【走馬灯】

 私がアリスのことで覚えている一番昔の記憶は……小学校のときの、ある放課後。

 友だちと遊ぶ約束があった私が急いで帰ろうとしているときに、教室で、同級生の子たちに囲まれている彼女を見かけたんだ。


 アリスはそのときも、やっぱりイジメられていたらしい。

 そのときはまだ彼女と全然関わりがなかった私は、そのイジメのことは知らなかった。でも、見てしまった以上そのまま放っておくこともできなくて、その中に割って入って、彼女を助けてあげたんだ。


 イジメから解放されたあとも、彼女は私に感謝するわけでもなく、ずっと泣いていた。当時の彼女はただの泣き虫で弱虫で、自分以外を恨んで愚痴を言うだけの、いじけ虫だった。

 だから私は、そんな彼女の頬を引っぱたいて、言ってやったんだ。「いつまでも泣いてばっかじゃ何も変わんないよっ⁉ イジメられたくないんだったら、やり返せよっ!」って。

 彼女はそのとき、すごく驚いたみたいだった。でも、そのあと何度もうなづいて、「ありがとう……」、「わたし、がんばる……」って言っていた。相変わらず、ボロボロと涙を流していたけれど。


 それ以来、アリスは私によく話しかけてくるようになった。

 私の友だちと彼女が絡むことはあんまりなかったけど、私が一人のときとかを狙ってやってきては、最近見ているアニメの話とか、イジメに対抗するために空手の動画を見始めたこととかを、話してくれるようになった。

 そのときの私の気持ちを例えるなら、「野良犬に一回だけ餌をあげたら、やたら懐かれちゃってめんどくさい」……みたいな。出来心でやったことが思わぬ結果を招いて、ちょっとヒいていた。

 でも……そんなこと言いながらも、かわいい妹と子分が一緒にできたみたいな感じもあって、ホントはそれほど悪い気もしてなかった。


 私たちのそんな感じの関係は、小学校を卒業して、中学に行っても続いた。

 アリスは相変わらず変な子で、私だけに懐いて、私だけによく話しかけてきてくれた。私以外に仲良くしている子はいないみたいだったけど……でも、その分私も、他の友だちには言えないような愚痴とか冗談とかを、彼女にだけは言えるようになっていた。


 考えてみると私たちは、あまり気が合うほうじゃなかったと思う。むしろ、いつも真逆の考え方をしていたことのほうが多かった気さえする。

 ガサツでいい加減な私に対して、アリスは繊細で、むしろちょっと神経質すぎって感じ。でもそんなデコボコな関係の私たちだったけど、不思議とそれなりにうまくやってこれた。私の他の友だちと同じように……ときには、他の友だちよりも深い絆で私たちは繋がっていたんだって、今なら思う。

 まあそんな関係も、私が中学卒業と同時に引っ越すことになっちゃって、終わることになったんだけど。


 卒業式の日にそれを言ったとき、私は彼女が泣くと思っていた。でも……実際には彼女は、ものすごく怒った。

 「どうしてそんな大事なことを黙ってたの!」、「なんでもっと早く言ってくれなかったの!」って、目に涙をためながらずっと私を責めていた。


 きっと私がそれを言い出せなかったのは……現実を受け入れたくなかったんだと思う。

 アリスと離れ離れになるなんて、認めたくなくって。そのことをアリスに伝えないで自分の中に閉じ込めているかぎり、それが現実にならずにすむ……なんて、バカみたいなことを思ってたんだ。

 ずっとアリスが私に依存して、私のことを頼っているって思っていたのに……その関係は、気付かないうちに逆転していた。

 いつの間にか私はアリスの存在に助けられていて、彼女と離れ離れになるのが耐えられないくらいに、彼女を必要としていた。自分の中で彼女の存在がすごく大きくなっていることに、私はそのとき気づいたんだ。



 引っ越しして、アリスとは別の高校に入ってからのことは……あまり思い出したくない。何がきっかけだったのか。あるいは、何もきっかけなんかなかったのか。学校が始まって、仲のいいグループが出来始めて、順風満帆だと思ったのに……気づいたら私は、陰湿なイジメの対象になっていた。

