2話 12歳・2
初めて死神屋敷に入った日のことを、ぼくはほとんど覚えていない。
暗い廊下に招かれ、多分あの縁側に見えてた部屋に通されたのだと思う。
景色として覚えてるのはやたらに眩しい日の光と、妙に大きい本棚、目の前に雑に置かれた麦茶のコップだ。
エアコンはついてなくて、でも暑さは感じなかった。
何を見ていいのかわからなくて、ただただ麦茶を睨みつけていた。
会話はそんなにしていない。死神はいろいろ話しかけてきてたけれど、恐怖と緊張でぼくの方はそれどころではなかった。死神だと疑いながら人間だと確信し、その容姿に恐怖しながら聞こえる穏やかな声に安堵した。
それでも耳に入る言葉は意味をなさない。
問いに首を振るくらいしか返せない。
まさか招かれるとは想定してなかった。
ぼくの中はぐちゃぐちゃで、どうしていいかわからなくなっていたのだ。
それでも目的は覚えていて、だから出された麦茶は飲み干したはずだ。
────うちのお茶には解呪の魔法がかかってるから。
死神はそう言った。
それは呪いを解いてくれるということ。
呪いが本当にあるのか知らない。死神は死神ではないのだと思う。それでもぼくは呪われてるかもしれないし、この人は死神なのかもしれない。何にもどれにも証拠はない。
その死神が呪いを解くという。
ぼくはとにかくその麦茶を飲むしかなかった。
飲み干して、そして、「許してもらえますか」とぼくは聞いた。
死神は多分苦笑いしながら、「うん、許すよ」と言った。
今思えば子供の繰言によく付き合ってくれたものだ。大人にとって駄菓子でしかないものを押しつけられ快く招き入れた度量はやはり尊敬すべきなのかもしれない。
その後と言えば、ぼくはとにかく許されたことが嬉しくて、礼もそこそこに死神屋敷を後にした。
お邪魔しましたくらいは言っただろうか。
本当によく覚えてない。
その時からぼくの日常は数日ぶりに戻ってきた。夏休みはまだ少しあって、家にこもっている間に宿題も大体終わっていたから、その後は普通に外に遊びに出たし、学校のプールにもいったし、夜はきちんと熟睡できた。解呪はきちんと効いていた。
もう夢に怯えることはなく、呪いそのものを忘れてしまえた。ほんの数日前のことなのに、死神との邂逅こそが夢ではなかったかと思えたほどだ。
だからだろうか。
呪いは解けるなんて重大な秘密を知ったのに、誰かにそれを教えることすら忘れていた。
なんなら死神屋敷自体を忘れそうだったと言っていい。
まあでもそれはおそらく、ぼくにとってのトラウマとも言うべきこの数日を、記憶の底に封じたいだけだったのかもしれないけれど。
転機は夏休みの最終日だった。
多分あの日がなければ、ぼくと死神屋敷の縁は永久に断たれていただろう。
感情的にも、物理的にも。
その日は朝から快晴で、特に何もすることのなかったぼくは早い昼食の後に秘密基地をのぞきに行くため家を出た。
林までの道程は日影もないしうだるように暑い。この陽気のせいか人影はなく、車も全然走っていない。町は無人のように見え、けれど昼間は1両になる電車が走り抜けていく音が聞こえて人はいるのだとちょっと安心する。
秘密基地に特別な用事はない。誰かと約束をしてるわけでもなかった。
そこには最近誰が持ってきたのか古いビーチパラソルが持ち込まれていて、それがどのくらい役に立っているか見てみたかったのだ。それに林の中は涼しいし、ぼくと同じようなヤツが来てるかもしれない。
道すがらに自販機で飲み物を買った。林へ行く道には自販機が点在している。小さな畑の脇に格安自販機があって、そこは子供たちの御用達になっていた。
ペットボトルを片手に歩いた。
真っ直ぐ歩けば林の入口だ。林やその向こうの学校が見えてくれば、必然死神屋敷の屋根が見え始める。
見えた屋根からなんとなく目をそらした。それは先日の件を忘れているのではなく、思い出したくないという証左だったかもしれない。
そらした視線は目的地ではなく、数メートル先の電信柱向いた。
そこで初めて、そのすぐ脇に誰かが座り込んでいるのに気付いた。
柱に縋るように座っていて、ぼくからだとその背中しか見えない。今まで完全に影に隠れていて見えなかったのだろう。
なんだろう?と思った。
炎天下に物好きだな、とも。
ともかく道を占領しているわけではないし、後ろを通っていくことはできる。
何一つ気にせずに、ぼくはその人の真後ろを通った。
いや、通ろうとした。
足音か気配か、ともかくぼくの存在に気付いたその人はものすごくだるそうに振り返り、ぼくの顔を見て、こちらが驚くくらいの安堵の表情を見せた。
そんな人を見たら、立ち止まるしかない。
だって、ありえないほど顔色が悪いし。
それがあの死神にしか見えなかったら、余計にだ。
あの時の子だよね、と小さく問いかけられてぼくは頷く。
物好きとかでなく、単純にここで動けなくなっていたようだった。
「だ、いじょうぶ、ですか?」
問いかけに死神は苦笑した。
「あんまり大丈夫じゃなくて・・・肩を貸してくれるかな」
「いい、ですけど」
一歩、近づく。
