第142話「狐女のジョセフィーヌ」

「これが、戦に負けるということなのか」


 ドット城を囲んだ地方貴族軍九千五百の内、徴募兵の三千が敵側に寝返った。

 その混乱を鎮めて、城を落すまもなく敵の援軍二千が到着して、包囲してピピンの軍に発砲を開始すると、軍勢は一気に瓦解した。


 その後は、傭兵団長ゼフィランサスの活躍があって、辛くも包囲から抜け出すも、ピピン侯爵は敗走に次ぐ敗走。

 ピピンを守るように並走していた、貴族軍の騎士団五百騎も、殺られたかはぐれたかして、十数騎を残すほどになった。


 なにせ、どこまで逃げても、周りが敵だらけなのである。

 地方貴族軍が負けたとの知らせは、すぐに南部の領地中に響き渡った。


 ピピン侯爵を始めとした、主だった上級騎士・貴族の首には懸賞金がかかっているらしい。

 ピピンを捕まえるか、殺して首を持っていけば、金貨三百枚だそうだ。これまで統治してきた民衆が、落ち騎士狩りと称して、領主に襲い掛かってくる。


 なんとも情けない、これまで領民を守ってきた貴族に対する恩義もないのか。

 そう語りかけても、ピピンの声は領民には届かない。剣で以て、退路を開くしかない。


「ハーフエルフが女王ではな!」


 この乱世、恩義も忠義もあったものではないのだろう。

 上が乱れれば、下も乱れる。


 二百四十余年の長きに渡る太平の世に生まれ、国の乱れがブルグンド家を伸張させる好機として立ったのに、何もできぬままに終わるのかと思えば我慢ならなかった。ご先祖になんと申し開きすればよいのか。

 生きなくては、なんとしても生き延びなくてはならない。


「下賤の者にやれるものか!」


 ピピンは、自ら剣を振るって農民が突き刺してくる槍を断ち切り、猟師が撃ってくる弓を跳ね除けた。

 まさか、侯爵たる自分が直接戦うことになろうとは思いもしなかった。それでも騎士として鍛錬を積んできた我々が、下民に負けるかという思いがあった。


 一瞬でも馬の足を止めれば、追撃を仕掛けてくる敵の本軍に追いつかれる。

 後少し、この森を抜ければオータンの街だ。


 周りを守る騎士は、一騎、また一騎と討ち取られていくが、味方の街まで逃げきれば助かるのだ。

 そうだ、後方で態勢を立てなおして捲土重来を期すのだ。カスティリアやゲルマニアに挟撃されて、いずれ王権は弱まるだろう。また反攻の機会は必ず来る。


 その時、その時こそ、私は。


「ジョセフィーヌ……」


 馬上のピピン侯爵の視界が崩れ、眼の前が赤く染まった。

 たまたま、逸れた矢がピピンの顎に当たり、そのまま落馬した。地面に強かに叩きつけられて仰向けに倒れこんだピピンの元に、槍を構えた農民兵が殺到していく。


 死の刹那。

 引き伸ばされた時間の中で、自分の亡き後に、南部貴族連合はどうなるであろうかと、ピピンは考えた。


 息子たちは、生き延びただろうか。

 野心のあるピピンに比べれば、小物揃いだ。まだしも才覚のあった一男や二男が生き残ればよいが、敗死して後方に残した凡庸な三男しか残らなければ、領地は保てまい。ブルグンド家は、潰える。


 いや誰が後継に立っても、敗北したブルグンド家が南部貴族連合の主導権を握ることはもはやない。

 おそらくは、ピピンの愛人であり、アジェネ伯爵夫人である、ジョセフィーヌ・アジェネ・アキテーヌが、南部貴族連合をまとめて指揮を執るのであろう。


 だが、あの女の力だけでは、持ちこたえられまい。

 領地も、夢も、この愛も、己が死とともに全ては終わるのだ。


 その心に、妖艶なジョセフィーヌの裸体を思い浮かべて「……もう一度抱きたい」とつぶやいたのが、ピピン侯爵の最後の言葉となった。


 ピピン侯爵を始めとした地方貴族どもの亡骸は、そのままドット城のサラ代将の元に届けられて。

 与えられた報奨金は戦火の被害を受けた村人が、無事に冬を越すために使われたそうである。


     ※※※


 南部貴族連合の本拠地、イソワールの街。

 ちょうど、シレジエ王国南方地域の中心に、小さなイソワールの街があって、建国王レンスの血を引く名門貴族ブラン家のイソワール男爵領がある。


 そして、その小さな領地を囲むように西側にブルグンド家のナント侯爵領、東側にアキテーヌ家のアジェネ伯爵領がある。

 そもそも、南部を治めるブラン家は、北部のシレジエ王国正統の血筋が途絶えたときに備えて置かれた分家である。


 そして、そのブラン家を守るために、重臣の家柄であるブルグンド家とアキテーヌ家があったのだが、年代を経るごとにその力は逆転し、今ではブラン家は名目上の統治者でしかなく、実権はブルグンド家とアキテーヌ家にあった。

