18:31 体育館(二階)
「うふ……うふ……うふふ……うふふふふふ……。あは、あはは……あーはっはっははーっ!」
土岐先生は、満足そうに体育館の天井を見上げて笑っていた。
「やった! やったわ! あはははっ! これで、帰れる! あたしは元の世界に帰れるんだわっ!
あーはっはははーっ!」
その間にも、だんだん彼女の恰好に変化が現れ始める。
さっきまで着ていた安っぽい手製の文化祭衣装が、繊細な装飾が施された高級そうな純白のシルクドレスに変わっていく。首にはまばゆく輝く金の首飾りが現れ、両手の指には見たこともないほど大きな様々な色の宝石の指輪がはめられている。
それも、『偽善者』の能力の一つだろう。
四人の『感謝』を集めたときの特典……『一生遊んで暮らせるお金』による効果なんだ。
自分の身に現れたその変化を楽しむように、華麗に一回転してドレスを翻す先生。完璧な美しさに宝石によるゴージャスさまでが加わって、もはやそれに抵抗出来る人なんて、きっと誰もいない。
誰もが、土岐先生の美貌の前にひれ伏して、彼女が『元の世界に帰る』のを黙って見ていることしかできない……はずだった。
「……は?」
そこで突然、先生の下品な笑い声が止まった。
体育館の中が、静かになる。
「え? え? ちょ、ちょっとあんたたち……な、なにを……」
土岐先生は口をあんぐりと開けて唖然とした表情を、ある一か所に向けている。その視線の先にいたのは……白い肌をした銀髪三つ編み少女、ディミ子ちゃんと……私だった。
「な、なんで今……そ、そんなことを、してんの……? あ、あはは……い、意味が……分かんないんだけど……? ちょ、ちょっと……や、やめなさいよ」
それがあまりにも予想外だったからか、土岐先生は美貌の表情を崩して、間抜けな引きつり笑いを浮かべていた。
でも。
その先生の動揺は、もっともだと思う。
私だって、そんな先生に負けないくらいに今の状況の意味が分からなくて、動揺してしまっていたのだから。予想も出来なかった事態に、完全に唖然としてしまっていたのだから。
さっきの静海の『命令』が言い終わる直前に、ディミ子ちゃんが突然私を抱きしめてディープキスをしてくるなんて、予想できるはずがなかったのだから。
「……ふう」
十秒くらいの長めのキスのあと、ようやくディミ子ちゃんの唇が私の唇から離れた。まじりあった唾液は、二人の唇を繋ぐ細い糸を引いている。
そこで体が解放されて初めて、私は今まで自分が『臆病者』の能力で動きを止められていたことに気づいた。
「……失礼しました」
ディミ子ちゃんはそう言って、私に微笑む。
「え、えと……あの……」
その笑顔が妙にキラキラして輝いて見えて、私は少し戸惑ってしまった。なんて答えるのが正解なのか分からなくて、「別に、大丈夫だけど……」なんていう、よく意味の分からないことを口走ってしまっていた。
「さて……」
それから、今度はディミ子ちゃんは土岐先生のほうを向き直って、
「先生、残念ながら今の貴女はまだ、元の世界には帰れません。だってまだ、飯倉さんは貴女に『ありがとう』を言っていないのですから」
と言った。
「な……なんですってーっ⁉」
体育館中に響き渡るような、土岐先生の叫び声。
それを少しも気にする様子もなく、ディミ子ちゃんは続けた。
「不破さんの『独裁者』の能力は、言葉にした『命令』を相手に必ず実行させるという、とても強力なものです。しかもそれは土岐先生の『偽善者』の『感謝の言葉を集める』という目的と、とても相性がいい。その二つが組み合わさったときの凶悪さは、脅威と言っていいでしょう。
ならば、土岐先生から呼び出しがあると言われた時点で、その攻撃を警戒していないほうがおかしいと思いませんか? 『独裁者』の『命令』でその場の『全員』に『感謝の言葉』を言わせる。そんな、誰もがすぐに思いつくであろう非常にシンプルで強力な方法に対して、対抗策を考えておかないことはありえないと思いませんか?
ですから、私も当然、事前にその対抗策を用意しておいたのです。
土岐先生が何らかの方法で不破さんを操って、彼女に『命令』を言わせようとしたら……それを言い終わる前に、まだ『感謝の言葉』を言っていない三人のうちの誰かの口をふさぐ、という対抗策をね。
『独裁者』の能力は、『命令』を聞いた相手が、その『命令』を物理的に実行不可能であった場合には無効になります。常識的に考えて、キスをしながら誰かに『感謝の言葉』を言う事なんて、できませんよね? さっきの不破さんの『命令』は、飯倉さんが誰かとキスをしていたら、物理的に実行不可能ですよね?
