17:52 二年B組教室

 この学校には、校舎が二棟ある。


 一つは、図書室のある四階建ての事務棟――私がこの学校に来た時に、正門から見て正面にあった建物――だ。ここには図書室の他にも、一階に学食や保健室、二階に職員室や放送室がある。

 そしてもう一つの校舎が、一年から三年までの教室と、音楽室や調理実習室、生徒会室なんかが入っている、三階建ての教室棟だ。教室棟は正門からは右側にある。

 二つの棟は、正門寄りの廊下の突き当りと校舎の中央の二か所を、それぞれの一階と二階が渡り廊下で接続されていた。


 私たちは、とりあえずアリスのクラスであるニ年B組の教室を目的地とすることにした。


 事務棟三階の図書室から、教室棟二階のアリスの教室までは、本当なら階段を一つ降りて渡り廊下を渡ればすぐだ。だけど、土岐先生につられるままあてもなく歩いちゃったせいで、すでにその最短ルートは通り過ぎてしまっている。

 私たちが今いるのは、事務棟一階の学食。校舎の外に出ると、私がこの学校に来たときに通った正門がある場所だ。


 そこで私は、教室に行く前に一旦正門に寄って、最初に図書室で静海やディミ子ちゃんが話していたことを確かめてみた。

 まあ、その結果としては予想通りで……。

 入ってきたときは確かに何もなかったはずの学校の周囲は、本当にガラスのような見えない壁に阻まれていて、私たちはどうやっても外に出ることはできなかった。

 そのあとは、特に寄り道せずに教室棟の校舎から階段を上ってアリスの教室へと向かった。



 その途中でも、私は土岐先生といくつかの話をした。

 そのときに彼女から聞いたところによると、土岐先生はまだ二十代で――詳しい年齢はヒ・ミ・ツらしい――、大学を卒業して教師になってから最初に赴任したのはこことは別の高校だったのだけど、三年前にこの学校にやってきたのだそうだ。

 家庭科の先生というのはディミ子ちゃんから聞いていたけれど、それ以外にも一応茶道部の顧問でもあるらしい。


 他の人たちと同じように三時半くらいに、先生も家庭科の授業でよく使う調理実習室で目を覚ました。そしてやっぱり他の人たちと同じように、自分がどうしてこんなところにいるのか分からずに校内を散策しているうちに、廊下を歩いていたディミ子ちゃんたちと合流したんだそうだ。

 それから、ディミ子ちゃんの提案で四時くらいに一旦みんなで図書室に集まって、分かっていることを情報交換しようってなったらしい。

 それまでアリスがイジメられていることを知らなかった土岐先生は、図書室でのその情報交換会のときに初めてイジメの存在を知った。そして同時に、そのイジメのせいでアリスが飛び降り自殺をしてしまったということも分かって……あまりのショックで、図書室を飛び出してしまったんだそうだ。

 それからは単独行動でしばらく校内を歩いていたらしいんだけど、気持ちが落ち着いたら、残してきたみんなのことが心配になってきて……。図書室に戻ってみたところで、ちょうど出て行こうとしている私とぶつかってしまった、ということだった。


 そんなことを話しているうちに、私たちは目的地に到着した。



 その教室には、特に変わったところはなかった。生活感とか現実感が満載の、ついさっきまで授業でもしていたかのような、どこにでもある普通の教室。

 まあ、それでも現実世界と明らかに違うこととして、相変わらず色彩がなくって全体的に灰色で覆われているっていうこと。それからこれも相変わらず、ときどき視界の中を一瞬だけ、半透明であいまいな幽霊が通り過ぎるってことはあるのだけど。

 あと、あえて付け加えるなら……その教室にいる幽霊は、ちょっと前に見たやつよりも少しだけ大きいような気がする。と言っても、十分に誤差の範囲って言えちゃうようなレベルで、幼稚園児くらいだったのが小学校低学年くらいに変わっている程度だけど。