 ブルグンド家のピピン侯爵が、敗死した今では南部貴族の実権を握るのは、アキテーヌ家のジョセフィーヌ・アジェネ・アキテーヌ伯爵夫人であった。


 アジェネ伯爵ハイエンドは、生来病弱で臥所から起き上がることもできない。アキテーヌ家は、狐女とも毒婦ともあだ名される妖艶なる伯爵夫人ジョセフィーヌの手に握られることとなった。


 彼女が狐女と蔑まれるにはわけがある、狐型獣人の血が混じっており、獣耳と小さな尻尾が生えている。純粋な人族を重んじるシレジエの名門貴族の社会で、彼女が半獣人アニマルハーフであることはかなりのマイナスであった。


 シレジエの南部地方、右半分を所有するアジェネ伯爵、名門貴族アキテーヌ家当主のハイエンドの愛人となったジョセフィーヌは、ハイエンド伯の当時の妻を公然と毒殺、夫人へとのし上がったのだ。

 その後、頑固な純血主義者であるピピン侯爵をも、その淫蕩なる性技でたらし込んで、自らの協力者に仕立てあげた。

 まさに、狐女と呼ぶに相応しい傾国の美女である。


「そう、死んだの」


 愛人であったピピン侯爵が敗死したと聞いて、ジョセフィーヌはそう言ったのみだった。

 物憂げに、ほっそりとした顎に頬杖をついて、涼し気な黒い瞳で窓の外を眺めているだけだ。ジョセフィーヌに父の死を知らせた、ピピン侯爵の三男坊、ボルターニュ・ブルグンドはその素っ気ない様子を見て、これがこの女の悲しみ方なのかもしれないと好意的に解釈することにした。


 イソワール城の小さな玉座に座っているのは、十二歳の麻呂眉の少年だ。

 ブルグンド家の最後の生き残りである、ボルターニュにしてもまだ十八歳の若い騎士である。


 凡庸なボルターニュが、自分より十歳年上の妖艶なるジョセフィーヌを頼りにするのは当然のことだ。

 女とはいえ、アジェネ伯爵夫人は狐女とあだ名されるほど権謀術数に長けた策士である。


「死んだの、ではないです、どうするおつもりかアジェネ伯爵夫人」

「そうねえ、良かったわねえ」


「いま良かったと申されたか!」

「そうよ、良かったじゃない。これで貴方が次のナント侯爵よね」


 ジョセフィーヌは、フッと微笑むとボルターニュの頬に嫋やかな手で触れた。

 父の死に悲しんでいたはずのボルターニュが、まるで魔法でもかけられたようにホワっとした気持ちになる。


 大きく胸の開いた黒い絹のドレスを着ていて、男ならばつい、そのふくよかな胸元に眼が行ってしまう。

 匂い立つような美貌と、芸術的なまでに美しい身体のライン。若々しく張りがある白い肌、バストやヒップは大きいのにウエストは細くて強くだけば折れてしまいそうな危うさがある。


 ジョセフィーヌのような女の色香は、十八歳の若い男には毒だった。

 それでも、ボルターニュは一度は、ジョセフィーヌの手を跳ね除けた。


「父が死んで、良かったなどとは思えぬ!」

「あら、そう」


 ジョセフィーヌは、興味を失ったように後ろに下がる。ソファーに腰掛けると水差しからコップにトクトクと水を注いで、それを飲んだ。

 ただそれだけの仕草なのに、なんと優雅で妖艶なことか。血のように赤い唇から、コップの水を飲み干すとき、その喉の動きに合わせて、ボルターニュもゴクリと唾を飲み込んでしまう。


 すでに彼女から、目を離せないようになっていることに、ボルターニュは気がついていない。

 夢でも見ていたようにホケッとしていたボルターニュは、ハッと気がついて顔を横に振ると、問いただす。


「アジェネ伯爵夫人、のんびりしている場合か! 敵はすでにドット男爵領よりナント侯爵領に攻め入って、すでにオータンの街まで来ていると言うぞ。このままでは、ナントの港も、このイソワールですらいつ敵が来るか分からんではないか!」

