第104話「前日譚『酷現実を生き抜く 転』」

「ふぇぇ、もういやぁ!」


 ハンドルを握る水城先生の悲鳴とともに、ガッシャーンと金属同士が叩きつけ合って、ガラスが砕ける嫌な音がして、車体がそのまま横転するんじゃないかと思うほど、浮かんでから地面に叩きつけられた。

 同時に、俺もつかの間の浮遊感のあと床に何度も叩きつけられて、骨が軋むような痛みが襲う。打ち付けたときに、膝をすりむいた。


「いってぇ……」


 でも、まだ生きているから痛いのだ。

 突破できるかどうか、危ないところだった、そのまま公道をひた走っていくバスの景色を眺めると、俺はホッと気が抜けた。


 衝突で、爆発がなかったのは幸いだった。大きなバスならともかく、マイクロバスでは車体が耐えられなかっただろう。

 大丈夫だったと分かれば、マイクロバスが派手に車を弾き飛ばすシーンが見られなかったのが残念に思うぐらいの余裕が出てくる。

 人間は現金なものだ。


「佐渡くんは、なんでも知ってるんだね」


 凛と澄んだ声が後ろから響いて、気が抜けていた俺は少し驚いた。

 影絵かげえの奴が、こっちまで歩いてきて、声をかけてきた。


 このいつも浮かない顔をした美少女は、人に話しかけられると物憂げに応対するが、自分からコミュニケーションを取るということをまずしない。

 人に話しかけるのを初めて見た、もちろん俺も話しかけられるのは初めてだ。


 俺はずっと遠くの席から彼女を観察してきたので、それを知っている。

 こんな影のある美少女でも、この状況には興奮して、それで話しかけてきたのだろうか。


「いや、なんでもは知らないよ……」


 知ってることだけ、という後の言葉を飲み込む、そんなつもりはなかったのだが、有名なラノベの定番のセリフだ。

 近くで聞いてたオタクの町田だけは分かったのか、嬉しそうに薄ら笑いを浮かべている。


 はぁ、つまらんことを言ってしまったな。

 どうやら、ゾンビ映画のように、逃げる車で道がごった返しているということはないようだ。


 俺はそれでも、水城先生になるべく大きな道に逃げるように言うと、みんなからなるべく離れた座席に腰掛けた。


 その隣に、そのまま影絵が追いかけて座ってくる。

 なんで今日に限って、そんなに積極的なんだよ、近いんだよ。


 サッカー部の佐々木がジロッとこっちを睨んだのが感じられた。あいつらのグループは美少女の影絵が好きでよく絡んでたからな。俺みたいなのが、彼女に近づくと不愉快なんだろう。