 最初はただ単に相手が誰でもいい「暇つぶし」に過ぎなかったそのイジメは、周りまわって誰かの「ストレス解消」になり、また他の人にとっての「正義」だったり、「自己実現の手段」になったりしながら……気がつけば、いつの間にか学校中に広まっていた。一番仲がいいと思っていたグループは、いつのまにか一番きつく私を攻撃するグループになっていた。

 気付けば私には、味方は一人もいなくなっていた。


 物がなくなったり、机を落書きされたり、面と向かって悪口を言われたり、なんてのはまだいい方で……。無理やり裸にされてその写真を撮られたあたりから、そのイジメはどんどんエスカレートしていった。写真を弱みにお金をゆすられたり、それが足りなくなったら万引きや盗みをさせられて、最後には体を売って稼ぐように言われたりして……。

 中学のときに、女友だちが「彼氏と初めてキスした」とか「どこまでいった」なんて話しているのを羨ましがって聞いていたのに……今では、あの子たちが多分一生経験しないようなことまで、私は経験してしまっていた。


 圧倒的絶望の前で、人が選べる選択肢は意外と少ない。戦うのも逃げるのも、その先に少しでも希望の光が見えるときにしか選べないってことを、私はそこで初めて知った。

 絶望の闇ですべてが覆いつくされて何も見えないときに出来るのは、「目も心も感情もすべて閉ざしてしまって、来るかどうかも分からない夜明けをひたすら待ち続ける」か……あるいは、「諦めてすべてを終わらせる」か……。

 私は、前者を選んだ。



 心を閉ざしながら、私はよく、出会ったころのアリスのことを考えていた。

 イジメられて泣いていた、泣き虫で弱虫なアリス。彼女よりも自分の方が泣き虫で弱虫だったと知る日がくるなんて、あのころは思いもしなかった。

 あのころに自分が言った「泣いてばかりいないでやり返せ」という言葉が、どれだけ空虚でバカらしかったかが、今は痛いほどよく分かる。そんなことを言えるのは、自分の中に少しでも感情を残すことが出来ている間だけだ。すべての感情を閉ざしてしまったあとでは、そんなことが出来るはずがない。

 でも……。

 それがどれだけ空虚でバカらしい言葉だったとしても、自分のことを考えてそんなことを言ってくれる人がそばにいてくれるっていうこと自体が、きっと今の私にとっては救いになるのに……ということも分かっていた。


 私はいつしか、アリスに会いたいと強く願うようになっていた。

 私を頼ってくれる、可愛らしい妹のようなアリス。別れの日に、泣くのを必死に我慢しながら私を怒ってくれた、かけがえのない友人のアリス。

 アリスに会いたい。

 哀田アリスに会えれば、あの頃の自分に戻れる。哀田アリスに会えれば、きっと自分はまた立ち直れる。

 アリスに、会いたい……。



 そして『あの日』の放課後、私の携帯にアリスからの電話がかかってきた。


 か細くて、弱々しくて、自信のなさそうな声。たわいのない世間話。どうでもいい近況報告……。そんな彼女の話を聞いているだけで、私は中学生に戻ったような気がした。

 闇に包まれていた心に、わずかな光が差したような気がした。


 だけどやがて彼女は、自分は新しい学校でもイジメられているのだと言って、本題を話し始めた。

 それを聞いたとき、私は胸がチクリと痛むのを感じた。

 きっと彼女は、こっちの学校で彼女と同じように私もイジメられているなんて、思いもしなかったんだと思う。私は中学の時のまま、明るくて元気がよくて、イジメなんて跳ね返せるような強い人間だって思っていたんだと思う。

