19:14 教室棟中央側階段

 生徒会室をあとにした私は、図書室に戻るために教室棟の階段を二階に下りていた。


 結局、城ケ崎さんのことについては、何も分からなかった。ディミ子ちゃんには、そう報告するしかないだろう。ろくに会話らしい会話もできなかったのだから、それは仕方がない。


 ただ、私個人の印象としては……彼女はそれほど悪い人ではないのかもしれないと思った。

 そもそも、生徒会長として学校の代表に選ばれるような人だし。それなりに人望があって、他人から信頼されるような人のはずだ。

 それに、詳しい理由は分からないけど――多分、他の人の能力を恐れて――目覚めた直後に生徒会室に一人で引きこもっちゃうようなところも考えると……物事を冷静に見極めてから行動に移そうとするとても慎重な性格か。あるいは大神先輩タイプの、怖がりですぐに守りに入ってしまう「小心者」とか。

 どっちにしろ、静海みたいに他人を傷つけることをなんとも思わないヤバいやつでも、土岐先生みたいに自分の目的のために平気で人を騙す人でもなさそうだった。

 なるほど、ディミ子ちゃんが城ケ崎さんのことを他の人に秘密にして引きこもらせているのも、納得できる。とりあえずこのまま放置しておいても、彼女が私たちに害を与えることはないだろう…………なんて。


 私がそんなことを考えながら、下り階段を進んでいたとき。


 カツ……カツ……カツ……。


 静かな灰色の校舎に、自分以外の誰かの足音が響いていることに気づいた。


 カツ……カツ……カツ……。


 その音は、自分がいる下り階段の、下の階のほうから聞こえてくる。しかも、階段を上ってこっちの三階のほうに近づいてきているようだ。気づいた時点で私は立ち止まって、気配を消した。でも、こっちが相手の歩く音が聞こえたってことは、相手にもこっちの足音は聞こえていたのかもしれない。


 ど、どうしよう、走って逃げたほうがいいのかな……。

 頭が少し混乱しているからか、そんなことを考えてしまう。けど、相手が誰なのかも分かっていない今の状況じゃあ、逃げる意味が分からない。そんなことをして、何か後ろめたいことがあると思われてしまったら、あとあと面倒だ。


 私は音を出さないように、ゆっくりと後ずさりを始めた。とりあえず、楽観的にまだ相手には気づかれていないと考えて、階段を戻って三階のどこかに隠れようと思ったんだ。

 でも……今ここに上ってくるなんて、いったい誰だろう?


 可能性として考えられるのは、今この学校の中にいる人のうち生徒会室にいる城ケ崎さんを除いた……ディミ子ちゃん、大神先輩、静海、千衣の四人のうちの誰かだ。その中でも、ディミ子ちゃんなら私がここにきていることを知っているから、何か言い忘れたことがある、とかの理由でやってくる可能性はあるかもしれない。でも、それ以外の人だったら……。


 その足音は、だんだん大きくなって近づいてくる。でも、私の姿が見えてしまう二階と三階の途中の踊り場まで来るには、まだもう少しかかりそうだ。このままいけば、音を立てずに三階まで戻って隠れることも…………っ!

 その瞬間、私の視界を何かが横切った。


 なんてことはない。

 それは、これまで何度も見てきた、灰色で半透明の幽霊だった。

 

 別に、それを見ること自体は何も珍しかったわけじゃない。

 私は、図書室から生徒会室に来るとき、この階段を上っていたときにも同じようにこういう幽霊を見ていた。それどころか、図書室でディミ子ちゃんと二人で話しているときや、生徒会室の前で城ケ崎さんと話しているときにも、視界の隅をチラチラと通り過ぎていく幽霊の姿を見ていた。

 その姿は何故か、最初に目覚めた直後に見たときよりも、土岐先生と二年B組の教室で見たときよりも、サイズが大きいものが多くなっていて……小学校高学年か、中学生くらいの背丈になっているように感じた。

 でも、何にしても、やっぱり今までと同じでよく分からないものには違いない。だから私は、ずっとそれを無視していたのだけど……。


 さっきは、階下から聞こえる足音に警戒して、気を張り詰めていたせいで……突然目の前に現れたその見飽きた幽霊の姿に、少しだけ驚いてしまった。

 そして、小さく声を上げてしまったんだ。


 ……!