だから私は、不破さんが『独裁者』の『命令』を言った瞬間に、隣にいた飯倉さんにキスをしたのです」
「は、はぁぁぁーっ⁉」
先生は、さらに顔を大きくゆがめて叫ぶ。
「な、なんでそんなことするのよーっ⁉ せっかくあたしが、元の世界に帰れるはずだったのにっ! こ、こんな世界なんかと、さっさとさよならできるはずだったのにっ! なんで、そんな邪魔するのよっ!」
「仕方ありませんよ。だって貴女はまだ、アリスがこの世界に呼んだ罪人……『犯人』の容疑者の一人なのですから。まだ誰が『犯人』なのか判明していないうちに、勝手に元の世界に帰ってもらうわけにはいかなかったのですから」
「ど、どうして……どうしてなのよ……!
あたしは、こんなことしてる暇なんてないのにっ! 『今日』はあたしたちの特別な日なのよ⁉ だから……あたしは一刻も早く『あの人』に会いに行かなくちゃいけないのに……っ!
なのにどうして、行かせてくれないのよっ⁉ どうしてあの子の……アリスちゃんの世界なんかに、いなくちゃいけないのよっ⁉ どうしていつもいつもいつも……アリスちゃんがあたしの邪魔するのよっ!」
思い通りにいかなかったことがよほど腹立たしいらしい先生は、もう本性を隠すこともしない。目を血走らせて、意味の分からないことを叫んでいる。
「……あ? あは、あははは……」
でも、すぐに何かを思い出したみたいに、また下品に笑い始めた。
「あ、あははっ! あははははははーっ! な、なーんだっ! よ、よく考えたら、こんなの別に、何でもないわよっ! バッカじゃないのっ⁉ もう、あんたたちが何をしようと何も変わらないのよっ!」
「……」
「要するに、あとはエリリちゃんだけなんでしょっ⁉
さっきはディミ子ちゃんが邪魔したせいで、エリリちゃんだけ『感謝の言葉』をもらうのに失敗した……。ってことは逆に言えば、あとはエリリちゃんの『感謝の言葉』さえ集めれば、あたしは元の世界に帰れるんでしょっ⁉ だったら、一回邪魔したくらいで、それがなんだって言うのよっ⁉ あたしはもう一度『独裁者』の能力で、『命令』すればいいんでしょ⁉ もうディミ子ちゃんに邪魔させなければいいんでしょ⁉
そんなの簡単だわ! だってあたしはもう、エリリちゃん以外の『感謝の言葉』は集めたんだもの! だったらそれって、五人のときの『特典』……『あんたたち全員の能力』を、あたしは既に持っているってことじゃない!
シズちゃんの『独裁者』の『命令』だって今度は自分で出来るし……『臆病者』の能力で、ディミ子ちゃんを動けなくすることだって出来ちゃうってことじゃないのよっ! そしたらエリリちゃんからの『感謝』なんて、いくらでも余裕で集めることが出来るわよっ! あは、あははは……!」
「土岐先生……」
エキサイトしている先生に、大きくため息をつくディミ子ちゃん。
「そんなこと、本当に出来ると思ってるのですか?」
「で、出来るわよっ! 出来ないはずがないでしょうっ! あたしはもう、すべての能力を持っているのだから、無敵なのよっ! 出来ないことなんて、何もないのよっ!
信じられないなら、今からそれを見せてあげるわっ! 無敵になった、あたしの力をね……シャ、『シャッフル』!」
「ダメ、なんですよ」
先生の言葉を遮ったディミ子ちゃんは、やれやれという表情で首を振る。
「確かに土岐先生は既に、飯倉さんを除いた五人から『感謝の言葉』を集めています。だから、その特典として『自分以外の全員の能力』を持っているのでしょう。そのこと自体は、間違いないかと思います。
でも、ということは今の土岐先生は……大神先輩が持っている『嘘つき』のカードの能力も持っているということなんですよ?
……だから、貴女はもう『終わってる』んですよ」
「え……」
硬直する先生。
「さっき先生は私たちの前で、『嘘』をつきましたよね?