 普段の俺ならトラブルになるから避けるところだが、いまさら学校の空気なんかどうでもいい。


 影絵は元から、そういう空気を一切無視する女子だ。

 俺にピタっと身を寄せると耳に小さい唇を近づけて擽るように、小声で囁いてくる。


「じゃあ、犯人が誰かも知ってる?」

「俺は探偵じゃないから、そこまでは知らない」


 つかの間の仲間意識、安全圏に脱出できたという気軽さで、思わず返答してしまった。

 正直ドッキドキだった、こうやって同級生と近くで話すだけでやばいんだよ、俺が惚れても知らないぞ。


 待てよ、喜んでる場合じゃないぞ。この展開は、俺が犯人だと疑われてるのか。

 そもそも、こんな事件に犯人がいるとも思えないが、この付近に怪しい製薬会社なんてないし。


 影絵は、俺が犯人だから、よく知ってると推理したのか。

 それなら、洋弓部でもないのに、競技用洋弓リカーブボウの扱いに卓越してる町田のほうがよっぽど怪しいぞ。あいつは明らかに容疑者の一人だ。


「じゃあ、犯人が誰か、教えて上げようか」

「知ってるなら教えて欲しいけど」


「犯人は私」

「そうなのか」


 予想外の答えに、思わず覗きこんでしまった瞳の美しさに絶句する。

 小造りの顔の造形は整っているが、彼女の瞳の色は暗い。だからこそ美しく人を井戸の底まで引きずり込むような怖さがある。


 いつも美しい彼女の横顔を見ていたのに、俺は彼女の瞳をよく見ていなかったのだと気がついた。

 変な表現だけど、彼女の美はホラー的だ。死の香りがする。


「そう言っても、やっぱり信じてくれないかな」

「そうとは限らないけど」


「本当に?」と彼女は、瞳の奥に小さな輝きを瞬かせる。

 何か、良くないところにズリッと引きずり込まれるような気がする。それでも俺は思わず「本当に」と返してしまった。


「原因は、これなの」

「ビー玉?」


 影絵は、ガラス玉を掲げてみせた。透明だが、中に赤黒い煙のようなものが渦巻いている。

 子供のおもちゃにしか見えない。


「ビー玉じゃなくて、『願いの宝珠オーブ』。心の底から強く思う願いを一つだけ叶えてくれるんだよ」

「ふーん」


 彼女やたら黒目がちな瞳で、イタズラッぽく俺の眼を覗きこむ。

 俺はそれを見て、ドキドキしていた気分が急に冷めた。


 影絵の瞳を見ているうちに、やけに冷静になった。

 分からないけれど、真面目な話だと思ったからかな。影絵が言っていることはかなり重要なことで、真実を含んでいると感じられた。


「やっぱり信じられない?」

「いや、信じるよ」


 あまりにも、嘘臭い。根拠もクソもない話だが、だからこそ信じられた。

 影絵の口からそれが出たからだ。


 彼女は、完全に宝珠オーブとやらに魅入られている。信じきっている口調だ。

 そして、俺はそう語る彼女の声に魅入られた。


 信じるのは直感だ。

 あとから、理性がそれに理由を付ける。


 ゾンビが発生するなんて、荒唐無稽だ。だとすれば、その発生原因はそれに相当するぐらい荒唐無稽でいいんだ。

 少なくとも、影絵が提示している荒唐無稽な話を、嘘だと否定する材料を俺は持っていない。


 この場は、正しいと仮定するほうが良いと思えた。


「自分で話してなんだけど、佐渡くんが信じてくれるとは思わなかった」

「それはいいから、教えてくれ。そんな宝珠どこで手に入れたんだよ」


「友達が持ってたの、私の唯一の友達がくれたの」

「その友達って、どうなったの」


「私に宝珠をくれた直後に、消えちゃったの」

「消えた……」


 あっけない話だ。

 消えたか。その友達は、その『願いの宝珠オーブ』に何を願ったのか。


「だから、貴方に宝珠をあげようとおもって、私はもう死んじゃうから」

「なんで死んじゃうんだ」


 そんなビー玉をくれるなんて話より、そっちのほうが気にかかった。

