が出されたのだから今日もどこかにそれはあるはずだ。

 声をかけると、本棚に寄りかかりながら微かに頷く。

 「奥が台所だから────申し訳ないけど適当に使ってもらっていいよ」

 声は小さい。起き上がってもキツイのはキツイのだろう。

 そんな状態で、一応は客であり恩人でもあるぼくをもてなせないのが歯痒いようでもあった。

 ともかく何か探すべきかと立ち上がる。ぼくも喉が渇いていた。

 廊下に出て言われた通りに奥へ向かうと古い台所があった。家電は新しいが、作りが古い。廊下は台所の横から奥へ続いていた。洋館側へ繋がっているのだろう。

 気にはなったが、足を踏み入れるのはやめた。

 まだどこか、ここに死神がいるという意識が残っていたからかもしれない。

 死神は洋館の2階に見える。

 ここから奥は気軽には進めない。

 台所に入り、小さな食器棚からコップを二つ出して台の上に置いてから冷蔵庫を開けて見る。ドア側に一応麦茶っぽいものがあったのでそれを出した。というか、中にはそれくらいしかものが入っていない。何もなさ過ぎて不安を覚えると同時に、こんな状態で何をどう適当に使うのか疑問を持ってしまう。

 製氷皿に氷はあったので何個かお茶にいれ、両手に持って部屋へ戻った。

 手の中でカラカラと氷の音がしていた。

 「どうぞ」

 卓袱台に置いたが、本棚にへばりつくようにしている相手へ距離は遠い。

 卓袱台を寄せると苦笑しながら礼を言われた。

 許可を取り障子を開けると、夏の昼間の眩しい陽光が差してくる。というか、縁側のガラス窓が開け放たれていたので慌てて閉めた。これじゃエアコンが無駄になってしまう。

 しかし、ただ障子があるだけで戸締りも何もしてないとはどういうことなんだ。

 いや、そうだ。

 ────死神屋敷に人は来ない、それだけか。

 ぼくも結局、玄関の鍵はかけてない。

 振り返ると、部屋は明るくなりより過ごしやすくなっていた。

 ぼくは反対側の壁にもたれて座る。

 死神とは向かい合う形になった。

 改めて、更に落ち着いて見てみれば、死神は痩せてるのと顔色の悪さを気にしなければどこにでもいそうな青年だった。いや、痩せてたり顔色が悪いからこその死神の噂なのだけども、よれよれのTシャツとか、自分で切ってるのかって感じのぼさぼさな伸び具合の髪、それから薄い無精ヒゲもあるような姿を見ると、死神と言うよりどっちかってホームレスに見える。

 なんとかギリギリ最低限こなさなければならない生命活動をしてるから、まあ、ホームレスよりはだらしない青年ですんでるみたいな。

 「・・・・・死神に見える?」

 ぼくの視線は相当失礼だったのだろう。

 お茶を飲み干して彼は言った。

 ともかくもだいぶ落ち着いて、会話できる余裕ができたらしい。

 「すみません、見えないです」

 笑われた。思い出し笑いみたいだった。

 あの時はすごかったな、と呟いて。

 前にここに来た時のことだろう。ほとんど覚えてないからどんな言動をしたのかわからない。故に、コメントができない。多分、ものすごく、迷惑だったに違いない。

 沈黙していると、フォローするように言葉が続いた。

 「たまに小学生がいるなって思ってたんだ。ほら。あの塀のあたり」

 指さす方向は、子供たちの肝試しに使われる場所だ。そこから屋敷を眺めると、ちょうど洋館側の2階が見える。

 「何してるのか気になってたからさ、謎が解けて良かった」

 「・・・・・それ、洋館側から見てました?」

 「んー・・・・夕方は向こうにいること多いから、そうなるかな」

 ・・・・・それかよ。

 子供は放課後に秘密基地に集まる。肝試しは夕方だ。死神の噂は、単純に、両者の生活サイクルが合った結果だったのか。

 「ぼくも、謎がとけて良かったです」

 「そう?」

 「死神は誤解で、呪われることはもうないから」

 ぼくらは怖がらなくていいし、死神屋敷は好奇の視線から解放される。変な噂はなくなって、何もかも丸く収まる。

 はず、なのに。

 「でも、誤解を解く必要はないよ」

 死神だった男は軽く告げた。

 声音はだいぶしっかりしてきて、だから、弱ってて頭がおかしくなってるとか、そういうことは多分ない。

 意味が分からず見返した。噂があり続けるなら、塀の周りを子供はうろつき続けるだろう。うるさいし、邪魔ではないのか。

 不審な目線に、やっぱり彼は笑っていた。

 「怪談の一つくらいあった方が、浪漫があっていいじゃないか」

 その言葉。

 その笑顔。

 その、空気。

 目つきの悪さは笑みでごまかされた。死神ではなく、人間なのに、別の場所にいる人のようだ。絶妙な表現しようのない薄い笑みが、ぼくのどこかに突き刺さった。

 目がそらせない。

 魅了された。

 半分は怖いもの見たさだったかもしれないけれど。

 振り返ると、多分、ぼくの転機は確実にここだった。


 ぼくはこの瞬間、死神屋敷に取り込まれたのだ。


 それから、ぼくらは向かい合ったまま、夕方までいろいろと話をした。

 情報交換ともとれるかもしれない。

 呪いを解いてもらった日、ぼくは断片的ながらも大まかな事情は説明できていたようだった。

 林に秘密基地があって、ここは死神屋敷と呼ばれていて、ぼくは死神を見て更に夢まで見てしまって、このままでは呪い殺されてしまうと。

 彼は1の説明から7くらいは汲みとって、ぼくの話に合わせてくれていた。

 繰り返すが、今思うと、本当に子供の繰言によくつきあってくれたものだ。

 逆に彼から聞いた話は、これまでの恐怖を考えれば力が抜けるほど意外なものだった。

 彼は、ここが死神屋敷と呼ばれてることも、自分が死神と認識されてることも、なんなら林の中に秘密基地があり子供たちの遊び場になってることもぼくから聞くまで知らなかった。