「フフッ」


 ボルターニュが激高しているのに、それを見てジョセフィーヌは笑うと、コップを机の上にコトリと音を立てて置いた。

 小さい音なのに、なぜかよく響く。


「笑っている場合か!」

「ねえ、カスティリア王国から援軍を呼び寄せましょう」


「ななっ、外国の軍隊を入れるというのか」

「そうよ、陸路からじゃ時間がかかりすぎるから、ナントの港から上陸させることになるわね」


 独立を保つために、それだけはやってはならないと、ボルターニュの父親は言っていた。

 すでに亡くなっても、その命令を愚直に守ろうとしていたボルターニュには青天の霹靂のような言葉である。


「そんなこと許すわけにはいかない」

「じゃあどうするの、このままだと貴方の支配するナント侯爵領自体が無くなっちゃうわよ」


「それは……」


 仮にナント領北方の街オータンが落ちたとしても、その南方にはヴィエンヌ、カストル、そしてナントの港にも防衛出来るだけの兵力が残っている。

 また、父親が雇った傭兵団はまだ健在で、律儀に撤退戦を戦ってくれているので、その上はブルグンド家の血筋のものとして、ボルターニュが将として出向き、今一度敵と戦う。


 そう言いたかったのに、若い騎士ボルターニュは何も言えなくなった。


 ジョセフィーヌは立ち上がると、上目遣いにボルターニュを見つめる。

 それだけで、ボルターニュは圧倒されてゴクリと息を飲んだ。吸い込まれるような、黒く深い瞳だ。


「カスティリアに救援を求める書状はもう書いてあるわ。我々のご主君、ボンジュール正統王のサインも頂いている。そして、貴方の許可があればすぐにでも呼び寄せられる。ねえ、ナント侯爵ボルターニュ閣下はどうするのかしら」

「それは、その」


「良かったら、首を縦に振って」


 ジョセフィーヌは、ボルターニュに書状を見せると、そのまま辺りもはばからず若々しい男の身体を抱きしめる。

 ボルターニュの無骨な頬に、柔らかく白い頬を当てた。


 彼女の豊かな胸が、ボルターニュの胸でムニュッと押しつぶされる。

 何をされたのか、ブルっとボルターニュの身体が震えた。


「わかった、わかった! それしかないのだな……」


 押し切られるように、ボルターニュは首を縦に振った。

 その瞬間、ジョセフィーヌは後ろ手で、手紙を落とした。


 その手紙は、すぐさま静かに控えていたジョセフィーヌのメイドに拾われて、カスティリア国王へと送られることになる。

 もしジョセフィーヌが、自分の領地であるアジェネ伯爵領に、外国の軍隊を入れろと言われれば断っただろう。


 そんな弱みを見せれば、あの狡猾なカスティリア王に、どんな対価を取られるか、わかったものではない。

 しかし、ナントの港は彼女の領地ではないので、どうなろうと知ったことではない。


 救援を求めたのは、あくまでブラン家のボンジュール王であり、ナント侯爵領だ。

 以前からナントの港に入りたがっていた、カスティリアの援軍がどこまでやるかは知らないが、ピピンが負けた以上、なんとかそこでシレジエ王国軍を食い止めて貰わなければ、ジョセフィーヌも困る。


「素直な若君には、ご褒美をあげないといけないわね」

「アジェネ伯爵夫人」


「私は、狐女の半獣人ハーフだけど、人族以外の女はお嫌いかしら」

「いや、僕は特に気にはしない、気にしないよ」


「フフッ、可愛いわね。ねえ、私のお尻に小さい尻尾が生えてるんだけど、見てみたい?」


 ジョセフィーヌは誘うように、そっと黒いドレスのスカートをたくしあげてみせた。


「それは、もし見せていただけるなら……いやいやっ! アジェネ夫人。それは、いろいろとマズイのでは」


 ジョセフィーヌが、ボルターニュの首元に繊細な指先をゆっくりと這わす。

 彼は思わず、ゴクリと喉を鳴らした。


「夫人じゃなくて、二人のときはジョセフィーヌって呼んでくれる?」

「ああ……」


 ジョセフィーヌは、ボルターニュの手をそっと引くと、そのまま臥所へと連れて行った。

 もはや、若い彼はジョセフィーヌのなすがままであった。

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