17:37 事務棟廊下

「中学のときのアリスちゃんって……どんな子だった?」


 灰色の廊下を、並んで歩いている私と土岐先生。聞き上手な先生に促されるまま、私はこの世界で目覚めてから今までのことや、自分とアリスとの関係について話していた。


「え……と」その質問に少し考えてから、「なんていうか……優しい子でしたね。ちょっと、優しすぎるくらい……」

 と私は答えた。

「そうね。分かるわ。あの子は、何でも自分で抱えちゃうところがあったしね」


 頭の中に、かつてのアリスの記憶がよみがえる。

 一見すると、大人しくてオタクっぽい女の子。でも、仲良くなるとよくしゃべる、面白い子。それが、彼女だった。

 自分の前でコロコロと可愛らしく笑う彼女の顔を、私は今でもよく覚えていた。


「今思うとアリスって、いっつも、他人のことばっかり考えてる子だった気がします。

 例えば……中学のときの体育の時間に、ドッジボールをやって、そのとき偶然誰かが投げたボールが、あの子の顔に直撃しちゃったことがあったんですけど……。

 あのときのアリス、鼻血がドバドバ出て、口の中も切ったみたいで、当然すぐに保健室送りになりました。でも、血が止まって教室に帰ってきて最初に気にしたのは、自分にボールを投げた子のことだったんですよね。

 『気にしないでいいからね』って。『私は全然大丈夫だからね』って……」

「うん」

「普通だったら、その子に怒ったっていいところだと思うんです。私だったら、多分すっごいムカついて、もう口きかないくらいにキレてたと思います。でも、アリスは違うんですよね。自分のことなんかどうでもよくって、他人のことを気遣ったりしちゃうんです。

 ……そういうのって、なんかいいなあって思ってたんですよね」

「ええ、なんだかアリスちゃんらしいわ」

 何かを思い出すように、目を細めて微笑む土岐先生。

 きっと、この高校で先生が見てきたアリスにも、同じような思い出があるのだろう。

「あ! それにあの子ったら、冗談とかじゃなく大真面目に、『世界中のみんなが幸せになりますように』とか、言っちゃうんですよ⁉ 七夕のときとか、毎年ずっと短冊にそんな感じのこと書いてましたし!

 ホント、天然っていうか、ピュアすぎっていうか……世間知らずっていうか……」

「ああ、アリスちゃん言いそう!」

 私たちはお互いに目線を合わせてから、静かに笑い合う。

「あははは」

「ふふふふ」

「もう、ほんっとに……いい子だったんです……」

「ええ……」

「だから私、どうしてもあの子が……自殺したなんて……」

「……」


 それから、二人とも黙ってしまう。

 私たちは図書室を出た廊下の突き当りの、下り階段までやってきていた。土岐先生は無言のまま、下の階に向かう。私もそのあとをついていく。


 しばらくして、また土岐先生が語り始めた。

「あたしはさ……アリスちゃんのことをちゃんと知ったのは、ほんとにここ数か月くらいからなの。それまでは……ほら、アリスちゃんって、どっちかっていうと大人しいほうじゃない? だからクラスでも目立たなくて、あたしが彼女のクラスの副担任になってからも、あんまり関わりはなかったのよ。

 三浦先生……あ、正担任のおじいちゃん先生のことなんだけど。その先生がどっちかって言うと厳しめの先生だったから、副担のあたしは、その逆で優しめっていうか、生徒寄りの先生でいようって思ってね。意識して、クラスのみんなとは仲良くするようにしてたのよ。

 あたしのSNSのアカウントもみんなに知ってもらって、クラスのLINEグループにも入れてもらったし。あたしから積極的にみんなに話しかけるようにもしてきたわ。三浦先生はそういうの全然ダメな人だったから、その分、あのおじいちゃんには分かんないような話題とか悩み相談とかを、あたしにだったらしてくれる子もいたりして。

 でも、やっぱりそういうやり方でも、取りこぼしてしまう子たちっていうのはいるのよね。みんなのことが見えているつもりでも、全然見えてなかった子たちがいるの。アリスちゃんも、その中の一人だったの。

 今年の六月に三者面談があったんだけど。ちょうどその日、三浦先生が都合悪いってことで、あたしがあの子の面談を担当をすることになったのね。そこであたし、愕然としちゃったわ。あたし、この子のこと何も知らないわ、って……。