 声が聞こえるのは小学校があるからだし、家から滅多に出ないから噂話も耳に入らない。巷での都市伝説を知る機会は皆無で、決死の覚悟のぼくをどう扱っていいかわからなかったとまた笑った。

 どうやら携帯電話も持っていないらしい。

 道端に座り込んで絶望していたのも頷けた。

 顔色が悪いのと痩せているのは多分、体が弱いとか家から出ないからとかそういうことなのだろう。目つきが悪いのは単純に目が悪いらしい。メガネは酔うし、コンタクトは怖い。一応は生活に支障ないから当面メガネはいらないと、何故か吐き捨てるように言う。何かメガネに悪い印象でもあるのだろうか。

 一番意外だったのは、彼がここに住み始めて2年も経っていないことだった。

 「屋敷の噂はもっと前からあったはずなのに」

 噂は確かに1年生の頃から聞いてたように思う。

 上級生に何度も死神屋敷に気を付けろと言われていた。姉もそう言ってたはずだ。

 不審がってると、疑問には彼が簡単に答えを出した。

 「・・・・・・噂はずっと昔からあったんじゃない?」

 「昔?」

 「屋敷自体はすごく古いしね。僕が来る前は何年か空き家になってたし、お化け屋敷と言われてもそれは否定できないから」

 「空き家だったんですか、ここ」

 「ここは親戚の家。管理するために住み込んでるんだよ」

 よくはわからないが、ここは彼の持ち家ではないことはわかった。

 「無人の間に噂ができて、怖いから例えば洋館のカーテンとかを死神と見間違えて尾ひれがついて、そのうちに僕が住むようになって死神が実体化しちゃったんだろう。ほら、僕の見てくれがこんなだから」

 「・・・・・」

 それは笑えないところだ。本当に、夕暮れに遠目に彼を見ると、ものすごく怖かったのだ。

 「噂はそのままでいいよ。害もないし」

 「でも誤解はなくした方が、ぼくは、いいと思う」

 「さっきも言ったけど、怪談の一つくらいあった方が楽しいよ。本当はみんなそれほど怖がってはないんじゃない?」

 「それは、」

 半信半疑だったり面白がってるだけだったり、確かに、心の底から本気で怖がってる人は少ないかもしれない。それでも不気味で気持ち悪いことに変わりはないし、誰でもひとかけらくらいは持ってる恐怖がぼくらを肝試しにかりたてる。そんな屋敷だ。

 なくなれば、確かに、少しだけ寂しい。

 「噂はそのままで、放っておけばいい。きみも来年には卒業して秘密基地とは関係なくなるんだろう」

 「はい」

 「後輩に夏のイベントの一つくらい残しておきなよ」

 そこまで言われたらこれ以上の反論はできない。

 ────死神屋敷の秘密は誰にも言わない。

 ぼくはそれを承諾し、彼はやっぱり笑っていた。

 それから本棚について話をした。

 目の前にあってこれだけ壮観な眺めだと、興味なくても触れずにはいられない。

 本の話をすると、彼は立ち上がって本棚を見た。そろそろ夕方でいい加減調子も戻ってきたようだった。

 「半分は親戚のなんだけど」

 言いながら、ぼくが言ったタイトルの本を何冊か抜き出す。

 「貸すよ」

 「え」

 「もう読んでるやつだし返すのはいつでもいいから」

 いいのだろうか?

 黙ってると、「ああ」と何かに気付いたように呟いた。

 「死神屋敷に通うことになるのか。それは嫌だよな」

 「いや、別に、嫌ではないです。大丈夫です。通います」

 「・・・・・・・そう?」

 「借ります。読むの遅いですけど」

 「じゃあ頻繁に来なくていいようにたくさん貸そう」

 言いながら更に何冊か抜き出す。

 5、6冊ほど卓袱台に置いて彼はどこかへ行き、ビニール袋を手に戻ってきた。それにごそごそと本をいれ、ぼくに差し出した。

 「こんなので悪いけど」

 「ありがとうございます。えーと・・・川端さん?」

 確か表札にはそうあった。でも親戚の家というなら名前は違うのかもしれない。

 おそるおそる名を呼ぶと、彼は頭を横に振った。

 「僕は猪ノ立哲司といいます。きみは?」

 「中原隆康です」

 「よろしく、中原くん」

 「よろしくお願いします」

 夕方の鐘がなる。部屋は薄暗くなりつつあった。

 ぼくは本の入った袋を抱えて死神屋敷を出た。

 彼は玄関までぼくを見送ってくれた。足取りはしっかりしていて、完全に回復したのだと安心する。

 「すぐ返しにきます」

 ぼくの言葉に彼は笑う。

 「本当にいつでもいいから」

 「じゃあ、できるだけ早く」

 「そっか。僕も暇だし、楽しみにしてるよ」

 またね、と彼は手を振る。

 ぼくは礼を言って屋敷を出た。


 帰り際に表札を見る。

 表札でさえ、彼を正確に伝えていない。

 秘密を知ってるのはぼくだけだ。

 ────猪ノ立哲司。

 それが死神の名前で、この人が────。

 ぼくの師匠になる人だった。

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