shape five 学生活動

翌日リサは誰よりも早く学校に行った。早く行ったからといって、カナタと出会えるわけではないのだが。

しかしその予想は外れた。学校に近づいて、屋上をみあげると人影が見える。その輪郭はカナタのように思えた。あたりの意識がリサに向いていないことをはかり、リサは屋上へと飛び上がった。

ちょうどカナタは地面に寝つぶれていたので、リサの蛮行は目にされなかった。

「おはようございます」

寝ころんだばかりのカナタはまさかここで自分に声をかける人間はいるとは思っていなかったので、びっくりして頭をあげた。

「…あっ」

カナタは口をぽかんと開けて、首を傾ける。まるで人の名前を失念したように。

「悠木リサです」

カナタは自分が名前を忘れたと気づかれたことに顔を赤くする。しばらく無言だった。

カナタは口をすぼめながら、話す。

「…悠木さん。よく会うね」

「こちらこそ、よく出会います」

予想していなかった回答を受けて、カナタは戸惑う。

「悠木さんどうやって、ここに来たの」

「なんで」

「なんでって、私は鍵持っているけれど、持っていないでしょ。ね」

カナタは慌てふためきながら、ポケットから鍵を取り出した。確かにリサは鍵を持ち合わせていない。

「私は魔法使いなので、カギは要りません」

すぐにばれる嘘をついてしまった。自分でもつくづく思うのだが、リサは嘘が下手だった。

しかし、カナタはそれで納得してしまったようだ。それでいいのかと思う。

カナタはぼーと空を眺めている。

「私、ここ、お気に入りなんだ」

「そうなんだ」

リサはカナタの横に座る。彼女の横で空を見たかった。

「…トランペット、吹いてほしいの?」

カナタは潤んだ目でリサをみる。

カナタは常に泣いているようだった。何がそんなに悲しいのか。リサはカナタの人生を知らないから、何もいえなかった。

「聞きたいよ。あなたの演奏」

カナタはそれを聞くと、小指にかけたトランペットを両手で構えた。カナタは立ち上がる。目つきが変わったように思う。その視線は目にすることのない青空の向こうにいた。

演奏が始まった。リサは自身の生命の終末まで届く演奏に胸が妬かれる。もうどこへも行きはしない。未来はすぐそばで笑っているように思えた。

延々に続くかと思われた演奏は気がついたら、終わっていた。終わりの予兆を感じることもなく、閉じた。

「……」

リサは見た。カナタは大粒の青い涙をぼとぼととこぼしていた。リサは自身の胸に雷が奔り、すべて焼き払う感覚をおぼえた。人がなにかをするということがこれほどまでに、他人の心を揺れ動かすなんてリサには信じがたかった。しかし真実は明らかに信じるしかない事実を提供していた。

「私、トランペットなんて吹きたくないの」

じゃあ、どうして吹いているの。どうして持ち続けるの。それを聞くにはリサはあまりにもカナタを知らなかった。知りたかったが、そこから先の興味へ足を踏み入れることは躊躇してしまう。

