20:17 図書室
逃げなくちゃ……。
気づけば、私は彼女に背中を向けて走り出していた。頭の奥からは、声が聞こえてくる。
一刻も早く、ここから逃げなくちゃ……!
図書室の出口に向かって、全速力で走る。
逃げないと……ディミ子ちゃんに、殺される!
「おや? どこに行くのですか? まだ、私の話は終わっていないのですが……」
恐怖心でいっぱいになっている私には、彼女のそんな言葉は届かない。
「……もしかして、逃げようとしていますか?」
視界の端にわずかに見えるディミ子ちゃんは、ずっと席に座ったままで、私を追いかけてこない。
いける……。これなら私は、きっと逃げ切れる。
そして私は図書室の出入り口のドアに手をかけて、それを開けようとした。でも……そんな私をあざ笑うかのように、ディミ子ちゃんはこう言った。
「どうせ、逃げられませんよ? だって……そろそろ効いてくるころですからね」
「え?」
効く……? 効く、って何が……。
「……うぐっ⁉」
次の瞬間、突然目の前が歪み始めた。まるで、水面に映る景色に石を投げて波紋が広がっていくようだ。まっすぐなものがまっすぐに見えなくて、上と下がよく分からなくなる。
私はその場でよろけて、目の前のドアに思い切り頭をぶつけてしまう。それから、立っていることさえも出来なくなって、その場に前のめりに倒れてしまった。
同時に、胃液が逆流してきて、猛烈な吐き気に襲われる。
「うげぇぇ……ぐぼぉぉぉ……」
我慢できずに、図書室の床にほとんど液体だけの吐しゃ物を吐いてしまった。
こ、これって……。
「ふふふ……」
ディミ子ちゃんはそこでようやく席をたつ。
そして、ゆっくりと図書室の貸し出しカウンターに置いてあった、陶器の花瓶のところまで歩いていくと、その花瓶から白くて小さな花をたくさんつけた一輪を手に取った。
「君影草……いわゆるスズランは、誰でも知っているとても身近な植物でありながら、人体に有害な数十種類の毒を持っています。おもな症状は、嘔吐、頭痛、心臓麻痺。
しかもその毒素は根や実だけではなく、花や茎も含んだ全草に含まれている。スズランを切って
「ま……まさ……か……」
今ディミ子ちゃんが持っている、小さなツリガネのような特徴的な形の白い花は、植物に詳しくない私でもよく知っている。それは確かに、スズランの花だった。
彼女はまたゆっくりと歩いて、これまで私が座っていたテーブルの席まで来る。そして、そこにあった私の飲みかけのカップを持った。
「実は私……飯倉さんたちにお出していた紅茶の中に、そこのスズランの花瓶の水を混ぜていたのです。誰かが逃げようとしても、確実に始末出来るように……ね」
う、嘘だ……!
私はそう声に出して言いたかった。でも、アゴが震えて、うまく呂律がまわらない。
視界はもはやグニャグニャで定まらなくて、頭も割れるように痛くなっている。吐き気もどんどんひどくなってきて、気が緩むとまた嘔吐してしまう。
「もちろん。私もさっきからずっと同じポットのお茶を飲んでいました。だから、私にだけ毒が回らないのはおかしい。ゆえに今の話は『嘘』だ……と、そう言いたいかもしれません。
でも実は、ルーマニア人の私の父が生まれ育った土地は、昔からスズランがよく咲く地域でして……父は、幼いころからその花の毒素がしみ込んだ土地の井戸水を飲んで育ってきたので、体にスズラン毒の耐性を持っていたのです。そして、その血を引いている私にもその体質が遺伝している。だから私は大丈夫なのです」
「な……そんな、ばかな……」
あまりにも、都合のいい話だ。
でも私は、その言葉を信じてしまっていた。言葉では、「嘘だ」、「そんなことありえない」なんて言葉を思い浮かべることはできる。でも、表面上の言葉じゃなく、私の心がそれを信じてしまっているんだ。
彼女なら……今まで私が見てきたディミ子ちゃんなら、それもありえる。自分の体質を利用して、私たちに毒を飲ませるくらいのことはやりかねない。
そう思ってしまっていた。
視界がかすんできて、もう彼女の表情さえ、よく読み取れない。
頭痛はだんだん感じなくなってきている。それは、症状が弱まっているんじゃあない。痛みを感じる神経が、活動を停止し始めているんだ。
もう、何かを考えることさえおっくうになってきて、このまま目をつぶれば、意識を失ってしまいそう……。
そんな中……おぼろげな視界の中で、ゆっくりと彼女がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「ああ、そういえば……飯倉さんは、私たちのような罪人とは違う存在なのでしたっけ? 不名誉な『肩書』が書かれたカードを持っていないから、アリスにとっては無害な『
でも……よく考えると、実はそうとも言えないのですよね。
飯倉さんではないですが……私も実は、今までずっと違和感を持っていたことがあるんです。貴女に対して、疑惑に思っていたことがあるんです。それはまさに、先ほど飯倉さんが否定した、『嘘つきだけが者という字がつかない』という件なのですが……」
「うぅ……」
彼女はもう、とっくに分かっているんだろう。分かっているから、自分の正体を明かしたんだ。
図書室のドアの前に倒れている私を見下しながら、ディミ子ちゃんは続ける。
「あのとき貴女は、『嘘つきにだけ者という字がつかないから、仲間外れだ』と言いましたよね?