死ぬのじゃないかって程に顔が白い。
「熱中症ですか」
「うーん・・・多分、そう、なのかなあ」
「飲みますか」
単なるお茶だがないよりマシだ。
持ってたペットボトルを差し出すと、死神はものすごく恐縮しながらも受け取って普通に飲んだ。それで、ほんの少し顔色が良くなったような気がして、見ているぼくが大きく息を吐いた。
「立てますか」
どうも無理そうに見えて手を差し出す。
「ありがとう」
死神はためらわずにぼくの手を取った。
知ってる人で良かったと呟いている。
この状況を後で考えると、小学生に助けを求めるのはおかしくはなくともちょっと無理はある。ぼくは一人だったし、求めるにしても大人を呼んできて欲しいとか頼めばいいのに、肩をかしてはないだろう。背の高さもその頃は随分違ったわけで、冷静に考えなくてもそんなもの存分に貸せない。
それでもその時のぼくは突然の再会と想定外の状況に度肝を抜かれて頷くしかなかったし、死神も死神でそれくらいに切羽詰まっていたんだろう。
何もないただの道、昼間で太陽は高く求める日影も皆無だ。それでも少しでも日を避けようと電信柱にくっついて誰かが通るのを待っていたのだ。人ならもう、誰だってよかったのかもしれない。
それほどまでに弱っているのだから、そう簡単には立ち上がれまい。
実際無理そうだったので力を込めて手を引いた。
思いの外、その体は簡単に立ち上がった。本人が自力でどうにかしたのでなく、本当に死神の体は軽かった。軽すぎるほどだ。これ以上引けば逆に倒れそうで、本当に存在しているのかと疑いそうになる。
死神だから?いや、死神がこんな状態になるのか?
死神はふらつく体を電信柱で支えながら残ってたお茶を少し飲んだ。
「ごめん、家までいいかな」
絞り出すような声だ。
この頼みを断れる人なんているだろうか。
ひどい顔色と辛そうな声と無理矢理に作った笑顔にぼくは負けた。
そこからは二人、無言で死神屋敷に向かった。
死神には話す余裕なんてないし、ぼくは大人を支えるのに精一杯だ。結局手を肩に置く程度のことで杖代わりになってるだけだったけれど、辛そうな人の横にいればこっちも辛く感じる。
そうだ。
────既にぼくはこの人のことを「死神」とは思えなくなっていた。
屋敷までの道のりは短い。
既にそこに見えていたのだ。距離は全然大したことない。なのに自力で歩いて帰れないくらいに調子が悪くて、道に座り込んでて、顔見知りかどうかも怪しいぼくを見つけてあんなに安堵して、そして臆面もなく子供に助けを求めて。
そんなの死神のすることじゃない。
この人は本当に人間なのだ。
半信半疑でいたものが確信に変わる。
顔色が悪いのも痩せているのも、単に体が弱いからじゃないのか?何か病気なのかも。だから、今も、こうなってる。
黙々と歩きながら、ぐるぐると思考は回った。
死神屋敷への認識と、死神本人の姿の違いに、なんだか異様にもやもやした。
その感情が何かを知る前に無言の道行きは終わる。
死神屋敷への小道を歩き、見た目よりも簡単に開く門を開け、掃除された前庭を抜けて引き戸の前に立った。
死神は「ちょっと待って」とうめくように言って、ぼくの肩から手を放して鍵を開けた。よく見ると建物の古さに対して鍵は妙に新しい。
引き戸が開く。
前のように暗い廊下がそこにあった。
でも、この前のように緊張も恐怖もなかった。
ここにいるのが人であるように、ここはただの他人の家だ。
廊下があって、両側に障子があって、左側2番目の障子が開いている。そこは先日通された和室だ。大きな本棚があったはずだ。
「申し訳ないけど」
立ち止まってぼんやりとしてたぼくに、死神が声をかけた。
中までついてきてほしいのだと理解して、そのまま肩を貸して中に入った。
それこそそんな義務もないし、今更だけど知らない人間の家にあがりこむことに多くの問題があっただろうが、既に1度来ていることとよくわからない後ろめたさがどこかにあるせいで応じるのに抵抗がなかったのだ。
玄関は二段框になっている。
三和土に汚いスニーカーを転がすように死神は脱ぎ、その横にぼくも靴を脱ぐ。
本棚の部屋まで連れて行くと死神は卓袱台の横に崩れるように座り込んだ。そしてそのままぐったりと床に倒れ込む。
ぼくが通りかからなかったら、この人はあそこで死んでたのかもしれない。
気付くと、少し怖くなった。
部屋は当然暑く、エアコンをつけ、更に部屋の隅においやられていた扇風機も回しておく。この前来たときは縁側が解放されててエアコンがついてなかったので機械そのものがない可能性があったから、古そうとはいえ使えるエアコンがあったのには安心できた。
ちゃんと動作を確認し、思い出して開けっ放しだった引き戸を閉めに行く。
鍵のかけ方はわからなかったが、多分、死神屋敷に入ってくる奴なんていないからきっと大丈夫だ。
息を吐く。
覚悟を決めて振り返る。
2度目の死神屋敷は、もう、ただの古い家でしかなかった。
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