カナタはただ涙をぽろぽろ溢すばかりで拭こうとしない。トランペットを吹くたびに、彼女は涙を流しているんだろうなって想像できた。

リサは床に寝ころんだ。空は白い霧に覆われてよく見えない。

手を伸ばすけれど、なにもつかめやしない。

カナタを慰めてやりたいけれど、どうすればいいのかわからない。

時間は知らず知らずのうちに経過し、チャイムが鳴る。

リサは教室に向かわず、カナタの涙が納まるのを待ち続けた。

ようやく涙が納まったかと思うと、お昼前だった。

カナタはつらさを押し隠すように床にぺこりと座る。

リサは寝ころんだままだ。

カナタは自分の過去を話し始めた。

まず父親の話。トランぺッターの父親は才能発揮することもなく、くだらない内紛の犠牲となったこと。

父親の才能をみこんで妻となった母親の不満はいつもカナタに向けられたこと。

半端に名前の売れていた父親は戦死すらも政治の材料として扱われた。それが原因でカナタ親子は村から疎外され続けている。

カナタに味方はいなかった。逃げる場所も力もなかった。彼女が最後にすがれるものは父親が残していった形見のトランペットだけだった。

「私はトランペットが嫌い。これさえなかった私は産まれていなかっただろうから」

それでも、彼女は生きていて、トランペットがそばにある。

「どうしても、死ねないの」

カナタは笑顔でいいきった。リサは胸が苦しくてたまらない。

話を聞き終わったかと思うと、もう夕方だった。薄ピンクの空が少しずつ緩和されていく。

カナタは屋上の網へと向かっていく。何を求めているのかわからない。

「えい」

カナタはトランペットを屋上から放り投げた。がしゃんと破裂したような音が鳴る。

リサは心に張り詰める神経のガラスが瓦解する気持ちを味わう。

「いいの? 大事なものだったんでしょ」

カナタは笑顔で振り向く。

「もういいの。なんだか、疲れちゃったし」

カナタはそうして屋上から消える。

リサは屋上から出ていけない。

リサは悲しかった。

先輩のような力を秘めて生きている子。そんな子が自分を認められず、自らを手放すように力を投げ捨てる。

そんな世の中を認めてはいけない。

リサは大粒の涙をとめられない。リサはハーモニカを取り出した。ハーモニカを必死に弾き続けた。力の限り。心の限り。

だめだ。リサは演奏をやめる。

自分の才能ではだれにも届かない。届かせられる人は限られているのだ。

リサができないならば、できる人のためにリサは動きたい。

リサは首にかけたハーモニカを引きちぎり、柵の向こうへ放り投げた。

私にできる事。リサはそれのために動く。



カナタは夢遊病のように足をふらつかせながら、自宅へと帰る。

途中すり寄ってくる猫を可愛がっていると、いつの間にか日は落ちていた。早く帰らなけらばならない。帰ったところで何もすることはないのだが。

ボロボロに汚れたごみ屋敷がカナタの家だ。生活不適合者しかいなければ、こうなる運命だ。

家の前に高山が立っている。カナタはため息を吐く。ここのところ毎日カナタを待ち伏せをしている。さすがにうっとうしいことぐらい伝わってもおかしくないころなのだが。

「やあ。大北さん。元気ですか」

カナタは返事をしない。変質者の気があるものには無言が一番効くのだ。

「今日はね、あなたの大切なトランペットが落ちているのを見かけまして。これは事だなあと思いまして、来ましたよ」

なぜか男はカナタが捨てたはずのトランペットを持っている。この男はどこまで人の神経を乱したら気が済むんだろう。

「それ、私のじゃありません」

「そんなわけありませんよ。ほら、見てごらんなさい」

大北龍と刻まれた文字。

「お父さんのトランペットではないなんて、いいませんよね」

リサは無言を貫き通して、家に入る。

いつも通りの異臭。カエルと潮の香りと油の匂いが入れ混じった臭さだが、もう慣れてしまった。

あふれるゴミをかいくぐって、自分の部屋へと進む。母親がいる居間を通り過ぎないといけない。

母親はぽかぽかな気温であるのに、炬燵の中に醜い姿態を隠して、ぼりぼり煎餅を食べている。ノイズ交じりの割れた液晶画面に映る異国のアイドルを無表情で見つめている。

母親はまるで強欲を集約させたような女だった。カナタは出来る限りならば、この女と接点を持ちたくない。

母親の関心をひかないように、カナタは無難に進む。しかし何がダメだったのか、母親は急に夏が来たように目を見開かせ、カナタを罵倒し始めた。

「この泥棒猫。一体今日は何を盗みに来たんだい。お前みたいな屑を産んだ私ほど悲しい人間はこの世にいないよ。おらっ。そのくそ長い髪なんて早く切ってしまい。お前みたいな不細工は禿にしてようやく釣り合いがとれるってもんだよ。私が切ってやろう。ほら顔をだしな」

カナタは何も聞いていないように走り逃げた。自室の扉を閉める。机を二台重ねて力の限り閉める。母親はどんどんとドアをたたき続ける。

「こらっ。私はあんたを引きこもりに育てた覚えはないよ。引きこもるぐらいならば、泥棒猫のほうがよっぽどましさ。ほらっ。早く開けなさい。いい子でしょ。お前の薄汚い顔を叩きたくてたまらない。早くでてきなさい。ほらっ」