 カツカツカツカツ……。

 聞こえてくる足音の間隔が短くなる。明らかに、今の私の小さな悲鳴に気付いて、下の人物が足を速めているんだ。


 カツカツカツカツ……。

 だめだ。もう、三階まで戻って隠れるなんて間に合わない。それどころか、この音の速さじゃあ、走って逃げ切るのさえ難しいかもしれない。

 もう、足音はすぐそこの踊り場のところまで来ている。

 私は逃げることも進むこともできず、近くの手すりを強く握りながら、その人物が現れるときを待つしかなった。


 カツカツカツカツ……。

 そして、ついに踊り場まで到達して、姿を現したその人物は……、



「あぁー、絵里利ちゃんだぁー」

 『独裁者』の、不破静海だった。


「げ……」

 考えられる限りで、最悪の人物だった。できればこんなところで一人のときに、彼女に会いたくはなかった。身構える私。

 静海は可愛らしい顔を、嫌らしくゆがめて笑う。そして、警戒する私をあざ笑うみたいに、茶髪のツインテールをヒョコヒョコと動かしながら、早歩きをやめてゆっくりと階段を上ってきた。

「どうしたのぉ? なんで、絵里利ちゃんがこんなところにいるのぉ?」

 階段の一つ下の段から、上目遣いで話しかけてくる静海。

「もしかしてぇ……ディミ子ちゃんがどこかに隠してる、『最後の一人』に会いに行ったのかなぁ?」

「う……」

 いきなり図星を突かれてしまって、私はつい、驚きを顔に出してしまう。

「ぷぷぅーっ。変な顔ぉー」

 静海はそんな私を指をさして笑ってから、

「へぇー……。ディミ子ちゃんってば、シズたちには教えてくんなかったのにぃ、絵里利ちゃんにはその人のこと教えてくれたんだぁー? ふぅーん。

 それでそれでぇ、何か新しいことは分かったのぉ? その人、どんな能力なのぉー? どんな『肩書』なのぉー? ってか、何年何組の誰ぇー? シズにも、詳しく教えてほしぃーなぁー」

 と言ってきた。

「いや、別に私……。その『最後の一人』のことなんて、知らないし……」

 完全に敵だと認識している静海に、何か情報を与えてあげる義理なんてない。私は適当に誤魔化そうとする。

「ふぅーん。でもさぁー……」

 静海は、私が背にしている階段の上のほうに視線を送ってから……、

「絵里利ちゃんって今、三階から来たよねぇー? この校舎の三階ってぇ、三年の教室の他はぁ……音楽室と美術室とぉ……確かぁ、生徒会室があるんだよねぇ」

 と言いながら、私の瞳を覗き込んできた。

 ……。

 分かっている。今のこいつの狙いは、私にカマをかけて、動揺させようってことだ。それは分かっている、はずなのに……。

「だったら例えばぁ……その『最後の一人』ってぇ、生徒会室に隠れてたりしてぇ? つまりそれってぇ、この学校の生徒会の誰かだったりぃ?」

 まるで私の考えることなんてお見通しって感じで、静海は私の心に揺さぶりをかけてきた。その、人をバカにした表情といい、心を逆なでするような口調といい……彼女は日ごろから、他人の心をもてあそぶことに慣れていると感じた。

 さすが、アリスをイジメていた張本人だ。

 やっぱり、彼女に城ケ崎さんのことを教えるのはまずい。というか、もうこうなってしまったら、こいつを三階に行かせるのさえまずいだろう。

 生徒会室に誰かがいるかもしれないと疑っているっぽい今のこいつなら、「とりあえず」とか「念のため」なんて言って、生徒会室の外から『独裁者』の『命令』をしてしまうかもしれない。こいつの能力なら、そんな雑なやり方でも、部屋の外から城ケ崎さんを殺してしまうことだってできるんだから。

 そんなことになるくらいだったら……もういっそ、私がこの場で……。


 そこで、口角をあげてニヤリと笑った静海。それからすぐに、

「『シャッフル』ッ!」

 と叫んだ。

「⁉」

 意表を突かれて、私の反応が一瞬遅れる。でも、すぐに自分の両方の耳に指を突っ込んで、そのあとの彼女の声を遮断した。

「『1番』が、『隠してること全部言う』ー……って、ダメかぁー」

 それで、なんとか間に合ったようだ。私は静海の『命令』を聞かずに済んだ。だから私の体も、『独裁者』の能力で操られたりはしなかった。


 実はここに来る前に、既にディミ子ちゃんから『独裁者』の弱点と対応策については教えてもらっていたんだ。



「不破さんの『独裁者』の能力は、『シャッフル』による番号振りと、そのあと五秒以内に言った『命令』を、セットで声で聞かせなければ効果がないようです。だから、不破さんが『シャッフル』と言ったらその瞬間に耳をふさげば、それで彼女の能力は無効化できると思われます。

