18

「ーーーじゃあね、綿谷さん。また明日」



帰りのホームルームが終わり、ガヤガヤし出す放課後の教室で。


カバンを持った山中さんが、帰り際にわたしに声をかけてくれた。


「あ……うんっ。また明日っ」



また明日ーーーーーー。



なんか……すごく嬉しい。


あたたかくなる胸をそっとおさえ、わたしも帰り支度をする。


カバンを持って教室から出たその時、廊下で高杉くんの後ろ姿を見つけた。


あ、高杉くんだーーーー。


高杉くんはサッカー部。


毎日放課後は、部活の大きなスポーツバッグを肩から下げてサッカー部の練習へと向かう。


いつも見かけるその姿。


いつもはただ見ているだけ。


だけど、今日のわたしは違った。


とっさに声が出た。



「た、高杉くんっーーー……」



名前を呼び、彼の元へと駆け寄った。


振り返る高杉くん。


わたしは思い切って言った。


「あ、あのっ。焼きそばパン、すごく美味しかった……!ごちそうさまでしたっ」


ペコリッ。


頭を下げると。


「おお、ちゃんと食ったか。うまいよな、ここの焼きそばパン」


にっこりしながら言う高杉くん。


「うんっ。なんか、すっごく美味しかった!」


思うがままに熱く言うと、高杉くんが笑った。


「やっぱ綿谷っておもしろい。なんかイメージと違うっつーか」


「え」


「いい意味で」


いい意味でーーー。


「帰んの?」


「あ……うん。た、高杉くんは部活……?」


「おう」


「……がんばってね!」


言えた!


いつもいつも、部活へ向かう彼の背中を見ながら心の中でつぶやいていた言葉。


初めて声に出して、言葉にして言えた。


彼に届けられた。


「サンキュー。じゃあな」


軽く手を上げ、笑顔で歩き出す高杉くん。


あたしも小さく軽く手を振る。


ドキドキドキドキ。


胸が小鳥の鼓動のように、早く小さく鳴っていた。



何度も自分に問いかけてるけど。


これは夢じゃないよね?


ホントのことなんだよね?


今、わたしの目の前で起こっていることなんだよね?


きゅううっと胸が苦しくなった。


嬉しくて。


嬉しくて。


あたしはカバンをぎゅっと抱きしめたまま、足早に歩き出した。





いつもの通学路。


いつもの家までの道のりも風景も、なにもかもが明るく見えるような気がする。


軽快に音を立てるローファー。


わたしは歩きながら足元を見る。


きゅっと細くしまった足首。


スレンダーな足がアスファルトの歩道をの上をどんどん進んでいく。


ピタ。


ふいに足を止めてみる。


そしてまた歩き出す。


ピタ。


また止める。


歩き出す。


ちゃんとわたしの意思で動く足。


ちゃんと、わたしの足。


わたしなんだーーーー。



ふと、右手側に続く土手に視線を移す。


ちょっと下りて休んでいこう。


少し、頭と体を落ち着かせたい。


正直まだこの現状に心が追いついていない自分がいる。


まだ夢の中にいるような。


そんな感覚の自分がいる。


わたしは緑のゆるやかな坂道をゆっくり下りていき、真ん中らへんで静かに腰を下ろした。


「はぁ……ーーー」


小さく、でも大きく息を吐く。


わたしは静かに寝転んだ。


空が青い。


ぽっくりした綿あめみたいな雲が、たくさん浮いている。


ふぅーーー……。


もう一度息を吐く。


緑の匂いと、やわらかな春風が心地いい。


なんか……。


こんな風に学校の帰り道に制服のまま土手に寝転んだりするのなんて初めてだな……。


初めてーーーー。


今日は、なにもかもが初めてのことばかりで。


奇跡のようなことばかりで。


自分にこんなことが起こるなんて。



「まだ信じられないーーー」



わたしの心の声を誰かが言った。


えっ?


寝転んだまま声のする方を向く。


すると。


「ーーーってカンジ?」


にこっと笑う見たことのある顔が、わたしの顔のすぐそばにあった。


ガバッ!


わたしは飛び起きた。


「育ちゃん」


わたしの名前を呼ぶ笑顔の男の子。


数時間前に見た、見覚えのある顔。


それは……不思議な海辺から不思議なトンネルをくぐる前にわたしと一緒にいたあの男の子、ケンくんだった。


突然現れた彼に、わたしはビックリして言葉が出ない。


ジーンズに白いTシャツという、いたってシンプルな格好。


ちょ、ちょっと待って……。


一見すると普通の人だけど。


彼は、違うよね……?


だって、あんな不思議な出来事の最中さなかにいた人だよ?


だから、いわゆるわたし達と同じ人間……ではないと思われるんだけど。


でも、今わたしの隣にいる。


改めて湧き上がる疑問。


あなたは……誰なの……?


わたしが驚いたままマジマジと彼を見ていると。


「あれ?オレのこと忘れちゃった?早いな、育ちゃん」


彼がわたしの顔を覗き込んできた。


「う、ううんっ。覚えてる……。ケン……くん」


わたしがそう言うと。


「よかった。人生最大の出来事の瞬間に立ち会った重要人物を早くも忘れちまったのかと思ったぜ」


ケンくんが笑った。


「で、どう?調子は。新しい自分には慣れた?」


わたしは正直に答えた。


「……まだ自分じゃないみたいで、全然慣れない……。でも……」


「でも?」


「……今まででは考えられなかったような、嬉しいことばかりが起きてる……」


「よかったじゃん」


笑顔のケンくん。


「あ、あのっ……」


「ん?」


あなたは誰?と聞こうとしたけど。


なんだか、その質問の答えはきっと余計わたしの頭の中を混乱させるだけのような気がして。


わたしは聞くのをやめた。


既に、もうわたしの身にはこの世では考えられないような不思議なことが起こっている。


今は、この今の自分のことだけ、考えたい。


「……あの……。明日も、わたしはこのわたしなの……かな」


また明日ーーーーー。


帰り際にそう声をかけてくれた山中さんの顔が頭に浮かぶ。


「今日寝て……明日目が覚めても、このわたし……?」


おそるおそる聞いてみる。


すると、彼はカラッと答えた。


「もちろん。明日どころか、これからずっとこの育ちゃんだよ。新しく生まれ変わったんだから」


「そうなんだ……。そうだよね……。もう、前のわたしじゃないんだよね」


「そうだよ。この育ちゃんが、みんなから見える〝綿谷育子〟で、ちゃんとこの世界に存在してるんだから。心配しなくても、もう元の育ちゃんには戻らないよ」



もう、デブで可愛くないわたしに戻ることはないーーー。



なんとも言えない不思議な高揚感があった。


明日も……明日の朝も、高杉くんと山中さんに会ったら『おはよう』って挨拶しよう。


それから、また山中さんと図書室に行きたい。


お昼も……一緒に食べたい。


なんだか、やりたいことが次々と浮かぶ。


こんな気持ち、初めて。


わたしはそっと自分の胸に手を当てた。




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