「アリスちゃんの席は……その、窓から三列目の一番後ろね」

 授業でもするみたいに教壇に立った土岐先生が、教室の机の一つを指さして言った。

「あたしは、HRホームルームくらいでしかこの教室に来ることはないけど……でも、みんなの席は覚えているわ。一応、これでもこのクラスの副担ですからね」

「そうですか」

 自慢げに豊かな胸を張る先生の言葉に、「そんなの当たり前だと思うけど……」と思ったけど口には出さず、私はアリスの席のところに行ってみた。

「うーん。つくりとしては、やっぱりどこにでもある感じの普通の教室の机ですね。うちの学校ともほとんど同じです。特に変わったところはなさそう…………いや」


 その机は、遠くから見る分には他の机と変わらない。でも、近づいてちょっと見てみると、表面にマジックか何かで書かれた文字の跡があるのが分かった。

 それも、ノートに書いている途中で机にはみ出しちゃった、とか。うっかり薄い紙に書いて机までにじんじゃった、とかで出来るような跡じゃない。明らかに、「誰かに故意に油性ペンで書かれて、頑張って消そうとしたけど、うっすら残ってしまった」という感じの跡だった。

 一応ほとんどは消えかかってはいるので、分かりやすく読めるような文字は少ない。でも、読もうと思えばちゃんと文字として読めるくらいに残っているものもあって……例えば、筆跡が分からないように直線的な文字で書かれた「バカ」とか、「クソ女」とか。


「ひどい……」

 自分でも全く同じことを考えてはいたのだけど、それを口に出したのは私じゃなくって、いつの間にかそばに来ていた土岐先生だった。

「ひどいわ、こんなの……」

「これは……完全にイジメのあとですね」

 張本人の静海から聞いていたのだから、アリスがイジメられていることは既に分かっていた。でも、その明らかな形跡をいざ目の当たりにすると、想像以上にショックが大きかった。

 見ているだけで、まるで自分の机に同じ仕打ちをされているようなつらい気分になってきて、胃液が逆流しそうになる。気分が悪くなった私は、逃げるようにして次に、机の中やアリスが使っていたロッカーを調べてみた。


 机の中は空っぽで、特に変わったもの……というか教科書やノートも何もなかった。でもその代わり、彼女のロッカーの中には、落書きだらけの教科書やノート。それに、襟首の部分がビリビリに破かれたジャージの上着が、奥のほうに入っていた。きっと、机に置いていてやられてしまったので、ロッカーに隠したのだろう。


「そんな……こんな、ことって……」

 土岐先生は、今にも泣きだしそうな顔で震えている。

 私のほうでは、既にショックを感じる上限を振り切ってしまったらしく、気分は落ち着いていた。今はただ、机の上に並べた『アリスへのイジメがあったことの証拠品一式』を眺めながら、考え事をしていた。



 これで、アリスがイジメにあっていたことがまぎれもない事実だと分かった。

 土岐先生によると、あの図書室にいた人たちは全員、アリスとは別のクラスらしい。でも、これだけあからさまにイジメられていたのなら、きっとそれはクラス関係なく周知の事実だったのだろう。だから、ディミ子ちゃんたちがアリスのイジメのことを知っていたことも、特に不思議はない。

 でも、分からないのは……。

「先生……」

 隣にいる土岐先生のほうを向いて、話しかける。自然と、目つきは鋭くなってしまう。

「本当に先生は、アリスのイジメのことを、全然知らなかったんですか? これだけあからさまに、証拠が残っていたっていうのに?」

「えっ……」


 普通イジメっていうのは、もっと陰湿に、「周囲にバレないように」するものだ。

 SNS上で、わざわざ偽名のアカウントを作ってから、悪口を書き込んだり炎上させたり。あるいは教科書やノートだって、落書きをするんじゃなくってどこかに隠してしまうとか、捨ててしまうとか。そうやって、なるべく証拠が残らないようにするはずだ。

 だから、誰にも相談できなくって、一人で苦しむことになるんだ。


 なのに、この学校でのアリスへのイジメは、こんなにあからさまに行われていた。こんなの、イジメの証拠をイジメてる張本人が残しているようなものだし、放っておいてもすぐに周囲に発覚する。多分イジメの中でも相当低レベルな部類に入ると思う。

 それなのに、クラス副担任の土岐先生や他の教師たちは、彼女がイジメられていることに気づかなかったんだろうか? こんな目にあっている彼女を、助けてあげることが出来なかったんだろうか?