 せっかく安全な場所まで逃げてきたというのに。


 俺の顔色をうかがうように見ると、影絵がクスリと笑った。


 影絵は、いつもは無表情であるか、苦渋に耐えているような顔をしているの。

 つるりとした白い頬に、人間らしい感情を浮かべるのは久しぶりだろう。楽しそうだった。


「心配してくれるんだ、優しいね」

「いや、普通心配するだろう」


 そう言いながら、俺は普通じゃないし、誰でも心配するわけではないからこれは欺瞞だなと思った。

 影絵だから、俺は心配している。授業中に、たまに横顔を見つめるだけの美しい鑑賞物として心配してるわけじゃないようだ。


 こんな状況で親しく話してしまったから、もう赤の他人ではなくなってしまったから、そう思えるのかもしれない。

 だとすると、我ながら単純だな。普段から俺は孤高だなんて思っていながら、自分のチョロさに苦笑するしかない。


「佐渡くんが、私と同じだから宝珠をあげるんだよ。話す前から分かってたけど、話してみてそれがよく分かった」

「いや、俺には、言ってる意味がよく分からないけど」


 死んじゃうって話はどうしたんだ。

 彼女にとっては、俺にビー玉を渡すほうが大事らしい。


 そもそも、同じってなんだ。ゾンビが発生することを想定していたという意味なら、町田のほうがよっぽど対策を練っていた感じだぞ。

 俺は、ただみんなを連れて逃げまわっていただけで、実質は何もしていない。


「佐渡タケルくんは、私と一緒で孤独な人でしょう。ずっと見てたから知ってる」

「同じって、そういう意味で言ってるのか」


 俺は密かに憧れていた美少女に話しかけられた喜びもどこかに吹き飛んで、途端に不愉快な気持ちになった。

 美少女に、ずっと見ていたとか、同じだとか言われたら、普通だったら喜ぶところなんだろう。


 でも俺は、その場で唾を吐きたいぐらい気分が悪くなった。同じだと?

 お前みたいな、みんなにちやほやされてる可愛い女が、孤独を語るか。


 確かに影絵は人を拒んでいたところはある、でも常に人に囲まれていたし付き合いを断ってはなかっただろう。

 俺は、そんな中途半端な女と一緒にはされたくない。


 その美しい小さな唇で孤独を語られては、俺こそがたった一人の孤高だという思いが汚されたような気がした。

 理性的に考えれば、それは思い上がりだって分かるけれど、それでも自分の孤独は人とは違うのだと言いたかった。俺は特別なのだ。


 こうして肩を並べて、同じだと言われれば人は喜ぶ。ちょっと見栄えのいい男に、貴女の気持ちがわかるなんて言われたらコロッと行く。女の子はそうだろうよ。

 俺は心理学の本も読んだから知ってるんだぞ。


 でも俺は違う。同じだなんて言われたら、バカにされたような気がする。俺の大事にしている心を汚されたような気がするんだ。


 それを分かってないのに、同じなんてよく言えたものだ。

 いくら美少女だからって、言っていいことと悪いことがある。そしてこれは、最悪に悪いことだ。


 お前のことは分かっているなんて、他人に一番言われたくないセリフなんだ。

 喉の奥からこみ上げてくる不快感と怒りに、熱くなるどころか心が冷えきった。


「そういうところが一緒」

「何が!」


 まだ言うかこいつ、と思う。

 俺だって怒るときは怒るんだぞ。


「一緒って言われて、不機嫌になるところ。バカにされた気がしたでしょう。自分の気持ちは誰にも分からない。自分は人とは違うんだって思ったでしょう。そういう独り善がりなところがそっくり」

「ああ……。その宝珠オーブってのは、人の心でも読めるのか」


 一瞬で毒気を抜かれた。

 ここまで図星を突かれては、鼻白むしか無い。お前は何者だよ。


「さあどうかしら、そんな力はないと思うけど。でも、本当にずっと見てたよ。私はもうこの世界に友達は一人もいないし、これを渡すなら、佐渡くんだってずっと思ってた。もう時間がない」