母親のくだらないあがきは二時間ほど続いた。カナタはその間中扉を抑え続けた。

表からチャイムの音が聞こえる。怒声から一転若い猫のような声で母親はカナタの部屋から離れていく。カナタは全身の力が抜けるように床にぺたりと座り込む。

男たちと母親の飲み会が始まる。甘く、淀みが渦巻く集団は次第に卑猥に身を溶かしていく。カナタは耳をふさぎ、布団の中にこもる。

この生活に終わりはあるのだろうか。ないように思われる。

そのことがカナタの胸に当たり前のように定着していた。

「カナタちゃん、いるのかな?」

無遠慮な男はドアをノックすることなく、部屋の中に入る。

男はゆっくりとふとんを剥がしていく。

男はそして、カナタの唇を奪う。

カナタはこういうのには慣れている。ただ、なすがまま受け止める。そうすれば、いつか終わるから。



翌日リサは通常通り学校へ通う。前日復帰予定だったものの、カナタと過ごしているうちに行きそびれてしまった。

通常通りの時間に行くと、教室の面々はリサの姿に驚き、そして離れていく。

ユカコだけが近づいてくる。

「お母さん大丈夫やった?」

「うん。すっかり元気で、病気なんて嘘だったんだなって信じられるほど。そっちこそ、元気でした?」

「私はそりゃあピンピンしてるで」

周りを伺うと大西エリがいない空気を覚える。

「大西さんって、また休んでいるの?」

「そやで。悠木さんが休み始めた期間と同じくらいやなあ。あんたら、出来とるちゃうんかって影の噂もあるんやけど、そんなの嘘やなあ」

リサは苦笑いをする。あながち的外れではない。

「ちょっと、なにか言ってやあ。私かって疑ってしまうで。そんなんじゃあ」

ユカコは顔を赤く染める。誤解も進みすぎると毒になる。

「話は変わるけどなあ」

「なに」

「私なあ、今度の休みに日帰りの旅行こうと思うねん」

「へー、どこまで行くの」

「ちょっと海の見える所まで」

「へー、いいじゃない」

「でね。よければなんだけど、悠木さんも一緒に行かへん」

リサは怪物と決着をつける前にちょっとした旅を楽しむのも悪くない気がした。

ユカコと仲良くメリットなど何もない。それなのに、どうしてか了承しても構わなく思える。

「一緒に行くわ」

「やった!」

ユカコは小躍りしながら、リサの手を掴み、ブンブン振る。リサは嬉しくて、頬を赤く染める。

「じゃあ、次の土曜日、にわとり広場で集合な」

にわとり広場とはB村で集合するならここっていうぐらいの名物スポットである。正午になると村中の野生の鶏が集まって、集会を開くことで有名だった。

授業が始まっても、リサは旅の事を考えていた。思い返せば、生まれてこのかた旅に出たことがない。某国ではひたすら研鑽の日々で娯楽というものとは縁がなかった。某国全体がそういうわけでなく、リサの過程が特別そのような方針をとっていたのだ。

いったいどのような旅になるのだろう。お昼にはサンドイッチが必須だろう。おばあさんに教えてもらおう。

リサはワクワクが止まらなかった。



最終下校のチャイム、『遠き山に火は落ちて』が流れてる。

大西エリの取り巻きである三人は肩身を狭くして下校をする。

三人は大西エリについているだけであって、特別三人の仲がいいわけではない。だからといって、大西エリ不在時にバラバラになってしまうとハブられるかもしれないから四六時中つるんでいた。

三人は無言で歩く。夕焼けは今日も薄いピンク色だ。

しびれを切らして、少し大人な雰囲気の女の子が話始める。

「最近、エリさん、休み多くない?」

他の二人は眉毛をピリピリと揺らす。誰もが感じているが、あえて話題に出していなかったことだった。

三人は大西エリの圧倒的な存在にひれ伏し、生きていた。彼女たちの学年で、大西エリの存在を無視して生きることは不可能だ。三人はそれぞれの思惑は違えど、人の下に居ることは死ぬほど嫌な人種だった。大西エリの横に居ることで、彼女たちのプライドは満足できた。

「気のせいよ。前だってこれぐらい、休んでいたわ」

ギャル系の女の子は否定した。三人ともこの話はするべきではないと分かっている。暗黙の了解に踏み込むものは、闘う意思のあるものか馬鹿だけである。

「……」

会話は続かない。三人とも少しよそよそしい。

三人はそれぞれ気が合わないと感じていた。それでも親友のように周りにふるまっていた。

しかし悠木リサがきてから、全ては変化した。

リサは彼女たちのルールに従わないどころか、受け止めようともしない。基本的に奴隷、配下として大西エリに忠実であるか、何事も口出しせず仏像のようにおとなしくしているか。リサはおとなしくであるが、地道に自身の道に進んでいるから癪に障る。

しかも、大西エリが悠木リサに対して特別な感情を寄せていることが一番の問題だ。三人は、大西エリにとってどうでもいい存在だと身に染みて理解していたが、だからこそ三人以外に興味を惹く人間がいるという事実は耐え難いことなのだ。

それに加えて、大西エリが最近おかしくなっていることも感じていた。以前からまともな人間ではない事は分かっていた。気に食わない人間が居たら、暴力でひれ伏させることが趣味だった。三人はそれに便乗して、優越感に恍惚としていた。

しかし、最近の大西エリは度が過ぎている。奴隷の同級生メガネ女子を再起不能に至らせるほどに破壊するし、目の前に動物がいたならば、すぐに死に至らせていた。

なにしろ目がまともでなかった。人間の理性がとうに失われたような、獣性の目つきだった。あの目に傾注されるかと思うとぞっとする。そして、それはいつ起きてもおかしくないように思える。