 私が思ったのは、それだった。


 私の言葉に、一瞬ショックを受けたように、こちらを見た土岐先生。

 でもすぐにその顔を下に向けて、寂しそうに語り出した。


「そうね。本当なら、あたしたち教師が気づくべきだったのよね。気づいて当然だったはずなのよね。……でも、気づけなかった。

 それはきっと、アリスちゃん自身が、気づかせないようにしていたからだと思うわ」

「アリス、自身が?」

「ええ……」

 先生は、「これは、今思い返してみるとそうだった、ってだけで、今さら言っても仕方のないことなのだけれど……」と言って、説明を続けた。

「そういえばアリスちゃん……あたしがたまにHRで彼女の机に近づいたときとか、いつもノートや教科書を机の上に広げていたような気がするのよ。

 そのときのあたしは、『他の授業で出された宿題でもやってるのかな?』くらいにしか思ってなかったけど……でも本当は、そこにある落書きの跡を、あたしに見えないように隠していたのね。きっと、他の先生の授業でもそうだったんだわ」

「でも……そんなこと、何のために? イジメの被害者のアリスが、それを隠す必要なんてないじゃないですか? 『証拠』がこれだけ揃っているのなら、むしろもっと大ごとにして、先生や大人に守ってもらったほうが……」

「イジメって、そんなに単純なものじゃないのよ……」

 また、過去を思い出すように遠い目になる先生。

「目の前の数人からイジメられているだけでも、それがその子にとっての、世界のすべてのような気がしてきちゃう……。

 少し外に目を向ければ、いくらでも逃げ出したり助けを呼ぶことが出来るはずなのに、それが出来なくなっちゃう。頭の中がそのことで支配されて、他のことなんて考えられなくなっちゃう。イジメられている子の心を徹底的に追い詰めて、精神的に一人ぼっちにしちゃう……それが、イジメなのよ。

 だから、アリスちゃんもあたしたちに助けを求めるなんて、できなかったのかもしれないわ。あたしたちを含めた世界のすべてが自分の敵だって思えるくらいに、追い詰められてしまっていたのかもね……」

「そ、そんな……」

 何年も教師をしてきた土岐先生だからこそ、その言葉には説得力がああった。もしかしたら先生は、かつてアリス以外にもそんな生徒を見たことがあるのかもしれない。


 でも。

 私には、そんなアリスの気持ちが、よくわからなかった。目の前のすべてが敵に見えて、助けを呼ぶことさえできなくなっちゃうなんて、そんなの想像もできなかった。

 ……きっとそれは、私がまだアリスほど追い詰められたことがないからなのだろう。

 私には自分を支えてくれる味方がいて、落ち込んだときに慰めてもらえる友だちがいる。本当につらくなったら、逃げ出せる場所だってある。

 アリスには、そういうものが何もなかったのかもしれない。

 だから、アリスは……。

 でも、そんなのって……。あんまりだ……。

 そう思うと、胸が締め付けられるくらいに苦しくなった。


「それにね……」

 でもそこで、土岐先生はなぜか微笑んだ。

「もしかしたらアリスちゃん……イジメてる子たちのことも、守りたかったのかもね」

 自分をイジメている相手のことを、守る……?

「あえてイジメのことを表沙汰にしないことで、アリスちゃんはイジメてる子たちを守って……彼女たちが自分のほうからイジメをやめてくれるのを、待っていたのかも。相手の子たちが、いつか正しい道に進んでくれるって信じたかったのかも……。

 そんなのってなんていうか……すごく無茶で甘い考えかもしれないけど……。でも、あの優しいアリスちゃんだったら、ありえると思わない?」


 ……そうかもしれない。

 優しくて、他人想いのアリス。自分の顔にボールをぶつけた相手のことだって、思いやることのできるアリス。彼女だったら、そんな無茶で甘い考えでも、してしまいそうだ。私の知っている哀田アリスは、そういう子だから。

 それは、さっきまでの私の胸の苦しみを和らげてくれるような、救いがある考えだと思えた。

 だから私は、自分も土岐先生に微笑みを返して、

「はい……」

 とうなづいた。


 ……そうだ。

 そこで私は、自分の目的を再確認した。


 今私がこの世界でやるべきことは……「私の知っている優しいアリス」が、こんな世界に私たちを閉じ込めて、復讐なんかするはずがない。ディミ子ちゃんが言っていたことは、間違っている。

 それを証明することだ。


 この学校で、アリスがイジメられていたことは分かった。でもきっとそれは、この世界とは直接関係ない。この世界は、復讐のための世界じゃない。私たちが集められていることには、何か別の理由がある。

 そのことを、明らかにしなくちゃいけないんだ。

 そのために、私がやらなくちゃいけないことは……。


「土岐先生……。この世界にいる人たちのこと、詳しく私に教えてもらってもいいですか?」

 アリス以外の人間のことを、もっとよく知ることだと思った。

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