実は私、貴女がそれを言ったときに、ものすごく違和感を感じたのです。
だってそれを言ったら、『仲間外れ』なのは大神先輩だけではなかったのですから。飯倉さんも、そうだったのですから」
「……」
「貴女は私たちの中でたった一人だけ、『肩書』が書かれたカードを持っていなかった。それは、『肩書』に『者』が付くとか付かないなんてことよりも、はるかに『仲間外れ』だと言えるのではありませんか? 私からしてみれば、『仲間外れ』が怪しいというのならば、カードを持っていなかった飯倉さんよりも怪しい人間なんていないとさえ言える。
なのに貴女は、あのとき大神先輩だけが『仲間外れ』だと言い切りました。そこから逆算して想像できることは……貴女は自分のことを、『仲間外れ』だとは思っていなかったということ。つまり、『一人だけカードを持っていない』という特異性は実は真実ではなくて……貴女はちゃんとカードを持っていた。この世界を作ったアリスから、『者』という文字が入る『肩書』を与えられていた、ということではないでしょうか?」
ああ……やっぱり。
彼女には、気づかれてしまっていたんだ。私の嘘を。
目が覚めてすぐに、制服のポケットの中を探った時……私はその中に、スマホやハンカチと一緒に、例のカードが入っているの見つけてしまった。チラリと見えたそのカードの表面には、『あんな肩書』が書いてあって……怖くなった私は、それをすぐに捨ててしまったんだ。
それきり、まるで自分には最初からカードなんて与えられていなかったかのようにふるまっていた。そう自分に、思い込ませていたんだ。
「そういえば……今は亡き不破さんも、飯倉さんは『学校に来る前にカードをどこかに隠したのではないか』、なんて言っていましたよね? あの言葉が、実は真実だったとしたらどうでしょうか? もしも本当に、飯倉さんが学校の外にカードを隠してしまったのだとしたら、私たちがこの図書室でいくら貴女をボディチェックしてもカードを見つけられるはずがありません。
それどころか、この学校の外に出られない私たちには、もはや貴女の『肩書』を知ることは出来ないわけです。残念ですね」
やっぱり、少しも残念そうじゃない声でそう言ったディミ子ちゃん。しゃがみこんで、私の制服に手を伸ばす。
「ただ……」
そして、私の制服のポケットに手を入れた。
「この、『肩書』が書かれたカードというのはとても特別な物で……それを受け取った個人と、強く結びついているようです。貴女が先ほど大神先輩と『臆病者』のカードの関係性を指摘したように、個人が死んだときはカードも一緒になって消えてしまう。逆にカードを受け取った人間が生きている場合は、カードは消えずに残っている。
つまり、カードとその持ち主は基本的に一蓮托生でニコイチの存在、ということです。であるならば……カードとその持ち主があまりにも遠くに離れてしまったときには、何かしらの『特別措置』がとられたりすることもありえるのではないでしょうか? 例えば……学校の外に置き忘れてきてしまったカードは、最初に入っていた持ち主のポケットに自動的に戻る、とか…………おや?」
ディミ子ちゃんは、何か面白いものを見つけたかのように小さく微笑む。
そして、その手を私のポケットからゆっくりと引き抜いた。
するとそこには……例の『肩書』が書かれたカードを持っていた。
「っ⁉」
バ、バカな……。
あのカードは、確かに学校の外に、捨ててきたはずで……。
「ふふふ……」
私はすぐに気づいた。それは、彼女の『嘘』だ。
ディミ子ちゃんは、さっき私が彼女に見せた『嘘つき』のカードをこっそり隠し持った状態で私のポケットに手を入れて、それを出しただけだ。まるで、私のポケットから新しいカードが出てきたかのように、『嘘』をついただけだったんだ。
でも、すべてはもう遅い。
たった一瞬だったけど、私はその『嘘』を信じてしまった。だから、その瞬間だけ彼女には見えてしまったはずだ。
「ああ、やっぱり……」
ポケットから取り出した自分の『嘘つき』のカードを見ながら、ディミ子ちゃんは私に怪しく笑いかける。
「飯倉さんにも、ちゃんと『肩書』があったんですね」
もう、終わりだ。
私の『肩書』……それは、私がアリスに犯した罪状。たった今それが、ディミ子ちゃんにバレてしまった。
私の罪が、他人に知られてしまった。
そのカードに書いてあった、私の『肩書』は……。
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