 思い返してみると、SNSでもリアルでも、あたしに打ち解けてくれて相談したり話しかけてくれるのはクラスの中でも一部の明るくて活発な……いわゆる『陽キャ』って言うのかしら? そういう子たちだけだったのよね。

 アリスちゃんは、そういう子たちからはちょっと遠いっていうか、一線引いているような子だったから……。あたし、本当に取りこぼしちゃってたのよ、彼女のこと……」

 そこで、「あ。別に彼女が陰気だとか、そういうことを言いたいわけじゃないのよ?」とおどけて見せる土岐先生。私はそれに軽い愛想笑いを返して、うなづく。


 先生の言うことは、なんとなく分かるような気がした。

 中学のころまでの彼女のイメージなら、アリスはまさに静海が言っていたような「陰キャ」そのものだった。もちろん、仲良くなった私には、それだけじゃないってことは分かっている。だけど、彼女のことを表面的にしか見ていないような人には、彼女はとっつきにくいオタク少女でしかなかったのだろう。


 そもそも、土岐先生みたいな先生こそ、アリスにとっては一番遠い存在って気もする。

 綺麗で気さくで、生徒の誰からも好かれるような優しい先生。でもアリスって、その「誰からも」の枠の中から意識的にはみ出そうとするようなところがあったから。そういう、明るい光に照らされていたら見えないものにこそ、彼女の興味があるように思えたから。


「でもね……」

 土岐先生は言葉を続ける。

「その六月の三者面談から、あたしたち、少しずつ打ち解けて……仲良くなっていったのよね」

「え?」

「アリスちゃんが、将来の夢とかまだ決まってないって言ったから、『じゃあ趣味とか好きなこととかある?』ってあたし聞いたの。そうしたら彼女、最近お菓子作りにハマっている、なんて言うのよ? だってほら、あたしも結構そういうのが好きじゃない? だからあたしたち、その共通の話題ですごく話が合っちゃったってわけ。

 もうそのあとは、あの子のお父さんほったらかしで、時間いっぱいまでお菓子作りトークよ。三者面談のはずが、プチ女子会みたいになっちゃったわ。

 それでね、その次の週末に一緒にお買い物に行って、アリスちゃんのお家でお菓子作りの特別個人レッスンする約束までしちゃったのよ」

「そう、なんですか……?」

 先生が語ったその彼女の姿は、自分の知っている日陰を愛していたアリスとは、微妙に乖離していた。それが、一年半の高校生活での彼女の変化なのか、それともそれ以外の原因なのかは、土岐先生の話からは読み取れなかった。

「それからは、毎週のようにアリスちゃんと会っていたかもしれないわね。お菓子作り以外にも、授業で分からなかったこととか、将来のこととか……いろんなお話をしたわ。最初は、今まで見てあげられなかった分を取り返すつもりで、先生としての責任、っていう部分が大きかったように思うんだけど……そのうち、私自身がただただ彼女に会いに行くのが楽しくなっちゃってたくらいだったわ」

「じゃあ……アリスと土岐先生はまるで、友だちみたいな関係だったんですね」

「……うーん」

 土岐先生は少し口ごもってから、「というより、年の近いお母さんかな……」とつぶやいた。

 ああ、そういえば……。

 アリスの家は、アリスが小さいころにお母さんが亡くなっていて、お父さんと二人で暮らしていたんだった。

「本当は、先生が一人の生徒にそんなに肩入れするなんて、あんまりよくないことだとは思うんだけどね。でもあの子を見ていると、だんだん放っておけなくなっちゃうのよ。彼女がときどき見せる、あの寂しそうな顔を見ていると……あたしがいてあげなくちゃだめなのかも、って。あたしがアリスちゃんにとってのお母さんがわりになれたなら……それはきっと、あの子のためにもいいことなんだ、って」

 本当に、子を想う母親のように、優しく温かい表情で話す土岐先生。

「でも……。そう思っていたのは、あたしだけだったのかしらね……」

 その表情に、暗い陰が落ちた。

「この世界で目覚めてから、図書室でディミ子ちゃんたちと話したとき……あたし、また愕然としちゃったわ。アリスちゃんが、もう死んでるだなんて……。校舎から飛び降りて、自殺しちゃったなんて……。