 そんな彼女の気持ちが分かってしまって、彼女と話しているうちに、私の心の中で嫌な気分がふつふつと沸き上がってくるのを感じていた。


 彼女は最初、「相談したいことがある」と言って、その話を切り出した。でも実は、彼女の中ではほとんど答えは出ていたみたいだった。

 だからそれは、「相談」じゃなくて「宣言」……あるいは、「宣戦布告」のようなものだった。

 彼女は私に、「自分をイジメている相手と戦うつもりだ」と言った。「このまま相手の言いなりになっていても、何も解決しない」。「相手は、別の学校にいるエリちゃんのことまでイジメるなんて言ってるけど……そんなこと絶対にさせない」。「学校や親も巻き込んで、利用できるものは全部利用して、徹底的に抵抗してやるつもりだ」って。


 それを聞き終わったころには、チクリとした私の胸の痛みは、心臓を焼かれるような激痛に変わっていた。


 きっとアリスの中でもいろんな事情があって、紆余曲折の結果、最終的に私に電話をかけてきたんだと思う。イジメられていた彼女が、その相手に立ち向かう決意をするなんて、相当の覚悟が必要だったと思う。


 でも、いきなりそんなことを宣言された私には、そんなの関係ない。

 同じようにイジメを受けていながら、それをただ受け入れることしかできなかった私には、その宣言は苦痛以外の何でもなかった。たった今、闇の中で立ち尽くしていることしかできない自分を、まぶしいほどの光の中からアリスがあざ笑っているようにさえ思えた。

 妹のように思っていた彼女が。子分のように見下していた彼女が、自分を……。


 そう思ってしまったらもう、胸の奥から湧き出る闇を抑えることが出来なくなっていた。

 私は、電話の向こうで自分のことを笑っているアリスを、責め立てた。考えられる限りの口汚い言葉で、彼女のことを罵倒していた。私が普段言われてる言葉より、私を攻撃する奴らに私が思っている言葉より。

 ずっとずっとひどい言葉を、息が続く限り彼女に言い続けた。


 彼女はそれを、無言で受け止めた。反論も言い訳もせず、私の全部の言葉を静かに聞いていた。そして最後に一言、「ごめんね」とだけ言って、電話を切った。


 その、いつにもまして弱々しい言葉を聞いて、私は気づいてしまった。

 ああ、そうか……。


 私は、アリスに会いたかったんじゃない。自分よりつらい人間を見て、安心したかっただけなんだ。勝手にアリスを自分より弱いと決めつけて、心の支えにしていたんだ。

 彼女はきっと新しい学校でもイジメにあっている。自分が受けているのよりも遥かにひどいイジメにあっている。彼女に比べれば、自分はまだマシだ……なんて想像して、自分を慰める道具にしていたんだ。

 本当につらくなったらアリスのところに逃げ出せばいい。彼女が相手なら、普段はイジメられる側の私が、アリスをイジメる側にだってなれるから……なんて思っていたんだ。自分の惨めさを誤魔化すために、アリスがこれからもずっとつらい人生を送っていくことを期待してしまっていたんだ。

 だから、そこから一人で勝手に抜け出そうとしている彼女に、あんなにムカついてしまったんだ。私の言葉で落ち込んだ彼女の言葉を聞いて、晴れやかな気持ちになってしまったんだ。


 きっと小中学校のころから、私は本当はアリスのことを友だちなんて思ってなかったんだと思う。自分がつらいときのはけ口として、みじめな彼女を一番近くで見ていたかっただけなんだと思う。


 後になって、『あの日』の夜にあったことを聞かされて、そこでようやく私は自分がしてしまったことの重大さに気づいた。

 あのときの彼女が、どんな思いで私に電話をかけてきたのか。どれだけ心細い思いをしていたか。そして、どんな言葉を私にかけて欲しかったのか……。


 自分には、彼女の辛さが分かったはずなのに……。自分なら、あのときの彼女を救うことだってできたはずなのに……。



 私は、彼女を見捨ててしまった。

 彼女の味方の振りをして、本当は彼女を見下していた偽善者だった。自分のことしか考えてなくて、彼女が本当につらいときに手を差し伸べなかったわがままな独裁者だった。彼女の不幸を願ってばかりで、彼女の悩みを一緒に抱える勇気を出せなかった臆病者だった。


 そして。

 苦しむ彼女を最後に追い詰めた……最低最悪な『裏切者』だった。

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