【走馬灯】

 こんなこと言っても、もう誰も信じてくれないかもしれないけど……。

 あたしも昔は、「いい先生」を目指してたのよ?


 うふふ、当たり前でしょ? あたしにだって新任教師だった時代はあったわけだし、そのころはまだ、教師に対して理想とか憧れとかもあったんだもの。

 でも、やっぱり理想とか憧れとかだけじゃあ、「いい先生」にはなれないのね……。


 あれは、教師になって二年目の、秋くらいだったかしらね。

 そのころあたしは、こことは別の学校にいて……そこにもやっぱりイジメがあったの。


 もしかしたら、あのときあの子がされていたイジメは、ここでアリスちゃんがされていたのよりも、ずっとひどかったかもしれないわ。あ、あの子っていうのは、男の子だったんだけどね。

 クラスの生徒全員が、多かれ少なかれなにかしらの形で、そのイジメのことに関係していたし。周りの先生たちでさえ、イジメっ子と一緒になってその子をからかってたりしてね。

 本当に、その頃のあの子は、自分の味方なんて誰もいないって思ってしまっていたでしょうね。


 それで、ある日の放課後に、あたしはその子が教室で一人で泣いているところを見つけちゃったのね。もちろん、心配だったから声をかけたんだけど……その子、何も答えてくれないの。きっともう、いろいろなことを諦めちゃってて、あたしの声に耳を貸す余裕なんてなかったのね。

 自分の味方をしてくれる人なんて、誰もいない。自分はこの世界でたった一人なんだ。そんなことを考えちゃうくらいに、今までずっと苦しんできたんだと思うわ。


 それで……あたしはその子のそばまでいって、その子を抱きしめたの。

 そうすることで、その子に伝えたかったのよね。

 あなたは一人じゃない。あたしは、あなたの味方だよって。

 陳腐な言葉をどれだけ言うより、人の温もりみたいなもので、その子の心に直接あたしの気持ちが届くって信じてたから。


 そしたらその子、あたしの背中に手を回して、あたしを抱きしめ返してくれて。

 ああ、よかった。あたしの気持ち、ちゃんとこの子に伝わったんだ、って思ってたんだけど……。


 そのうちその子の手が、だんだん、下のほうに動いてきて……。あたしの、下半身を……。


 きっと、本当の「いい先生」だったら、そんなときだってうまいこと対応できたと思うわ。でも、言い訳するわけじゃないけど、あたしはそのときまだ二年目で、経験も浅い新任教師だったし。

 それに、怖かったのよね。

 もしもここであたしが彼のことを拒絶しちゃったら、彼は本当に一人ぼっちになっちゃう。本当に彼には味方なんていないって、あたし自身が証明しちゃうことになっちゃうって。

 それで結局、彼の求めるように……応えてあげたわ。



 その次の日から、その子はイジメられることはなくなったみたいだった。

 もちろん、あたしは担任でもなかったし、遠くから見ていただけだからはっきりとは分からないんだけど。前より自信に満ち溢れて、イジメてた子たちとも、楽しそうに冗談なんか言い合うことだってあったみたい。

 遠巻きにして間接的にしかイジメに絡んでこなかった子たちからすれば、「何が起きたんだ?」って、すごいビックリだったでしょうね。


 だけど、そのころからときどき……放課後、あたしのところに男子生徒がやってくるようになったの。学年もクラスもバラバラなんだけど、その生徒たちはみんな、決まってこう言うのよ。

 「噂を聞いたんだ」って……。「先生にお願いすると、『卒業』させてくれる」ってね……。


 イジメられてたあの子を抱きしめたあの日は、あたしが下校の見回りの担当だったから、校内に残っている生徒は彼だけだったことは間違いない。だから、彼があたしとのことをみんなに言ったんだって、すぐに分かったわ。きっとそれを話すことで、イジメていた子たちに取り入ったんでしょうね。


 ……そのときからかな。あたしが、おかしくなっちゃったのは。

 なんか、分かんなくなっちゃったのよね。「いい先生」が何なのかとか、「誰かに優しくする」ってどういうことなのか、とか。


 あとは、もう保身だか自暴自棄だかもよく分かんないごちゃごちゃな気持ちで、あたしはたくさんの生徒と関係を持ったわ。そもそも、全員で一人をイジメるような、陰湿でずる賢い子たちだもの。周囲にバレないようにするのは、そんなに難しいことじゃなかったみたい。