実のところ、三人は大西エリの取り巻きで居ることに疲れていた。もうこれ以上一緒にいると、いつ命を落としてもおかしくない。しかし、今までが今までで現在のバランスを揺らすと三人に危害が及ぶのも確実で、だから動けない四面楚歌だった。

三人は無言で歩き続ける。

「じゃあ…」

ギャル系の女の子が離れる。

二人だけになっても無言は続く。

「じゃあ…」

「ねえ」

少しクール系の女の子が話かける。大人な感じの女の子は振り向いた。

「私たち、大丈夫だよね?」

怯えた表情を浮かべている。大人な感じの女の子は額に汗を垂らしている。

「さあね」

そう言って、大人な感じの女の子は別れを告げた。



ユカコが産まれたときから続いている公園の工事現場は立ち入り禁止のバリケードが設置されているが、夜中だと見張りのおじさんもいないのでなんなく侵入できる。

夜中出歩くことは大変危険だと理解しているが、外の空気が吸いたくてたまらなかった。

ユカコは不自然に設置されたベンチに横になる。空は昼とは逆転し、夜の星を包み隠さない。

ユカコはポッケから、今日の朝拾った小さなハーモニカを取り出す。

小さなハーモニカであるのだが、自分の手にやってきたことは運命のように思える。

何年も前からユカコはハーモニカが欲しかったが、欲しいで留まり、購入することはなかった。それがついに手に入ったから、感動ものである。

ユカコは息を吐いて、吸って、適当に音を出す。その音を耳にするだけで心が安らかになっていくような気がした。

足音が聞こえる。誰だろう。振り返ると、少し離れた場所に、高山が立っている。ユカコの気分に灰色の雲がかかる。

「お久しぶりですね。珍しい」

高山は雨も日光もないのに、黒い傘を差していた。一体何から身を守っているのだろうか。

高山は傘を畳む。手つきが雑で、傘が不満を持ちそうな畳まれかたになっている。

「それはハーモニカですか。いいですよね、ハーモニカ」

「私のものじゃ、ないけどね」

「ほほー、では誰のだというのです」

正直誰のだってかまわない。不毛な会話のように思えた。

ユカコは出来る限り、高山とは関係を持ちたくない。F国から派遣された人間と親しくすれば、寄せたくない気持ちが汚された気がするから。それに加えて高山という人間はじめじめと暗い場所に好んで潜んでいるからなおさら嫌いだった。

「これは奇縁のように思われる。私はちょうどあなたのような人がどこかこの村を歩いていないかなと思っていたんですよ」

いちいち癪に障る男だと思う。ユカコは相性の悪さを感じる。彼女の要求と反対に高山は立っている。ユカコがどれだけ望んでも、特別は認められなかったのに、特別ではない私を探して居たとは残酷にもほどがある。

「いったい、なんだっていうのよ」

苛立ちながら聞く。高山は微笑んでいる。畳んだばかりの傘を開くと、中からトランペットが出てきた。ただのトランペットではない。カナタのものだ。ユカコは思わず立ち上がった。

「どうして、あんたが持っているんだよ」

「彼女、捨ててしまったんですよ」

捨ててしまった? 開いた口が塞がらない。高山の言動は信用できないが、それが本当だというのならば、どれほどあの子は特別を拒絶すれば気が済むのだろうか。カナタを許せない。

「それでね、私もあなたと同じ気持ちを抱いている。そうでしょう」

何がそうでしょう、だ。ユカコは癪に障りすぎて、地面をバシバシけり続ける。

高山は依然笑い続けている。

「私ですとね、カナタくんも警戒して受け取ってくれないのですよ。だから、お友達のあなたにならば受け取ってもらえるだろうと期待したいのですよ」

ユカコは高山からトランペットをもぎとった。

「別に友達ではありません。だからって、渡せないわけではありませんよ」

「ふふふ。よろしくお願いしますよ」

高山は傘で身体を隠して、傘を畳んだ。すると、姿は消えていた。

本当に癪に障る男だ。何をしたいのかわからないが、こうやって自分の目的を果たせばすぐ姿を消してきたのだろう。

ユカコは右手に握るトランペットをみる。カナタという人間もなかなか性根が曲がっている。私がカナタだったなら、トランペットを吹きまくって、早くこの村から出ていくのに。

カナタにもこの村から離れるに値する理由があるはずなのに、どうして。

ユカコはもどかしくてたまらない。思わず、言葉にならない声を叫んでしまう。

真夜中とか、関係ない。叫び終わると、案外すっきりした。

野犬が吠え返している。今の叫びで動物が獲物がいると御認識して、公園に集まるかもしれない。まだ死ぬわけにはいかない。楽しみは案外あるのだから。ユカコは早期帰宅することとした。


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