まだ五人分しか『感謝』を集めてないのに、『元の世界に帰れる』と言った……あれは真実ではなかったわけですから、『嘘』ということになります。
そしてそのすぐあとで、私が『貴女はまだ元の世界に帰れない』と言った……先生の『嘘』を、私が『目の前で告発』したのです」
「ちょ、ちょっと待って……待ってよ……」
「『嘘つき』のカードの能力の一つは、『嘘を現実にする』こと。そしてもう一つの能力が、『嘘を嘘だと告発されたら死ぬ』こと……ですよね? だから、貴女はもう終わっている、と言ったのです。
『嘘』をついて、それを私に『告発』されてしまった貴女は……『嘘つき』の二つ目の能力で、これから死ななければいけないのです」
「ま、待ってって言ってるでしょっ! そ、そんなこと、おかしいわよっ!」
顔が真っ青になる先生。
「ふ、ふざけんじゃないわよっ! こ、こんな、こんなことで、あたしが死ぬとか……そ、そんなの、おかしいわよっ! 納得できないわよっ!」
「そう言われても、今さらどうしようもありません」
「あ、あたしは、元の世界に帰るのよっ! 帰らなくちゃ、いけないのよっ!
帰って、『あの人』と一緒になるんだからっ! だから、こんな……こんなところで死ぬわけには……ゴフッ!」
その瞬間、何の前触れもなく土岐先生が吐血した。
「え……」
口元をぬぐう先生。その手には、ドロッとした血が付着している。
その色は、灰色の体育館にはあまりにも鮮やかで、現実味がなかった。モノクロ映画の中に突然現れた、極彩色の赤だった。
「そ、そんな……こ、これ……って?」
でもその鮮血によって、ディミ子ちゃんの言葉がまぎれもない真実だったということは、誰の目にも明らかなくらいに証明されてしまった。
「ほ、本当に……? あ、あた……しが…………グヴァッ」
体の震えが止まらなくなる先生。さらに、彼女は続けて何度も吐血する。
「うそ……でしょ? い、いや……いやよ……。し、死にたくない……」
真っ白なシルクのドレスが、どんどん赤く染まっていく。
「そ、そうだわ……!」
そこで何かを思い付いた先生は、手を伸ばしながら、私のほうに近づいてくる。
「エ、エリリちゃん……お、お願い……。い、今からでも……あたしに、『ありがとう』って、言ってみて……?」
血まみれで、フラフラと手を伸ばしながら近づいてくる先生の姿は、まるでホラー映画に出てくるゾンビみたいだ。もはや、『完璧な美貌』なんてとても思えなかった。
「きっと、まだ間に合う……から……。あなたが……エリリちゃんが……、今『感謝の言葉』を言ってくれれば……六人……ゲブァッ! ろ、六人分になる、から……お願い……、だから……」
先生の手が届きそうになって、私は思わず後ずさりしてしまう。
でも、先生はそんな私を追いかけてくる。
「お、お願いよ……。あたしは、死にたくない……の……。死ぬわけには……」
「土岐先生、もう手遅れだと思いますよ。おとなしく、諦めてください」
ディミ子ちゃんが、冷静に言う。
「エリリちゃん……早く……早く……は、は……」
後ずさりしていた私が、体育館の壁にぶつかる。先生の手が、私の肩を掴む。その瞬間、彼女は絶叫した。
「は、早くしろって、言ってんだろぉがぁーっ! 早くあたしに、『ありがとう』って言えぇぇー! さ、さ、さもないとぉぉ……ぉ……ぁ……」
そこで、ついに限界に達してしまったようだ。
「ぇ、ぇぇ……あが……あがが……」
私の肩を掴む先生の手から、力が抜けていく。
体内で骨が溶けて液体になってしまったみたいに、先生の体はグニャグニャに歪んで、まっすぐに立つこともできなくなる。支えをなくして体の自重で押しつぶされて、足元から順番に、熟れすぎたトマトのように潰れていく。
下半身が潰れ、腰回りが潰れ、もう腕と頭だけの塊となった先生。それでも最後の力を振り絞るように、グラグラと不安定な腕を伸ばしてくる。
「あ、『ありが……と』って……言っ……」
それは、本当に先生が発している声なのか……。
それとも、ゴボゴボと血を吹き出す肉片が動いているのが、偶然言葉のように聞こえているだけなのか……もうよく分からなかった。
私は、かつて先生だったその真っ赤な塊を、感情のない表情で見下していた。
「お、おね……が……」
痛々しいそんな姿の先生に、私は『感謝の言葉』なんて言わなかった。言うつもりは、みじんもなかった。
ただ、無表情のまま一言だけ、
「……この、偽善者がっ」
とつぶやいただけだった。
その次の瞬間。先生の肉体は完全に砕け散り、ベチャッという嫌な音とともに崩れ落ちた。そして最後には真っ赤な血だまりと、同じ色に染まったドレスだけが残った。
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