 まあ……一度だけ、生活指導のオジサン先生に気づかれちゃったこともあったけど、それだってあたしが相手をしてあげれば、ちゃんと黙っててくれたしね。


 結局そんな感じで、最後まであたしのことが表沙汰になることはなかったけど……でも、そのうちなんとなくそこにはいづらくなっちゃって、あたしは別の学校に転勤することにした。そして、この学校にやってきたの。



 うふふ……。何の話してるんだ? って思った?

 そうね。あたしも、どうしてこんな話したのか、自分でもよく分からないわ。

 なんか……誰かに知ってて欲しい、って思っちゃったのかな。

 そんな風に、一度はダメダメの淫行教師になっちゃったあたしが、「あの人」に出会って、また頑張ってみようって思えたこと。それから、それがまた壊れちゃったってことを……。




 その人……アリスちゃんのお父さんに最初に出会ったのは、アリスちゃんが二年のときの三者面談だったわ。初対面の印象は……正直いって、あんまり良くなかったかな。

 全体的に見た目が地味だったし。すごい猫背で自信なさそうな態度とか。あたしやアリスちゃんのほうを見ないで、終始目を泳がせてる挙動不審な様子とか。よく聞き取れないボソボソ声とかもね。もう、とにかく全部が冴えなくって、あたしが今まで付き合ってきた男たちとは、全然違うタイプ。だって三者面談だっていうのに、信じられないくらいの寝ぐせで来たりするのよ⁉

 ……でも、そういう全部が、なんか気になっちゃったのよね。


 彼にもう一度会ったのは、それから数週間後くらい。

 学校が終わった夜に、突然彼から呼び出されて、相談されたの。学校でアリスちゃんがイジメられてるかもしれない、何か知らないか、って。担任の男の先生より、アリスちゃんと同じ女のあたしのほうが、何か気づくことがあるんじゃないかって思ったみたいだったわ。

 そのときには、あたしはもう自分の気持ちに気付いてたわ。ああ、あたし今日までこの人のことばっかり考えてた、って。この人に夢中になってたんだ、って……。

 「片親の自分が頼りないから、そのせいでアリスがイジメられてるんじゃないか?」なんて、心細そうに彼に相談されるのは、悪い気はしなかった……っていうか、ほとんど快感に近かったかも。

 それで、あたしはその日から週一回くらいでアリスちゃんにお菓子作りを教えてあげるっていう口実で、彼女からいろいろと聞いてみるって約束したの。もちろん、その後で彼と会って調査状況を報告することもセットでね。

 で……彼と三回目に会ったときには、あたしたちもうホテルに行ってたわ。


 それからの数か月は、あたしの人生の中で一番楽しいときだったかもしれないわ。

 本当に大好きな人と、一緒にいられる。本当に大好きな人と、一つになれる。それが、こんなに幸せな事だったなんて知らなかったから。

 それに……彼もあたしと同じように幸せを感じてくれているってことを、心の底から確信できてたから。


 きっと心が満たされると、それが行動にも表れるのね。彼と付き合い出してからのあたしは、先生としての仕事もどんどん上手く行くようになった。生徒や他の先生、保護者とも上手く心を通わせて、憧れの「いい先生」でいることが出来た。

 アリスちゃんのイジメについてはどれだけ調べても何も分からなかったんだけど……それでもそのときのあたしは、新任教師だったころの熱意を取り戻していたの。


 そして、あたしたちが関係をもつようになってからちょうど三か月後。それが『あの日』……十月二十八日だった。


 その日は、三か月記念で彼があたしをディナーに連れて行ってくれる約束だったの。だからか、いつもなら退屈な事務作業も、その日に限っては苦痛じゃなかったわ。もうすぐ彼に会える。今日は、今までの自分たちを祝福する特別な日。そしてもしかしたら……これからの自分たちの未来を約束する、特別な日になるかも……。

 あたしはもう、そんな期待すらしていたわ。

 そのくらい、あたしたちは通じ合っているって思えていたから。


 ようやく仕事を終えたあたしは、集合場所のレストランに行くのも待てなくて、学校の駐車場に止めてあった自分の車の中で、彼に電話をかけたの。

 もう彼は、レストランに着いているのかしら? もしかしたら、レストランの店員さんたちとサプライズの打ち合わせなんかしてるところだったりして?