 例えば不破さんが『シャッフル』という言葉を、私たちが気づかないほど小さな声で言ったり、あるいは聞きとれないくらいに早口で言ったりしても……それではそもそも能力の条件を満たしていないので、無効となると考えられる。

 つまり、飯倉さんが『独裁者』の『命令』のターゲットとなったときには、必ずまず最初に『シャッフル』の声が聞こえるはずなのです。そして、何らかの理由で飯倉さんが体の自由を奪われてでもいない限り……『シャッフル』が聞こえたら、すぐに自分の耳をふさぐというのは、それほど難しいことではないかと思います。

 つまり、『シャッフル』が聞こえたら何も考えずに反射的に耳をふさぐ、というのさえ忘れなければ、『独裁者』の『命令』は怖くはないと言っていいでしょう。『独裁者』はとても強力な能力ですが、それゆえに、その弱点も大きいということなのでしょう」

 私はディミ子ちゃんから、そんな忠告をもらっていたんだ。



「あぁー、もぉシズの能力の弱点わかっちゃってる感じぃー? なぁーんだぁー、ざぁーんねん」

 私が指を耳から外したときに、ちょうど静海がそんなことを言うのが聞こえてきた。「残念」と言った割には、まだまだ余裕があって、あんまり残念そうじゃないのが少し気になったけど……。とにかく、ちゃんと気を付けてさえいれば彼女の能力には十分に対応できる。

 そのことが証明されて、私は少し強気に出ることが出来るようになってきた。


「ってか、あんたこそ、こんなところで何してんのよ?」

「んー? ちょーっとねー」

「もしも、じょ……『最後の一人』のところに行くつもりだっていうなら、私は……」

「えぇー?」

 力づくでも、あんたを生徒会室には行かせない。そんな決意で、静海をにらみつける……けど。

 彼女は、私の脅しにはまるでひるんだ様子もなく、また心のこもっていない笑顔になった。

「べっつにぃ。しょーじきシズ、その『最後の一人』ってゆーの、実はあんまりキョーミないんだよねぇー」

「そ、そんなこと言って、本当はあんた……」

「てかさぁ……」

 静海はゆっくりと階段を上ってきて、私を追いこす。

 そして、首だけを動かしてこちらを振り返って、言った。


「シズ……『犯人』が誰だか、もぉ分かっちゃったかもだしぃー」

「え……」


 そのときの彼女の瞳は、さっきよりもいっそう嫌らしいものだった。まるで、人の心に土足で上がり込んで、一番見られたくない場所、一番知られたくない一面を躊躇なく暴いてしまうような視線。

 その視線に見られていると、今まで静海に感じていた怒りの感情が消えて、別のもっと大きな感情が私の中に沸き上がってきた。


 それは、彼女への恐怖だ。

 無意識のうちに足が震えて、その場から動くことができなくなる。


 前に向き直った静海は、そのまま私を置いて、三階のほうへと階段を上り始めた。

 彼女の視線が外れたことで、私の意識が復活する。

 や、やばい……このままだと、静海が城ケ崎さんを……!

「だ、だから……ちょっと待てってばっ!」

 私に肩を掴まれた静海は、立ち止まる。

「んんんー……」

 それから、少し考えるようなポーズをとったあとで、

「あ、そぉーだぁ」

 とわざとらしく手を叩いて、クルンと体を翻して、こっちを振り向く。そして、かわいらしい笑顔を作って言った。

「ねぇ、良かったら絵里利ちゃんもさぁ……行こうよ! 一緒に!」

「は? い、行くって、どこに⁉」

「果てしない、アイドルの高みにっ! ……なぁーんて、うっそぉー」

 彼女は指を一本たてて、天井を指さす。


 そして、

「お、く、じょ、お。アリスちゃんが飛んじゃったっていう、この校舎の屋上に、だよぉー」

 と言った。

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