「そう言われてもな」


 俺は押し付けられるように、宝珠オーブを受け取る。

 その時に、ほっそりとして柔らかい手が一瞬だけ触れた、女の子の手だなと思った。


 宝珠オーブを見るが、本当にただのビー玉にしか見えない。

 こんなものに、願いを唱えるなんて馬鹿らしい気もするし、案外とこんな常識はずれの大きな事件を起こす原因というのは、こういうツマラナイ物なのかという感じもする。


 願いを叶える宝珠。本当だったら奪い合う対象になるだろう。

 だからこそ、こんなそこらに転がっているようなビー玉の形をしているのか。信じた人間だけに力を与えるように。


「本当は、私一人が死ねばよかったのに」


 普段は口数が少ない影絵が、饒舌にそんなことを語るので恐ろしくなる。

 嘘偽りない本心で、自分が死ねばいいと言っているのだ。


 俺はこの時のことをずっと後悔している。

 影絵はどうして、死にたかったのか、どんな理由があったのか。聞けるとしたらこの瞬間しかなかった。


 俺にどうにかできるなんて思い上がりはしないが、せめて知っておきたかった。

 押し黙っている俺に、さらに影絵は饒舌に続ける。死を前にして、ようやく望むべきものがきたと喜んでいるようにすら見える。


「とっさに、私じゃなくて世界が消えればいいと願ってしまったからこんなことになったの。私が自分勝手で最低な人間だからこうなったの、ごめんなさい」

「俺に謝られても困るし」


 学校にゾンビが出ただけで、どれだけの人間が死んだか。

 あの発生の仕方は、明らかに殺しにかかっていた。強烈な悪意が感じられる囲み方だった。俺も巻き込まれて、死んでいた可能性は十分にあった。


 だが、影絵を「よくもやったな」と罵倒する気にはならない。

 それは、荒唐無稽な彼女の話を信じてないってわけではない。


 話したこともない学校の何百何千という人間より、目の前で話している少女を俺は優先しているのだ。

 事故だったなら、死んでしまったものはしょうがないと思う。影絵が狙ってやったわけじゃないだろう、『願いを叶える宝珠オーブ』なんていかにも、罠がありそうだ。願いを叶えつつ、できるだけ悪意に解釈して、酷い目に合わせるとかやってきそうだ。


 影絵が悪いわけではない。そう考えてから、俺は無意識に影絵を弁護していると気がついた。

 これまでの展開は、よくあるテンプレゾンビモノだった。だからこそ、流れを知っている俺は、うまく回避できたのだ。だったら、影絵はただ単に、創作物のゾンビのイメージそのままに、世界の破滅を願ったのだとも言える。


 それが、純然たる悪意以外の何だというのだ。

 でも俺は、影絵を非難できない。それどころか、何とか彼女が原因であることを隠したいと思っていた。


 影絵の言う通りなのかもしれない。

 俺は彼女と同類だ。あの死の鬼ごっこを楽しんでいた、人が喰われるのを見て、久しぶりに生きている気がした。噴き上がる血しぶきに興奮していた。


 ゾンビモノを鑑賞する観客みたいに、つまらない日常がぶっ壊れるのを喜んで見ていたから冷徹でいられたのだ。

 影絵が異常なら、俺だってまともではない。


「でも佐渡くんは何とかしたよね、私まで助けてくれて、カッコ良かったよ」


 この惨劇を招いた、ゲームマスターである少女はそう言って、幸薄そうな頬に微笑みを浮かべた。

 別に助けたわけじゃない、ずる賢く自分だけが助かろうとしただけだ。カッコ良かったなんて言われて恥ずかしくて、そう訂正したかったがやめておいた。


「助かったんなら、死ぬ必要ないじゃないか」

「ダメだよ、私のせいでこんなに殺しちゃって、生きていけるわけないよ」


「影絵が死んだって、死んだ人が生き返ってくるわけじゃないだろう」


 俺は自分の口から出てきた言葉にゾッとした。

 こんなときに、なんて月並みなことを口走ってるんだ。


 彼女に消えて欲しくないなら、そういえばいいのに。

 なぜ俺は、素直にそれが言えない。


 影絵は、的外れの俺の言葉を聞いても曖昧に微笑むだけだ。

 届かない言葉だと、口にした自分が一番良くわかった。


「とにかく、死ぬなんて言うなよ。もう事件は終わったんだろう。だったら」


 その時、大きなタンデムローターの風切り音が聞こえて、俺はバスの窓から外を見上げた。

 自衛隊のヘリの編隊が、ゾンビで溢れているであろう学校へと向かっていく。


 ようやく、近くの駐屯地から自衛隊が動き出したらしい。

 いまさら遅いと思ったが、出動要請の手続きを考えれば、行動はむしろ迅速な方なのだろう。


 自衛隊が動けば、事件は収束する。全ては終わったのだ、俺はそう楽観していた。

 水城先生の運転するバスは、警察の避難誘導に従い、近くの中央病院へと向かう。

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