悠久の泥の夢

teigi

喪失と黎明

まどろみのなかで、急に平衡感覚を失って、『落ちている』かのように感じたことのある者は少なくないだろう。

けれど、この日は『そう』ではなかった。


足腰の強靭な羊人は、時に、荷車を引いているにも関わらず驚くような行商ルートを採る。

広大な樹海の中を突っ切って、縞々山脈のふもとの鉱山町群へ向かっていた、メエユーシュカがそうであるように。

鬱蒼とした森に入ってより三日、およそ予定していた経路の三分の二を過ぎているはずである。足もとは悪く楽な行程ではないが、それでも森を迂回するよりも早い。それほど広大な樹海であった。


メエユーシュカはこのような森を通るのは慣れている。

背の高い立木に天の光が遮られるため、足元の草は丈が短くまばらだ。けれど、羊人はそれらの葉の大部分を食料にすることができる。

羊人にとっては、平原も森も山も食糧に困らないという意味では同じだ。水さえ携行していれば良いのだから、行商にはもってこいの種族であった。

暗くなりきる前に手近な木に布を掛けて簡素なテントを作り、獣除けの香を焚く。そして、寝床の用意をした。宿に泊まらない日は毎夜、自分の荷車を寝台代わりにして眠る。森人の職人に軽く丈夫な木で造らせた愛用の品物である。

ガラスの水筒から水を飲み、辺りに生える草をいくらか食んで、眠りについた。普段の旅と何ら変わらない、なにもない夜だった。


明け方、鳥の鳴く声に意識を浮き上がらせたメエユーシュカは、突然『落ちる』感覚をおぼえた。

本当に『落ちて』いた。荷車が壊れ、支えを失った身体は地面に転げ落ちた。

それだけではない。あらゆるものが一瞬しにて消失していた。

木々も獣も、鳥も、虫も、小さな生き物たちも、ほとんど全てが消失し、世界に泥だけが残る。

その現象の名前をメエユーシュカは知っていた。

この世界の人々の多くが幼き日に聞かされては震え上がり、そして成長につれて忘れていく、伝説の現象。

『泥界化』という。


それによって動植物が根こそぎ消失したのだった。


やけに明るく感じる。木々が消失し、数日ぶりに直接天の光を浴びたからだ。

鳥の鳴き声は聞こえない。いないからだ。

足元にあったはずの草も虫もない。荷車から落ちても痛くないように、できるだけ柔らかそうな草の生えた場所を選んだのに。


なにもかも消えてしまったのか。


泥界化が起こったとして、残される側になるなどとは、少なくともここ10年は考えなかったことだ。


けれども、幼い日に、『それ』が起こった後の世界をどうやって生き延び、再生させるかを考えなかった者もいない。

伝説にはまた、消失をまぬかれた者が集まって、文明をよみがえらせるために尽力する様子がうたわれている。


メエユーシュカは立ち上がった。

とにかく、ほかに消失をまぬかれた人を探そうと思った。


売り物の布は消えていなかった。

それを疑問に思うほどの余裕はまだメエユーシュカにはなく、急いで自分の荷物を拾い集めて、マントでくるんで背負った。


さてどちらを目指そうか。

土だけになった山々と地面は、のっぺりとして見え、遠近感が薄くなっている。


不意に何か光るものが見えた。

天の光とは違う方向から、明らかに異質な光を、一瞬だが確かに見た。

このなにもかも消失したかのような世界で一体なにがここまで届くほどの光を放ったというのだろう?

メエユーシュカ

もともと目指していた鉱山街はひときわ高い山の麓、周囲には街道が広がっており、迷ってたどり着けなくなる心配はなかった。

メエユーシュカは、先に光の場所を目指すことにした。


道中見つけたのは、割れた卵のかららしきもの、ひとつだけだった。他はすべて土と砂と泥だ。

メエユーシュカは考えないように、ただ速く歩くことだけを意識して歩を進めていた。それでもかわりばえのない風景に嫌気が差してきた頃、建物の影らしきものが見えた。


昨日までは樹海の真ん中だった場所である。こんなところに人里があったのだろうか。それとも、旧時代の『シェルター』のような建造物が草木に隠されていたのが、泥界化で姿を現したのか。


近づいてみると、それは人里のようであった。

瓦が所々に固まって落ちている。

建物に使われていた木材や漆喰が消失し、屋根に葺かれた瓦が落ちて散らばったのだ。

瓦の合間には、かまどや、そこにかけられた鍋、食器などが見える。

昨日の夜には住民の腹を満たす暖かな食事で満たされていたはずの鍋や器たちは、きれいにからっぽだった。おおよそ食べ物と呼べるものは泥界化で消失していて、たとえ鍋に何か残っていたとしても、もう洗浄の必要もない。


メエユーシュカは切なくなった。


この里にはどんな人々が住んでいたのだろう。

建物は多くは木造だったようだが、石造りものが何棟か健在だ。木戸の消失した入り口からは、これまた蓋と蓄えられていたものが消失して空っぽになった瓶や農具が見える。

遠目に見えたのは、これら石造りの蔵だったようだ。

こういった辺境の里に毛織物を行商するのは羊人の誉れである。泥界化が起こらなければ、ここで暮らしていた人々に自分の自慢の布を見せたかった。けれど、泥界化が起こらなければきっと、予定のルートを外れたこの里にたどり着くことはなかった。

ままならないものだ。

さらわれて行ったものたちの多さと大きさが、じわり、じわりと毛の間に染み込んで身体を重くするように感じた。


残された人がいないかという淡い期待を込めて、一棟ずつ瓦の山を覗き込んで回る。

途中、金属で出来た術具……らしきものを見つけた。

魔法の加護が込められた道具を売りにしていた狸人の職人が誇らしげに携えていたのが、こんな形だったような、という曖昧な記憶である。

コンパスや香炉を売ってくれかの狸人も、泥界化で消失してしまったのだろうか。

切なさを心の底に押し留めて、辺りを様子を伺う。

ここが魔法を使う種族の里であるなら、先刻光を放ったのはこういった術具や魔法の品の類だろうか。

拾い上げて眺めてみたけれど、メエユーシュカの手の中では、それはただの金属の塊のように見える。そもそも光の方角に進んだらたまたまこの里にたどり着いただけで、光を放ったなにかがこの里にある確証はない。

里を一回りしてそれらしいものが無かったら、諦めて鉱山街へ向かうことに決めた。


最後の石蔵の角を曲がると、あった。


淡く金色に光る、たまごのようなもの。

形状は完全にたまごで、大きさはメエユーシュカの頭より若干大きいほどだ。

光るたまごなどというものは、各地を行商して回ってきたメエユーシュカでも聞いたことがない。それが目の前にある。

直感した。このたまごが光を放ったのだ。


それは柔らかそうな土の膨らみの中に置かれている。

メエユーシュカがその正体を確かめるべく、おそるおそる近寄ろうとすると、


「おとうとにさわるな」


——声が、した。

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