 あたし、浮かれすぎてそんな少女みたいな期待をしちゃってたくらいだったわ。でも、電話に出た彼が言ったのは、予想外の言葉だった。


 「今日は先生と一緒に学校の様子を聞いてみようと思って、アリスも呼ぶつもりだったんだけど、彼女まだ家に帰ってきていないみたいだ」……「学校に残っていないか、調べてもらえないか?」……「自分はこれから、通学路を回ってみる」……。


 なんていうか……ただただ、ショックだったわ。


 あたしは、いつもあの人のことばかり考えていたのに。あの人も、あたしのことを一番に考えてくれているって、信じてたのに。


 彼はあたしに相談もせずに、今日という二人の特別な日に、勝手にアリスちゃんを同席させようとしていた。しかも、彼女を探すことを優先にして、その記念日をないがしろにしようとしている。

 彼にとっては娘のアリスちゃんが一番で、あたしはあくまでも彼女の先生。体の関係を持つことはあっても、心の優先順位には圧倒的な差がある。そう、言われたみたいだった。

 ……いや、よく考えたら、そんなの当たり前のことなんだけどね。

 でも、そのときのあたしはその当たり前が分かんなくなるくらい、おかしくなっちゃってたの。だからそのあと、車の中で一人で笑っちゃったわ。感情のコントロールが効かなくなってたのね、きっと。涙を流しながら、大爆笑しちゃってたの。



 きっとあたし、あの「二年目の秋」に、もうとっくに取り返しがつかないくらいにおかしくなってたのよ。アリスちゃんのお父さんと出会って、「いい先生」になれるかもだなんて……そんなの、ただの勘違いだったのよ。

 あたしはただ、大好きな彼に自分のことを見てもらいたかっただけ。「いい先生」を取り繕って、アリスちゃんのことにも一生懸命な振りをして……。そうやって、あの人に自分を認めてほしかっただけなんだもの。


 ……本当は、彼女がイジメられていることなんて、とっくに気づいていたわ。その首謀者が不破さんたちだっていうことだって、はじめから知っていた。でもそれを彼に言ったら、あたしが彼と会う口実がなくなっちゃうじゃない? もしかしたら彼がアリスちゃんを転校させちゃって、もうあたしたち会えなくなっちゃうかもしれないじゃない?

 だからあたしは、それをあの人には言わなかったの。イジメが表沙汰になりそうなときに、それを隠したことだってあるわ。


 あたしは最初から、自分の欲望を満たしたかっただけだったの。周囲の人間も、自分さえもだまして……ただただ、自分のために行動していただけだったのよ。

 自分の欲望を満たすために、「孤独な生徒を誘惑した」あの放課後から……ずうっとね。



 『あの日』の彼との電話を切った後は……しばらくは何もする気がしなくて、車の中でぼうっとしていたわ。もう全部がどうでもよくなっちゃっていたの。

 そのとき、視界の端にアリスちゃんの姿が見えた。駐車場の隣にある、教室棟の校舎の屋上。彼女はそこで、涙を流して立っていたわ。

 少し前に、車の近くをいつも遅くまで残っている生徒会の子たちが帰っていくのが見えたから、あれは……最終下校時刻の七時半くらいだったんじゃないかしら?


 きっと、かつてあたしが憧れたような「いい先生」なら、是も非もなく彼女のもとに走っていたでしょうね。……ううん。あんな状況なら、普通の人なら何かしなくちゃいけないと思うのが当然だわ。

 でもあたしは、何もしなかった。アリスちゃんに気づきながら何もせずに、自分の車の中で、ただ彼のことだけを考えていたの。

 しょうがないでしょ? だってあたしは、自分の欲望に忠実なだけの……ただの『偽善者』なんだから。




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