 あたしは、アリスちゃんのことを見守っていたつもりだった。先生として、そしてお母さん代わりとして、彼女を支えられていると思っていた。でも、アリスちゃんが死にたいほど悩んでいたなんて、全然気づけてなかった。

 あたしが母娘おやこごっこをして勝手に自己満足している裏で、アリスちゃんはずっと苦しんでいた。本当はずっとあたしに助けを求めてたかもしれないのに……あたしはそれを無視し続けてしまったのよ。

 それじゃあ、彼女に『偽善者』なんて呼ばれたって、仕方ないわよね……」

 土岐先生は足を止めて、そこで立ち止まってしまった。

 顔をうつむかせる。その瞳はかすかにうるんでいるように見える。

「先生……」


 泣いているんだ。

 アリスに対して、何もすることが出来なかった自分のふがいなさに。アリスのために、また、泣いてくれているんだ。

「先生、私……」

 そんな先生に、私は励ましの声をかけた。

「やっぱり、信じられませんよ。私の知ってるあのアリスが、先生や他の人のことをそんなひどい『肩書』で呼んで、復讐しようとしているなんて。それに、そもそも彼女が死んでしまったことだって、まだ……」

「エリリちゃん……」

 土岐先生は、私のほうに振り向く。

 彼女の顔をしっかりと見つめて、私は言った。

「先生はさっき言ってくれましたよね? 『この世界はアリスの復讐の世界じゃないかもしれない』。『この世界には別の意味があって、その謎を解き明かしたい』って。

 それ聞いたとき、私、すごくうれしかったんです。ああ、この人は、アリスのことをちゃんと知ってるんだ、ちゃんと考えてくれてるんだ、って。あの優しかったアリスが、こんな世界にみんなを閉じ込めて、『犯人を探せ』なんていうはずがない。こんな、殺し合いみたいな残酷なことをさせるはずがない、って。……だから。

 そんな彼女のことを信じてあげませんか? 私の……私たちの知っている優しくて他人想いな哀田アリスのことを、私たちだけでもちゃんと最後まで信じてあげませんか?

 それが、私たちがここに呼ばれた本当の役割だと思うんです。だって……今の私たちが出来ることは、それくらいだから……」

「エ、エリリちゃん……」

「先生……」

 先生も、私を見ている。

 うるんでいる先生の瞳を見ていると、私のほうにも自然とそれがうつってしまいそうになる。

 それに……少し場違いかもしれないけれど、今の悲哀を帯びた先生は、改めて綺麗だと思ってしまった。


「エリリちゃん……あの……」

 私の名前が彼女の口から呼ばれるたびに、ゾクゾクという不思議な感覚に襲われるのを感じる。見つめあっている私たち。なんだか、ドキドキと私の心臓が高鳴るような気がする。

「エリリ……ちゃん……。あのね……あたし……あたし、たち……」


 そして土岐先生は、意を決したように一呼吸おいてから、

「……あたしたち、今どこに向かってるんだっけ?」

 と言った。



「……へ?」


 予想外の言葉に、目が点になる。


 なんでもない風に、土岐先生は続ける。

「だってよく考えたらあたしたち、目的地とか決めてなかったじゃない? 『この世界の本当の意味を知りたい』とか、カッコいいこと言って図書室を飛び出してきたけど……どこにいけばその答えがあるのかとか、さっぱり分からないわよねー?」

「そ、それは……土岐先生がどんどん歩いていくから、私てっきり、先生が何か知ってるものだと……」

「もーう、そんなの分かってたら、苦労しないわよー。雰囲気でなんとなく言っただけで、あたし、まったくのノープランだもーん。廊下歩いたのも、階段下りてここまで来たのも、適当に決まってるじゃなーい?」

「えー……」

「この学校で調べられるところは、目が覚めて最初にみんなで集まる前に、ディミ子ちゃんが中心になってあらかた調べちゃってるのねー。だから、正直いまさらあたしたちがあがいたところで、新しい情報なんて何も出てこないような気がするっていうか? ぶっちゃけ、意味なんかないのかもねー。うふふ」

「は、ははは……」


 悪びれもせずそんなことを言ってほほ笑む土岐先生。さっきまでの雰囲気は完全に壊れて、今はただ、彼女に対する呆れ以外の感情を持つことが出来なかった。

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